新国立劇場にて、香月修「夜叉ケ池」を観て参りました。
あらすじなどは、あえて書きませんがいくつか感想を。
音楽のこと
今回のプロダクションが初演となりますので、音楽的な予習はできず。ですが、予習なしでも当然楽しく感動的な2時間半でした。
オケがなり始めた途端に、フランス的な洗練された響きを感じました。登場人物の一人である百合のライトモティーフとおもわれるオーボエの旋律の美しさ、それから子守唄の美しさは素晴らしいものでした。子守唄は忘れられるものではありません。
今回、どうも中劇場の音響が随分デッドに感じられました。響きがない感じで、和音の響きが劇場内の隅々まで浸透仕切れていないように感じました。中劇場で聴くのは5回目ほどでしたが、こうした気付きを得たのは初めてでした。私が変わってきたのだと思います。あるいは、演奏が影響してそうした気付きにつながったのか。今はまだ整理がつきません。
演出について
今回の演出解釈ですが、気づいた点がいくつかあったので書いておきます。
物語のポイントの一つとなる釣鐘や、晃が来ている上着、舞台の両脇にそびえる木の柱には、荒々しい唐草模様が刻まれています。この模様が、私には縄文土器の模様であったり、アイヌ系の衣装の文様に似ていると思えたのです。
縄文時代から綿々と受け継がれている釣鐘であったり上着であったり、と考えると、竜神との契約は2000年以上前までに遡る事のできる契約であったのか、と思わされました。
それだけ長い間の契約であったにもかかわらず、それを破ってしまった人間は、最後には濁流に飲まれて滅びてしまいます。残されたのは真っ暗の茫漠たる巨大な空間だけでした。
このメタファー、どうにも福島を思い出さずに入られなかったのです。特に、最後の最後で、破壊された釣鐘が闇の中から浮かび上がってくるとき、人間の叡智だったはずの機構が破壊されてしまったという事実を思い出さずにいられません。それがどうにもあの破壊された建屋の映像とオーバーラップしてしまうのです。
地震の原因が何かは知りませんし、自然との契約を破ったこともないはず。あるいは自然との契約などしていないはず。ですが、なにか自然に後ろめたさを感じてしまう。だからこんなことを思いついてしまうんでしょうね。時代が時代ですので、そうした読み方もおそらく許されるでしょう。
本日はこの辺りで。
あ、今日、意外な所で素晴らしい絵を観てしまいました。油断なく目配りしないとなあ。
では。