2012/2013シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

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昨日は東風が強くて、新国立劇場玄関横の水庭が波立っていました。波面が輝きなんとも美しい風情です。
昨日に引き続き《夜叉ケ池》のことを。
もう一度原作を読んでみて、オペラ化において強調されていたことはなんだろう、と思いました。
生贄のくだり。原作では命は取らないとされていますが、オペラにおいてはその部分が曖昧にされていたような。私の聞き落としかもしれませんが、もしそうだとすると切迫感はオペラにあり、原作の方が逡巡感があります。ですが、その後の百合の自殺との整合性はオペラのほうがしっくりきます。
あとは、自殺の場面です。オペラでは、髪を振りほどき、「もう沢山でございます!」と言って自死しますが、原作では、「もう沢山」、とは言わず、「みなさん、私が死にます」といって、死に至ります。
この場面は、オペラですとますます、世の馬鹿馬鹿しさとか、男性原理への辟易なんでしょうね。もう勝手にしてくれ、みたいなニュアンスが強まります。
思うに「世の中のことは全て間違っている」わけで、清濁併せ呑むぐらいでないと生きていけないのが現代ですが、追い込まれれば衝動的に百合のように「実力行使」を迫られることになるのでしょう。あるいは、舞台上の百合が我々の代わりに「実力行使」をしてくれたというべきでしょうか。百合の死を我々観客は自分のこととして受け止め、劇場空間で死に至り、劇場をでて生まれ変わるということなのでしょうか。
どうにも、最近オペラ演出の解釈において、男性原理批判的な解釈に思い至ることが多くなりました。おそらくは、先日ペーター・コンヴィチュニー演出の《マクベス》を観たり、森岡実穂さんの「オペラハウスから世界を見る」を読んだからかも。

この本、とてもおもしろいのです。またあらためて書きますけれど。