何度か紹介していますが、土曜日に発売された図書新聞に書評が出ましたので、改めて紹介します。
エーリヒ・クライバーの評伝がアルファベータから発売されています。
図書新聞に書評がでていますが、こちらの書店で販売しています。是非ご入手ください。
青年期まで
エーリヒ・クライバーは、育ちはプラハなどですが、オーストリア帝国で育ったことには変わりありません。ウィーンっ子と言ってもいいかもしれません。シュトラウス一家のワルツを好んだのもそういう理由なのかもしれません。
書評には書ききれませんでしたが、音楽に目覚めたあとの経歴はずいぶんカッコいいです。才能というのはこういうものなのですね、と思います。
例えば、ダルムシュタットの副指揮者時代には、《ばらの騎士》を初見で振ったという伝説をもっています。実は、本来の指揮者が病気に倒れたため、一夜漬けで準備してゲネプロをしたということのようです。リヒャルト・シュトラウスもそのことを覚えていて、クライバーのことを「私の《ばらの騎士》を初見でこなしたのはあの男だよ!」と言って喜んでいたらしいです。カッコよすぎです。
ベルリンの黄金時代
その後、デュッセルドルフを経て、ベルリン国立歌劇場の音楽監督になりますが、そこで活躍っぷりが凄いのですね。エーリヒ・クライバーが音楽史に残した功績というのは、いまでこそはベルクの《ヴォツェック》を初演したということで一括りにされてしまいます。
ですが、その他にも、たとえばダリウス・ミヨーに《クリストフ・コロンボ》というオペラがあるんですが、そのオペラをベルリンで初演して大成功させています。また、ヤナーチェクのオペラを取り上げたりと、シリングスを取り上げたりと、現代音楽を随分取り上げていたようです。
《クリストフ・コロンボ》の成功はフランス議会で問題になったそうですよ。なんで、フランスで初演しなかったのだ、という議論だったようです。
この評伝でベルクの妻のヘレーネも取材を受けているのも時代を感じさせます。ヘレーネ夫人に言わせると、ベルクとエーリヒ・クライバーの仲は「まるで男の子が二人いるみたい」ということだそうです。きっと、無邪気に仲良く難しい話を色々していたんでしょう。そのベルクからの書簡もいくつか取り上げられているのも興味深いです。ベルクも経済的に大変だったのだなあ、などと思うところが多々ありました。
それから、本当かどうかはわかりませんが、先日書いた運命の失神なども、興味深いエピソードでした。
ベルリンを去ったあと
ナチスと対立して、ベルリン国立歌劇場を去ったあとは、南米で活躍というか、苦労を重ねたようです。最近、コロン・リングが話題になっていますが、ブエノスアイレスのコロン歌劇場でも随分振ったようです。
戦後は、ヨーロッパに戻ってきて、ベルリン国立歌劇場の音楽監督にもう一度なりますが、当局と対立して、退任せざるを得なくなります。当局の干渉によるものなのですが、その理由も、ちょっとおどろくような理由でした。
ただ、どうも本当はウィーン国立歌劇場の音楽監督になりたいという気持ちが終生あったのではないか、と私は考えていますし、そうした内容の示唆をいくつか見つけることができます。
ですが、戦後のウィーンは、ベーム、カラヤンですからね。クライバーの入る余地はなかったのかもしれません。カラヤンと違って、どうも政治的な動きというこのをクライバーはあまりしなかったようで、そういう意味では芸術一筋な人だったのだと思います。
息子のカルロスのこと
ちなみに、カルロス・クライバーの幼少期のことは、いくらか出てきます。おもしろいエピソードでもいくつか見つけることができます。ただ、あとがきに書かれているように、そこまでたくさん書かれているわけではありません。残念ですが、カルロス・クライバーの初めての指揮者デビューで、偽名を使っていたエピソードも出てきませんでした(逆に言うと、本当にそうした事実があったのか、という疑問はありますね)。
終わりに
この本は、クラシックが最も華やいでいた最後の時代である戦間期の空気がよく読める良書で、随分勉強になります。お勧めです。
この三連休は天気は悪かったものの、随分いろいろなことが出来ました。まだしたりませんけれど。あすからまた戦場へGO。
それではグーテナハト。