Miscellaneous,Oboe

楽しすぎる妄想であるオーボエ始める計画。
高校3年のとき、何か一つ楽器をやりたくて、サックスを選んだんですが、まあ、理由は当時好きだった伊東たけしの影響が多々ありというところ。
ヤナギサワのアルトサクソフォーンを友人O君と一緒に購入に行きました。大学浪人が決まったタイミングだったので親から勘当されました。
浪人中は毎日30分ほど押入れの中に入ってサックス吹いてましたが、一年経ったら、スケールぐらいは吹けるようになっていて、ジャズ研に予定通り?楽器経験者として入れたというわけです。
しかし、ルーツはクラシックだったので、本来的にはオケと相乗りできる楽器を選ぶべきだったのでしょう。ジャズとオケのあいのり楽器は、トランペット、トロンボーン、フルートぐらいしかないけれど。
オーボエは、宮本文昭なんかで知っていて、高校生のときにコピーなんかしてましたね。宮本文昭がタモリがやっていた「クイズ音楽は世界だ」にでた時に、カッコいいな、と思いましたが、あ、オレにはソプラノサックスがあるから、と思ってました。
まあ、でも、茂木大輔さんの本を夏に結構読みまして、かなり焚き付けられてしまいました。読んでいたら、あの楽器ばっかり練習して時間を忘れる感覚が甦ってきたのでしょう。完全に無になって、自分が指と音の中に溶けていく感覚。
やっぱり、楽器やらないとわからないことはたくさんあるのだろうなあ、と。あとは、楽器やらないと脳が溶けてしまいそうで。。
さしあたり、EWIを練習します。
ちなみに、茂木さんの素敵な本「アイネクライネな我が回想」の書評が図書新聞に出てます。お近くの書店で是非茂木さんの本と図書新聞をご入手ください!
今日は土曜日ですが、夜中に会社に行きます。そちらも戦い。
では、今日は昼なので、チュース。

Richard Wagner

帰宅の電車。人身事故で、1時間立ち往生しまして、その電車の中で書いています。
しかし最近はずいぶんと良くなって、事故現場の様子を(タイムリーでもなく、正しいとも言えないのでしょうが)きちんと放送で伝え、運転開始時間の目処もきちんと伝えてくれます。何も知らされずにイライラすることもありません。これもホスピタリティの一環なんでしょうね。
さて、ワーグナー本をいくつか読んで、ずいぶんと理解が進みました。
というわけで、三年前にDVDから音源に落としていたブーレーズが振ったバイロイトでのリングの音源を聞いています。
この時の演出は、パトリス・シェローで、リブレットを拡大解釈して、リングの物語を19世紀以降の資本主義批判の物語に読み替えた、というのは周知の通りです。
当時のバイロイトにおいては画期的あるいは革命的な演出だったようです。
今からこの映像をみると、何が斬新なのかわからず、戸惑うことがあります。
確かに、我々はもうシェローのリング以上のリングを見ているわけですから、そこには新奇さを求めることはできなくなりました。
資本主義批判としての演出は、サヴァリッシュがバイエルン国立歌劇場で振ったレーンホフ演出のラインの黄金でも感じましたし。
あるいは、シェローの演出自体を多義的な解釈で咀嚼していく、とか、そういう見方になるのでしょうか。
っつうか、もっと映像も見ないと。
今週末は徹夜仕事です。
というわけでグーテナハト。

Miscellaneous

昨今切実な楽器やらねば強迫観念。いや、ほんと、聴いているだけではダメかも、と。

茂木大輔さんの本を読んだのと、のだめを読み直したのが原因。

そうか。オーボエは習わないとダメなんですね。サックスを独習した我流派の私には少しつらい。

でも、興味ありすぎなので、茂木大輔さんの、オーボエ教則本を予約してみました。
リードも高いんだろうし、楽器自体も高いし。
Twitterにも書きましてが、ジャズとオケ、相乗りできる楽器にすれば良かったですよ。フルートとか、ペットとか。

でも、伊東たけしが好きだったのだから仕方がないです。

では短くグーテナハト

Book

もしあなたが美を謳い上げるとすれば、それは美が存在するからではなくて、美を存在させるためなのです。多分これが批評家の正しい役目であり、尊厳なのです。多分そこから彼らも創造という作業に加わることができるのです。


メイ・ジンという美貌の中国人ピアニストをめぐる、フレデリック・バラードとレオ・ボルドフスキーという二人の音楽評論家の論戦は、不思議な結末を迎えました。
二人の架空の音楽評論家は、メイ・ジンをめぐる論争から、ほとんど個人攻撃とまでいえる過去の記憶への機銃掃射を互いに行い、血だらけになって傷つくのですが、奇妙なことに撤退と和解へと進んでいくのです。
それは、メイ・ジンを徹底的に攻撃したレオ・ポルドフスキーが、もう一度メイ・ジンの演奏を聴いたあとからでした……。
「ピアニスト」は西欧音楽の普遍性を論じながらも、書簡体小説として、書簡と書簡の間に横たわる空白の文脈への想像あるいは妄想へとさそう、文学を読む愉しみをももたらしてくれる「小説」でした。
もちろん、ここで論じられている問題は、既に論じつくされたことなのかもしれません。西欧音楽の普遍性なんていうものは、絵空事といえるのかもしれないわけです。
ですが、私は冒頭で引用した一節、これは敵であるフレデリック・バラードに対して、レオ・ポルドフスキーが、和解とも言えるメールを書くのですが、その中の一節です。
別に普遍的美などあろうがなかろうが関係なく、それがあるということを前提に、あるいは信じ、それを表現するということ。批評の素材として音楽そのものも重要だが、それを「美」として解釈することも、「美」を創造するプロセスである。
そういう議論です。
私はこの議論を諸手を挙げて賛意を示すわけには行かないのです。というのも、こうした言動は、当然では有りますが、批評家側からしか出てきません。これは自己賛嘆とでも言える言辞なのです。音楽家から同様な言葉が出てくればいいのですが、私はそうした言葉を聞いたことがないのです。
ですが、私の中に常にある疑問、生成者と受容者の関係に関する疑問の解決へと少し励まされた気がするのです。
生成できるものだけが、その美を享受することができるのか、という問題。生成者同士で、隠語のようにその秘術的な美を崇拝しあうのではなく、非生成者にも、美という秘仏の背光を浴びる権利あるいは可能性があるのではないか、ということなのです。さらに議論を進めて、その秘仏の背光を作り出しているのが非生成者である受容者ではないかということです。認識論的な問題かもしれません。受容者こそが生成された素材に美という価値を無意識に与えている。それを言語化レベルまで引き揚げることで、明示的な美を生成する……。
リスナーがいない音楽は意味が無い、といった浅い議論ではないはずです。
だからこそ、「創造」という言葉が出てくるのでしょう。
ただ、やはりどうしても、私はこの批評家が美を創造するという考えが、完全に胸のつかえをとるものではないようにも思っているのです。
総じて、本書には大きな満足を覚えました。そしていろいろなものを得ました。文学的にも美学的にも。
ただ、この後どうすべきなのかが、私にはわからないだけなのです。
ではグーテナハト。