Computer

MacFan 2016年 03 月号 [雑誌]
毎日コミュニケーションズ (2016-01-29)

MacFanというApple製品を取り上げる雑誌の3月号を読みました。その中でフリージャナリストの林信行さんが、映画「スティーブ・ジョブズ」を見た感想を書いておられました。その中に、ジョブズが持ち続けていたとされる使命である「コンピュータは人々の能力を増幅する自転車」という言葉が紹介されていました。人々の能力が増幅されれば、世界のどこから「世界を変えようと本気で信じている人」が「人類を前進されてくれるから」ということが、スティーブ・ジョブズの信念だったそうです。

さて、昨今仕事をしていて思うのは、悪は善よりも強い、というものがあります。まあ、悪という概念自体相対的なものなので、言葉遣いとしてはイマイチかもしれませんけれど。悪という言葉ではなく、規範を破る者、という言葉の方がしっくりきます。

規範というのは、明文化されているものもあれば、道徳概念のようなとある文化範囲内における暗黙了解のものもあれば、人それぞれによって異なる価値観のようなものまでいろいろあります。そう言った規範を守ろうとする向きにおいては、そうした規範の制約に束縛されますので、その行動自体が制限されたものにならざるをえません。ですが、規範を守らなければ、何をやっても良いわけで、最終的に何らかの刑罰が加えられる可能性があるにせよ、その時点時点においては、規範を守らない方が優越なのです。例えば、化学兵器が禁止されているのは自明ですが、使用すればその瞬間は使用したものが絶大な優位を保つことになる、ということに例えられるでしょう。

コンピュータによって、自転車を得た人間がどこに向かうのかは、おそらくはそうした規範に関する考察がセットにならないと、人類を前進させるかどうかという議論には繋がりにくいです。昔からよくある科学の進歩と同じ話です。ジョブズの信念と言われているものは、一定の高いモラルを持ったグループにおいては、有用であるにせよ、そうでないところであれば、どうなるかはわからず、先程言ったように規範の制約がない場合においては、悪い方向に進む可能性が高いのです。

なので、林信行さんは、「デジタルは自分と考えが違う人をたたいたり、揚げ足をとったり、人を引っ掛けてお金を騙し取る道具になったり、スキャンダルを広める道具になってしまった印象がして残念でならない」と書いているわけで、「道具は十分に進化した」けれど、「これからはそれを使う人間の側の進化が求められている」と書いているわけです。

インターネットの行く先

昔は、インターネットが世界を変えて、より良い世界になるのでは、という微かな希望のようなものがありましたが、今では、インターネットは逆の方向への手段になっているということは本当に残念でなりません。

あらゆる物事には良い側面と悪い側面があるのは自明で、コンピュータテクノロジも同様です。どちらか一方、というのはたとえ良い側面に触れたとしても過激思想です。なぜなら良いということは、絶対にないからです。

ただ、少なくともそうした議論が今のところできている、ということだけが良いことなんでしょう。良いことそれ自体ではなく、良いか悪いかの議論ができるということだけ、です、まるで、「我考える、ゆえに我あり」という、事態や行動にのみ意味がある、ということのような。なんであれ、正しい正しくない、あるいは良い悪い、ではなく、知れるかしれないか、と、議論するかしないか、ということが重要です。結果はその次です。

知るということ

まあ、コンピュータテクノロジが進化し、インターネットがここまで反転すると、情報流量が人間の処理能力を超えますし、情報の中に含まれるノイズも激しさを増していて、「知る」ということ自体も揺らいでいる外す。おそらくは今後はビックデータ解析にAIが使われることになり、そうした人間の処理の雨量を超えた情報流量からノイズを取り除き、なにが「真実」か、ということを判断するのもコンピュータに任されるという時代が来るのだとも思います。そうすると、悪とか善という概念もAIのプログラムロジックにおいて記述されるということ、なんでしょうかね。

倫理がロジック(論理)に記述される時代、ですか。物理学と宗教が接近するという話はよく聞く話です。かつては、哲学において同じく扱われていた物理学と神学が接近しているということ。同じく、かつては哲学において倫理学も論理学も同じく扱われていたわけですが、将来、またコンピュータテクノロジにおいて倫理学と論理学が合わせて扱われる時代が来るのでしょうか。

学際とコンピュータ

Appleの理念はかつて書いたようにテクノロジとリベラルアーツの交差点、とされています。厳密には、哲学はリベラルアーツの上位にあるものとされていますが、かつては、そうした学問は現在のように分化されておらず、一人の学者が学をまたがっていたわけです。そうした学際的な動きがいっそう必要な時代ということなのだと思います。

ただ、そうした学際的な動きは、これまでもずっと行われていることではあり、ここまで専門化した現代においてはますます難しいことのように思います。

でも、ここでもまたビックデータとAIの時代が来るのかもしれません。ワトソンが、文献データを読み込み学者の判断を後押しする、という時代になれば、学際的な動きはますます進むかも、などと。

だとすると、やはりコンピュータは頑張ってもらわなければならず、まだまだフロンティアはありそうです。いい夢が見られそうです。

では、おやすみなさい。グーテナハトです。