変わりゆく世界に
どうも、最近は「変化」をネガティブにとらえがちなのかも。
帰宅しながら、聴いたこちら。
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ヨッフムの振るブルックナーの交響曲第7番。これを聞いて、真っ先に寂しさを感じてしまったのですね。歴史の終わりに際して、ロマン派が大きく花開いた時代に書かれたこの交響曲の大きさとか美しさのようなものが、郷愁と哀愁を帯び散るように思えて。
ただ、歴史はこのブルックナーの交響曲第7番以降何度も終わっているのでした。まずは第一次世界大戦で終わり、第二次世界大戦で終わり。そして、もしかすると、それから何度も何度も歴史は終わっている。つまり断絶しているのだ、と。ただ、それは私がこの交響曲を聴いた30年前スパンで捉えているに過ぎないのだなあ、とも。30年前はまだソ連がありましたが、あれからも何度も歴史は断絶しています。ベルリンの壁が壊れ、9.11があり、数多の戦争があり、3.11があり。断絶という言葉をあえて使いますが、実際には歴史の転換点のようなものであって、その中で、失われるものもあれば、生きながらえるものもあるわけです。そうした生きながらえているものの一つにこの交響曲があるのかもしれませんが、その生き方もやはり変わっているのだとも思います。
今日この交響曲を聴きながら思ったのは、不協和音の多さやめくるめく転調でした。当時はおそらくはとても画期的なことだったのではないかと思うのです。ですが、同時代のフランス近代音楽や、その後のシェーンベルクやベルク、ウェーベルンなどによって、その画期性は陳腐化したのでしょう。それでもなお、生き残っているのは、特定の領域に受容されるそれ自体の美しさのようなものがあったり、あるいはその時代時代で新たなパースペクティブを持っていたからでしょう。
ですが、私には、まだその新たなパースペクティブのようなものがわからず、もしかすると(私の勝手な想像ではありますが)、教授の職を得ようと、唯ひたすらに作曲に没頭し、ヴェルデヴェーレ宮殿の庭師の小屋に住むブルックナーの姿と、それを取りまく、フランス革命後の自由の気風とそれに対する反動の戦いが見えてしまい、それがどういったアクチュアルな意味を持つのかというのがよくわからず、ただただ、美しいという感想しか思い浮かばないのです。私はこの曲をドイツ旅行からの帰路、夕刻のシベリアで沈みゆく太陽が雲海を金色に染める風景を見ながら聞いたことがあります。あの神々しい風景がおそらくはこの曲と結びついていて、何かイデアールなものを想起させてしまうわけです。
私はこの文章を書く前に、寂しさを覚える、とまで思いました。歴史の終わりにあって、この美しさはすでに失われたのではないか、という思いからです。ですが、それは間違っているとも思いました。ただ単に、それは経験に左右されるものであったり、極度に19世紀ロマン派の考え方に拘泥しているからに違いないのです。確かにこの曲の実在のようなものは今ここにあるわけで、それが「歴史の終わり」のようなものを何度も何度も通り抜けながらもここまで至っていて、時折この極東の国でも演奏会にかけられるような状態にあるということは、「歴史の終わり」に際しても、この曲に美しさや力がのこっているだけではなく、「歴史の終わり」は「終わり」ではなく、次の「歴史の終わり」への道程に過ぎないということなのでしょう。
この曲はおそらくはこの後もしばらくは美しいものを表出し続けるでしょう。ただ、文化文明というものが本当に儚いということも我々は知っています。良いという価値が相対的であることも知っています。昨今、イタリアでは文化予算を増やしているようです。その理由が何であるにせよ、彼らは重要性をわかっているということも改めて思いました。また、日本人の我々が、この曲を聴いているということに対する疑問もやはりなお残ることは言うまでもありません。
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