夕映えの記憶とともに──マーラー交響曲第2番「復活」

昨夜からの雨は、今朝もまだ残っていて、自宅をでるときもやはり傘を差す必要があった。冬の雨は、夏の雨のように激しく降ることはなく、ただ、静かに、冷たく、地面を打つのみだった。

今朝から聞いているのは、やはりアバドが振るマーラーの交響曲第二番。

幼き頃(といっても12歳になったかならないかの頃だと思うが)、NHK-FMのエアチェックで、この曲を初めて聴いたときの記憶は忘れられない思いがある。第5楽章の最後の場面、これでもか、というほどに高揚する終幕部は、当時聴いたことのない音楽だった。こんな音楽があるものなのか、と、激しく驚いた。バーンスタイン振る音源だったはずだ。

あの高揚、何百回ときくうちに、初めて聴いた時の衝撃は蘇ることはなくなってしまい、かすかに衝撃の残滓が記憶に残るだけになった。記憶の海を縦横無尽に行き来することができるにせよ、衝撃体験はどう追想されどう再現すべきなのか。体験それ自体ではなく、体験が存在したことだけが記憶に残っているだけなのか。そんなことを考えながら、帰宅の電車の中で、衝撃を再現しようと何度も何度も第5楽章の最終部を繰り返し聞いてみた。

そういえば、今日の夕映が、仕事場の窓から差し込んでいた記憶があった。湾岸の海が輝いていて、金色の光が窓から差し込んでいた。時に夕映えは見事だが、感動は失われ、感動の記憶が残る。あるいは、その感動は変質する。二度と帰らないその場その場の感動に打ち込むことの重要性、一回性のアウラ、なんだと思う。記憶も複製とすれば。

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