辻邦生「小説を書くということ」
中公文庫で今年の春に発売されていた「小説を書くということ」
これまで、単行本に未収録だった文章も所収されているということでKindle版を買い、ついでに、軽井沢高原文庫で文庫本にも手を出してしまいました。
そのなかでも、「小説家としての生き方」が割と興味深く、何度か電車のなかで読んでいた感じです。こちらは、「詩と永遠」に収められていた文章なので、かつて読んだはずですが、あらためて勉強になりました。
こう考えてきますと、力強い小説(それは面白い小説とも、昂揚感を与える小説とも攫搏力のある小説とも時代の鏡である小説ともいえるわけですが)を書くためには、小説家の側に全体を鳥瞰(直覚)する視点と、確信できる価値の根拠が必要ですし、また小説形式については「情緒=観念」の伝達という、事実的情報伝達を超えたレヴェルの確認が絶対的な条件になるでしょう。
力強い小説には、
- 鳥瞰し直覚する視点
- 価値の根拠
- 事実を超える情緒と観念の伝達
が必要であると。
しかし、これはなにか、小説に限らず、仕事で力のある企画を作るのにも共通する要素でもあります。全体感のなかで、価値を見出すこと。しかし、そこには、定量的な効果を超えるビジョンがなければ、通る企画も通りません。ナラティブ、ストーリーが企画には大切だ、と言われることもあります。
しかし、ここまで書いておきながらなんですが、小説のそれと、企画のそれは、違うこともあるのです。私は、それは、量感であると思います。チャラチャラした企画資料に、全体を俯瞰したビジョンと物語を組み込むことはできても、それは単なる企画であり、完成品ではありません。そこに、中身がなければ、単なる小手先なわけです。小説は、おそらくは、そこにかけられた時間と文字というものがあります。そこにはロジックだけではなく、あるいはあらすじだけではない量感があります。それが、真の情感を生み出すわけです。
過度な効率化、あるいは本屋に溢れる仕事術、ロジカルシンキングの類は、確かに、そこにある種の解決感を生みます。数多の経営者がそうした企画な飛びついたわけですが、そこに残されたのは、空漠とした社会であった、となります。
小説家は、そこにかけられた時間、まるで、降り積もる時間のなかで、文字を穿ち、たとえ100匹の羊を数えることがあっても、100匹それぞれの羊を書き分けることになるのでしょう。AI時代のこれからは、あるいはこうした文字を穿ち量感を持つ小説が再発見されるかもしれません。
ちょっと長く書いてしまいました。すみません。それではおやすみなさい。
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