聖ロンギヌスの聖なる槍──パルジファルによせて その1
こちらの写真は、2008年に訪れたヴァチカンのサンピエトロ大聖堂にある天才ベルニーニの手になる聖ロンギヌスの彫像。聖ロンギヌスは十字架にかけられたイエス・キリストの脇腹に槍をさしてとどめを刺した人物。キリストの血を浴びて、白内障が治ってしまい、後に列聖されるという人物。とはいえ、実在したかどうかはわからない。
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もちろん、この彫像の右手で持っているのが聖なる槍。すなわち聖槍。
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ということは、もちろんパルジファル。
パルジファルまであと三日。予習予習。
っつう感じで、この一週間はパルジファル漬けなんですが、東京春祭のこの以下の4つの記事が予習用として秀逸です。
“http://www.tokyo-harusai.com/news/news_443.html":http://www.tokyo-harusai.com/news/news_443.html
“http://www.tokyo-harusai.com/news/news_449.html":http://www.tokyo-harusai.com/news/news_449.html
“http://www.tokyo-harusai.com/news/news_459.html":http://www.tokyo-harusai.com/news/news_459.html
“http://www.tokyo-harusai.com/news/news_520.html":http://www.tokyo-harusai.com/news/news_520.html
リブレット読んだり、カラヤン盤の解説を読んだりしているんですが、実に興味深い。演奏会形式で見るのはもったいない。演出付きで見てみたい、という思いが強いです。
たとえば、「ダ・ヴィンチ・コード」をお読みになれば、聖杯と聖槍がなんのメタファーなのか、というのはおのずとわかりますし、そうすると、リングにおけるノートゥンクのメタファーとの関連性も見て取れる。
第二幕でクンドリがパルジファルを誘惑する場面は、「ジークフリート」のブリュンヒルデ覚醒の場面のミラーリングにも思えてなりません。クンドリは「私の接吻があなたに叡智をもたらしたのでしょうか?」とか「あなたに神性をもたらすでしょう」という。ブリュンヒルデもやっぱりジークフリートに知識を授けているし、ブリュンヒルデの神性は逆にジークフリート誕生に寄与したために失われていますし。
それから前述のリンク先に指摘されていたんですが、この物語には、キリストその人についての叙述がなく、典礼の言葉もないという不思議さ。おそらくは、ワーグナー自身がそれにあたるものとしているんじゃないか、と。
トーマス・マンの「リヒャルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大」を読んでいるところなんですが(これもめっぽう面白くて、何で今まで読んでいなかったんだ、という自己批判)、その中で愛情についての考察がいろいろ書かれていて、めちゃくちゃ興味深いんです。で、どうも、この愛と美というものが複雑に織り込まれている、あるいは織り込もうとしているのがヴァーグナーなのである、という直観に支配されています。
それと、ナチズムとの関連とか、ドイツ的なものとの関連とか考え出すと、身震いするぐらい面白い。この世界を20年前に知っていれば人生変わっていたと思います。
ちなみに、この「リヒャルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大」の後半に書かれている「リヒャルト・ヴァーグナーの『ニーベルングの指輪』」の結語が、ゲーテの「ファウスト」第二部の最後の一節なのです。
「永遠の女性なるものがわれらを高みに導く」
これ、もうご存知のとおり、マーラーの交響曲第八番の最後ですよね。もう、なんだか、頭の中が興味深い妄念で満ち溢れていて、仕方がありません。
明日からはマンに没入しつつ、パルジファルを聴く予定。マンの前述の本ではクンドリのことが分析されていたりして大変興味深いのです。
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