リヒャルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大
この本、25年前に読むべき本でした。全く、若き私は怠惰な人間でございました。でも、この本はヴァーグナーの楽曲に触れていないと理解できないのも確か。若き貧乏な日々に、オペラのCDなんて買うことは能わず、ましてやオペラに行くなんてことは難しいことでしたので仕方がないというところでしょうか。まあ、今もお金持ちではありませんけれど。
はじめに
トーマス・マンは、この「リヒャルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大」と題された講演ををミュンヘンで行ったのが1933年2月10日のこと。その後、マンはアムステルダム、ブリュッセル、パリを回ったのですが、その間、ドイツにおいてはナチスが全権を掌握してしまい、マンはドイツに帰ることができなくなるという時代背景があります。
ナチスがワーグナーの音楽を利用したという事実は消えることのないことですが、マンが必死にヴァーグナーとナチズムの相違点を整理しようという意図が見えた講演録でした。
心惹かれる文章。
このたぐいの本の書評を書くのはきわめて難しいのですが、私の方法論は引用をつなげていくという者になってしまいます。まだ書評能力が低いのです。まあ、それはそうとして、気になったところを。
劇場の聴衆の只中で味った深い孤独な幸福のあの幾時間、神経と知性とのおののきと喜びとに充ち満ちた幾時間、この芸術のみが与えうる感動的で偉大な意義を窺い知ったあの幾時間かを、私は決して忘れることができません。
29ページ
これは、激しく同意します。あの孤独とも一体感とも言えぬ劇場独特の儀式的パフォーマンスを秀逸に表した一文です。
ヴァーグナーが芸術を一つの聖なる秘薬と考え、社会の障害を癒す万能薬と見なした(中略)。ヴァーグナーにとっては、芸術が持つ浄化し聖化する働きは堕落した社会に対する浄化手段、聖化手段として見なされるものでした。美的聖別という手段によって社会を贅沢から、金力の支配から、愛の欠如した状態から解放しようと望みました。
13ページ
うまくいっているかどうかはともかく、リングの最終幕ヴァーグナーが意図していたことをマンが咀嚼してくれた感じです。でも、そこまで単純化できるかどうかはわからないです。というのも、こうした社会正義、革命的な思想を、若き日のヴァーグナーは持っていたのですが、一方で、借金を重ね奢侈な生活を楽しみ、バイロイトという「ヴァルハラ」を築くという、おおよそ庶民とはかけ離れた行動をしているのですから。
全体感
全体を読んで思ったところ。
ヴァーグナーというのは単なる音楽家であったわけではないということ。詩人でもあり音楽人でもあった故に、楽劇が誕生したのだという事実。両者に秀でていたということが重要。逆に言うと、両方から圧迫を受けていたわけでそれがヴァーグナーの苦しみでもあった、という論調でした。
ヴァーグナーは若き日に革命運動に身を投じますが、あれは、社会を改正するといった動機よりもむしろ、自分の音楽をきちんと発表できる場にしようとするという動機の方が強かったのではないか、という指摘がありました。もっとも、ワーグナーは芸術が人間を救済する手段であると考えていましたので、終着点は同じなのかもしれませんけれど。このあたりは、シュトラウスがナチスに協力した経緯とも少し似ている感じがしました。
ワーグナーをロマン主義者として定義付けするところがあるのですが、ここが実に面白い定義付けをしています。また引用しちゃいますと、
性的オペラの中で芸術と宗教とを結び会わせ、芸術家のこのような神聖なる非神聖さをルルドの洞窟の奇跡劇としてヨーロッパの真ん中で舞台に載せ、退廃した末世がみだらに信仰を熱望するその心をに向けて開示してみせるという能力
99ページ
これ、この前「パルジファル」を聴いたときに引き裂かれるように感じたことと一致するんです。聖化と性化の二律背反(と捉えるのも間違いかもしれませんが)があまりに不思議で不協和音に思える。それが最後に解決するのがブリュンヒルデの自己犠牲であり、パルジファルによるアムフォルタスへの癒しとクンドリの救済というところでしょうか。
ここでいう「性化」とは、一種のセクシャルなものを含むのは事実ですが、それ以上に、いわゆる「愛」と捉えるべきだとも思いました。そういった言説をヴァーグナーがしているということもこの講演の中で述べられていました。
この本は、二回ほど読みましたが、まあ、いろいろと前提知識が必要だったり歴史的背景の理解が必要だったりということで難儀なものでした。折に触れてちびりちびりと、ブランデーを飲むように読むと良い本でしょう。お勧めです。
ディスカッション
上川様
先日は有難うございました。
「辻邦生を読むグループ」の件です。
フーシェ革命暦が未完に終わったのはソ連崩壊と
関係があるという説は、私もどこかで読んだことがあります。
春の戴冠のサボナローラの過激な改革は確かに
文化大革命やカンボジアのクメールルージュを想起させるものが
ありますよね。
トーマス・マンの小説は、「大公殿下」を短めの長編と
見なすのであれば8作ありますけれど、
私は「選ばれし人」以外の7作は読了しております。
「ブッデンブローク家」は岩波と新潮で二回読みました。
次は講談社の松浦訳で読もうと思っています。
「トニオ・クレーゲル」は三回です。
「ファウスト博士」は岩波文庫で18年ほど前に
読了しましたけれど、今、新潮社版で
ゆっくり読んでおります。
新潮社版のいいところは「ファウスト博士の成立」が
オマケに収録されていることだと思います。
大長編ファウスト博士成立の舞台裏が分かって
読んでいて本当に楽しかったです。
ただ、不満があるとしたら注解が一つも付いていないことです。
ファウスト博士は、光文社古典新訳文庫あたりから新しい
和訳が出てくれないかと思っております。
無論詳細な注解付きのやつです。
「ヴァーグナーの苦悩と偉大」「ゲーテとトルストイ」は未読です。
「非政治的人間の考察」もまだですね。
私の貧弱な読解力で歯が立つ相手
ではないかもしれませんし…
パルシファルはお互い好きですよね。
上川さんはパルシファルの「アンフォルタス!!」という
絶叫に感動すると書いておられますが、
私はグルネマンツが好きです。
老練な武人で、人生経験を積んだ大人という感じがするので。
メルカッツ上級大昇みたいです(笑)
辻先生と、辻先生が最も愛し、尊敬していた
マンの文学や人間性がもっと理解できるように
これからも私なりに頑張っていく所存です。
長文乱文失礼いたしました。
越後のオックスさん、コメントありがとうございます。
マン、たくさん読まれて素晴らしいですね。さすがです。私は、魔の山、ワイマールのロッテ、ファウスト博士ぐらいでしょうか…。ファウスト博士も途中で息切れした記憶も。15年ほど前のことだと思う思います。ファウスト博士の成立は、辻先生も参考にされていた、と佐保子さんが講演でおっしゃっていた記憶があります。
アンフォルタス、人間らしくて好きです。私の分身のように思うことがあります。実演でアンフォルタス、と絶叫するところで、突然滂沱の涙が溢れた記憶があります。
私も、辻先生の文学もそうですし、そのほかの文学も読まないと、と思います。かなり焦り気味ですが…。
また今後もよろしくお願いします。