松本清張「かげろう絵図」読了。父から借りていたものをようやく読み終えました。というより、たしか日曜日から読み始めたのですが、上下巻合わせて昨日までに終わってしまいました。しかも上巻を読み終わってから、ハインラインの「夏への扉」も間に挟んで読了しましたので、「かげろう絵図」上下巻+「夏への扉」の三冊をかなりの読書スピードで読み終えまして、久々に高速道路を飛ばすような読書体験でした。ページをめくる速度は松本清張マジックにより加速度的に速くなり、読みながら心臓が高鳴ったり、爽快感を覚えたり、と実にエキサイティングな読書経験でした。こういう経験、久しぶりです。しかし、やっぱり松本清張は巧すぎます。描写視点を微妙にダブらせてみたり、主人公に思いがけない言葉を吐かせたり、手厚い描写がもたらす充溢感、などなど仕掛けが随所に。すごかったです。おすすめ度100%。
辻邦生「霧の聖マリ」読了
「霧の聖マリ」読了です。2ヶ月ぶりに辻作品の芳香に触れて感慨深いものがありました。
先にも触れましたとおり、ある生涯の七つの場所は、色の系列(7色)と数の系列(14篇)を掛け合わせて(98篇)プロローグとエピローグを加えたものですが、霧の聖マリでは、黄と赤におのおの7編を掛け合わせた14篇からなります。
黄の系列である「黄いろい場所からの挿話」は私Bが主人公の挿話群で時代は1970年代初頭のヨーロッパが舞台。「赤い場所からの挿話」は私Aが主人公の挿話群で1920から30年代にかけての日本が舞台です。
(私A、私Bはこちらを参照ください)
改めてプロローグを読み直してみると、スペイン内戦についての示唆が多く含まれていて、あとから登場するはずの人物達の名前も記されてあり、懐かしい思いです。
「黄いろい場所からの挿話」群では、おそらくはスペイン内戦に参戦した男達の影をいくつもいくつも通り抜けていきながら、私Bとエマニュエルのある意味独特な愛情関係をモティーフに、人間らしさとか、自由といった根本概念の考察が加えられていきます。
私Bとエマニュエルの関係はこの作品群に通底する大きなライトモティーフで、今後のことを知っているだけに、複雑な気分。あまり書くとネタバレですが、ともかく、この二人のある意味純化された美的な関係は実に甘美です。
「赤い場所からの挿話」群では、私A(私Bの父親なのですが)の幼少時代からの記憶をたどる物語。戦前の日本を舞台に、なかば哀切とした人間模様が語られていきます。逆境に耐え忍びながら、あるいは運命に抗おうと生きる男達や女達の物語を、幼少の私Aの視点から回想的に語られるわけで、胸を打たれるばかり。
今回も、読んでいくうちに今の自分にぴったりのことが書いてあって、空恐ろしさを感じた次第です。こういう経験は辻作品を読むたびに味わうので、最近では当たり前のように思っていますが、良く考えればとても不思議な出来事だと思います。
辻邦生「ある生涯の七つの場所」の再読を
辻先生の「ある生涯の七つの場所」について、2006年から2007年に掛けて集中的に書いていた時期がありました。そのころの記事を読んでくださったのだと思うのですが、先日ある方から心のこもったメールをいただきまして、本当にうれしい経験でした。この場を借りて改めてお礼申し上げます。
さて、私がこの連作短編集「ある生涯の七つの場所」を始めて手に取ったのは1992年の2月だったと記憶しています。場所は品川プリンスホテル内の書店にて。辻先生のお住まいは高輪でしたので、きわめて近い場所でこの短編に出会って驚きうれしかったのを覚えています。そのころのことは以下のリンク先の記事もお読みください。
https://museum.projectmnh.com/2006/11/29233753.php
さて、1992年といえば、もう17年も前のことになります。当時私は受験生でしたので(年がばれますが)、いろいろと思い悩んだということもあり、各月で刊行されていった「ある生涯の七つの場所」全7冊を発売当日に買い求め、そこになにか浄化のようなものを求めていました。 当初は法学部や政治学科を志望していましたが、おそらくはこの「ある生涯の七つの場所」をはじめとした辻邦生作品を読むことで半年後にはずいぶんと人間が変わってしまい、結局文学部に進むことにしたのでした。それはそれで本当に良かったと思います。
先日高校時代の友人達と会ったのですが(富士登山の友人です)、彼らと知り合ったのが16歳ぐらいですので、そこからまた17年とか経ってしまっているわけで、あのときまでの人生時間と同じ時間がたっているのだなあ、と愕然といたしました。
「ある生涯の七つの場所」は七つの色をモティーフとしたそれぞれ14の短編(7×14=98)に、プロローグとエピローグを加えた100の短編から構成される小説群で、長編小説ととらえることもできると思います。主人公は三代にわたる男たち。すなわち、
- 戦前にアメリカにわたって農業関係の研究をしている「父」の挿話群
- その息子である「私A」が戦前の日本で織りなす人間模様のなかで成長していく姿を描く挿話群
- 「私A」の息子である「私B」が、フランス留学中に知り合ったエマニュエルとの出来事や、スペイン内戦に関わる出来事に出会っていく挿話群
というぐあいです。
ともあれ、もう「霧の聖マリ」を半分以上呼んでしまいました。すでに通読しているからこそ意味がわかってくる挿話などがあって、特にスペイン内戦を巡って小説の水面下で繰り広げられる人民戦線に参加した男たちの物語を浮かび上がってくるのがとても興味深いです。このあたりは本格的に研究してみたいと思っているところです。時間をとれるといいのですが。研究したいと思ってからもう15年は経っていますね。光陰矢のごとし。されど「もう遅い」という言葉はありませんので、なんとか取り組もう、という決意。
さて、今週末の日曜日は新国立劇場で「ラインの黄金」を鑑賞予定。安い指環のセット売っていないかしら……。さすがにカラヤン盤とショルティ盤ばかり聴くのも芸がないような気がしてきましたので。超久しぶりにタワレコを急襲しようか、などと思案中です。
週末ライヴ──行人
ちと、いろいろあって、更新できずじまい。いかんですね。
本日は、東京フィルハーモニー交響楽団のオーチャード定期演奏会に行ってきます。指揮者はペーター・シュナイダー氏。氏の演奏に触れるのは三回目になります。1度目は2006年に発作的に訪れたドレスデンでみた「カプリッツィオ」。2度目は圧倒的パフォーマンスで涙が止まらなかった新国立劇場の「ばらの騎士」。否が応でも期待は高まります。モーツァルトの「ジュピター」、「ばらの騎士組曲」、「7つのベールの踊り」from「サロメ」。うーむ、楽しみです。
夏目漱石の「行人」、通勤電車で貪るように読んでいまして、こんなに面白かったっけ? みたいな感じで、驚いています。記憶から失われている部分ばかり。 漱石の心情描写は、説明的な部分と描写的な部分と分けられるのですが、説明的な部分がものすごくいいのです。ちょっとした挙措から、語り手の二郎が相手の心情を推し量っていったり、あるいは二郎の心情が虹色のようにどんどん展開していくのが面白いのです。
女性観も面白くて、坊ちゃんとか三四郎でもそうだったと思うのですが、女性がやはりどうにも強い感じで、唸ってしまう。おそらくあの時代にしてみれば、今よりももっと衝撃は強いのだと思いますが。「男はいざとなるとからきし駄目なのよ」みたいな台詞にしゅんとする感じ。
ジャック・ロンドン「火を熾す」
これは名著です。テーマとなるのは人間の戦い。それも自然、若さといった、決してそれより有利にはなりえない、どうしようもない強い者との戦いなのでしょう。
- 火を熾す:To build a Fire
- メキシコ人:The Mexican
- 水の子:The Water Baby
- 生の掟:The Law of Life
- 影と閃光:The shadow and the Flash
- 戦争:War
- 一枚のステーキ:A Piece of Stake
- 世界が若かったとき:When the World Was Young
- 生への執着:Love of Life
「火を熾す」では厳寒の北極圏を旅する男の物語。冷静にコントロールしているはずのものが徐々にコントロールの外にはみ出してくる不気味さ。「メキシコ人」はメキシコ革命をモティーフにしたボクシングの物語。「水の子」は老漁師の自然との対峙を描く。「生の掟」は年老いたエスキモーの緩慢な死への旅立ちを描く。「影と閃光」は一風変わった作品で、永遠のライバル同士のあくことのない戦いがSF的要素で描かれる。「一枚のステーキ」もボクシングの物語。若さと戦うベテランボクサー。「世界が若かったとき」もSF的。「生への執着」もすばらしく、北極圏をさまよう男が生と死の狭間で生き抜こうとするドラマ。
一番印象的だったのは「一枚のステーキ」。かつて名声を誇ったベテランボクサーは、いまや食うや食わずの生活。この試合に勝ちさえすれば30ポンドを得て、生活に小康を得ることができる。相手は若さがはち切れんばかりのボクサー。だが、ベテランボクサーは経験に裏打ちされた老獪な戦法でなんとか試合に勝とうとするのだが……、という感じ。ボクシングの試合運びの描写がすばらしくて、まるで実際の試合を見ているかのよう。もちろん、最後は若さを失った読者にとってほろりとさせられるものなのですが。
この短編でうたわれる名言は「世は若者に仕える」。とはいえ、若さとは相対的なものだと思いたい今日この頃でありました。
辻邦生「フーシェ革命暦」第一部読了
二週間ほど前から読み始めていた未完の大作「フーシェ革命暦」の第一部を読了しました。久々の辻邦生長編の世界に身を浸しきって、実に幸福な経験でした。
感想はともかく、少し輪郭について考えてみたいと思います。
ジョゼフ・フーシェという人は、フランス革命時の政治家です。当初はオラトリオ修道会学校で教師をしているのですが、フランス革命勃発とともに政治界に入り、国民公会の議員となる。ルイ16世裁判で死刑に賛成しました。その後テルミドールの反乱に参加。ブリューメル18日のクーデターではナポレオンを助け、執政政府の警視総監に就任。その後オトラント公となりますが、タレーランとの策謀が皇帝の不興を買います。ナポレオン退位後、ルイ18世治下で警察大臣となりますが、1816年に国王殺害のかどで追放されます。実に波乱に富んだ人生です。
「フーシェ革命暦」は第一部、第二部がフランス革命200周年の1989年に単行本として出版されます。元々は「文學界」に1978年1月号から1989年4月まで11年間にわたって連載されたものです。第三部については別冊文藝春秋1991年秋号から1993年夏号まで7回連載されましたが、そこで残念ながら筆が止まり、未完に終わるわけです。
どうして未完なのでしょうか?
月報の奥様の回想によると、同時に執筆されていた「西行花伝」の執筆が1993年夏に終了したところで、疲労のせいか、急性リュウマチにかかられたのだそうです。その時点で、「全く別の境地に達して」しまい、「二冊で完結したのだ」とおっしゃるようになったのだそうです。
とはいえ、この「別の境地」という点についてはもう少し考えてみても良いと思います。 とある方は、「われわれの時代自体が変わってしまったので、書き告げなくなったのだ」、とおっしゃっていました。私が第一部を読み終わって思ったのは、1991年のソヴィエト社会主義の崩壊がひとつの原因ではなかったかと考えています。
というのも、フランス革命の急進的な落とし子こそが、社会主義革命であったわけです。私は、辻邦生師がそうした社会主義思想にある種の共鳴を抱いていたのではないか、ということを、「ある生涯の七つの場所」を読みながら感じていました。そのことが、辻邦生全集第11巻の月報にかいてありまして(「近くの左翼集会に行こうとして」という記述、「マルクスの芸術論」など)、ようやく糸口が見つかったと思ったのです。
ただ、察するに、ソヴィエト社会主義に対しては厳しい見方をしていたのではないか、と想像するのです。それは辻邦生文学に底流するテーマだと考えている「性急な改革への警鐘」が物語っています。
この「性急な改革への警鐘」は、「ある生涯の七つの場所」においてはスペイン人民戦線の内紛劇をとって現れますし、「廻廊にて」では、マーシャの第一の転換=大地への恭順というテーマが、結局放棄されてしまう、といったところに示唆されています。あるいは、「光の大地」における新興宗教への指弾や、「背教者ユリアヌス」における、ユリアヌスの東方遠征の失敗などもそれに当たるかもしれません。また「春の戴冠」におけるサヴォナローラの改革が失敗に終わるというエピソードもそれに当たることは明白です(あそこは、文化大革命がモデルになっているように思えてなりません)。
ト社会主義の存立自体が、「性急な改革への警鐘」の対象だったわけですが、そのソヴィエト社会主義が崩壊することによって、指弾の対象が消失してしまいました。つまり、「フーシェ革命暦」に内在する「ソヴィエト社会主義」への警鐘がアクチュアルな意味を失ってしまったのではないか、ということなのです。
少々我田引水な部分もありますが、第一部を読み終わったところの感想は上記の通りです。
だんだん調子が戻ってきた──辻邦生「光の大地」
今朝は5時半過ぎに起床。最近は通勤ラッシュがいやなので、早めに会社に行っています。6時15分頃に家を出て会社に着くのが7時40分ごろ。まだ誰もきていませんし、始業時間は8時ですので、20分間はネットで新聞を読んだりします。朝の電車ではほぼ確実に座ることができますので、楽なのですが、睡魔に勝てず寝てしまうことも。ですが、今日は大丈夫でした。
今朝読んだのは辻邦生師の「光の大地」です。これは毎日新聞に連載された新聞小説です。昨日の帰りの電車であったいい事というのは、この小説を読めたということでした。
この作品は辻作品の中でもいろいろな意味で際立っています。たとえば、同性愛的要素が取り入れられていること。主人公のあぐりと、日本とフランスの混血の美貌の持ち主ジュゼは友情を超えた絆を持つことになります。このあたりが、この作品に対する評価に影を落としている向きもあるようですが、私にしてみれば、多少違和感は感じるにしても、受容できるのです。これは辻邦生師の女性賛美の結晶だと思うのです。
思い返せば、こうした女性同士の友情あるいは友情を超えた絆は、「廻廊にて」、「夏の砦」、「雲の宴」でも描かれていて、私は「光の大地」のあぐりとジュゼの関係もその延長線上にあると捉えています。
一方で、辻邦生師は、男女の愛もちゃんと描いています。たとえば「ある生涯の七つの場所」では、主人公とエマニュエルの深い結びつきを、今にも壊れそうなガラス細工のような美しさで描ききっていますし、同じ新聞小説の「時の扉」もやはり男女の愛を描いています。
ちょっと変わっているのは、年上の女性への追慕のような関係も見て取ることができて、これは「背教者ユリアヌス」で見られるユリアヌスとエウセビアの関係とか、「春の戴冠」で見られるサンドロ(ボッティチェルリ)がカッターオネの奥方に抱く憧憬の念などがそれにあたります。
それにしても、「光の大地」ではちりばめられたイデアールな言葉にある種の面映さも感じます。ですが、その先にあるものを汲み取ってこそ辻邦生師の良い読者であらんすとするのに必要なものです。「生命よりも大切なものがある」 「生活に黄金の時間を取り戻す」 といった記述は、それ自体でなにかくすぐったい気分になりますが、正面から向き合うと難しい問題で、日ごろのわれわれがそこから逃げ回っているのだ、ということを改めて痛感するのです。
仮に私が小説家だとしたら、辻邦生師のように書くことはできないでしょう。その理由は二つあります。ひとつは、新たに書くものが辻邦生師の焼き直しであってはならないから、という理由に過ぎないのですが、もうひとつは、私にはまだそこまで語ることができるほど世の中に向かっていないから、という理由です。願わくば後者の理由は克服していきたいと思うのですが。
それにしても描かれるタヒチの美しさといったら言葉がありません。実際に辻邦生師はタヒチへ旅行されていますので、そのときの体験が生かされているはずです。私もいつかは行ってみたいと思いますが、まだ当分は先のことになりそうです。
諏訪哲史さんの「りすん」を読む。
諏訪哲史さんの「りすん」を読みました。
芥川賞後初めての小説ということですが、そうそう長くもなくて、一気に読み終わるのですが、まるで蜜蝋を煮詰めたような充実度で驚愕しました。
うまく解釈できたとはいえなくて、今でも考えています。そういう意味では哲学書のように読み応えのある本。会話だけの小説という奇異さ、メタ視点が二重にかかっていると言う面白さ、現実のほうがより小説的であるという達観、奇抜な言葉の乱舞のこと。
ただ、言えることは、この本を読むということは、あまりにもすさまじい頭脳とやり取りをしているのだな、ということ。好奇心がむくむくと湧いてくるのだが、まだうまく扱うことができないというもどかしさ。 そういう意味ではあまりにも大きな刺激をうけて呆然となっているような、状態。さらに反省が必要です。もっと粘り強い思考力を持って対峙していかなければなりません。
このブログは音楽ブログでもありますが、辻邦生さんを中心に、書評のようなものや文学についても書きついでいこうとも思っていました。ですが、クラシックを聴いて書くのが楽しかったということもあって、文学のほうは少々手抜かり気味でしたね。ちょっとこれからはもう少し小説についての感想だけではなく、小説自体を考える、といった方向性もなければならないなあ、、と少々反省。。 といいながら、明日になったらまた音楽のことを書いていそうですけれど。
今週の仕事も残り一日です。トラブルはまだまだ続いていて、土日も出社するメンバーがいるということで、少々気が引けるのですが、まあ仕方がないです。今週末は楽しみな予定もありますので、いい週末になりそう。ただ天気が悪そうですけれど。
旧約聖書物語を読む その2
あまりに忙しい。ここで道を誤ると大変なことになりそうなので、すばやく慎重にことを進めなければならない。自分だけならいいけれど、人が関わるととたんに難しくなるわけですが、まあ仕事というのは、そういうものです。
犬養道子さんの「旧約聖書物語」読み進めています。断片的に知っていた旧約のエピソードが体系化されて徐々に霧が晴れていくような気がします。 それにしても父なる神の厳しさといったら大変なものですね。砂漠の中から生まれた一神教の厳しさ。昔大学の一般教養の授業で、イスラエルの地は砂漠ばかりではないのだから、砂漠の一神教というのは違うのではないか、という話を聞いたことがありますが、この「旧約聖書物語」を読むと、やはり厳しい気候がゆえに育まれたのだなあ、というのが実感です。
しかし、音楽聴くのも、絵画彫刻を見るのも、旧約は外せないですね。サムソンとデリラとか、ダヴィデとゴリアテとか、エピソードを知らないと味わい方も違ってきます。今までの怠惰な自分が許せないですね。これからがんばります。 まあ、旧約の次には、新約があるわけですし、ギリシア神話ももう少し勉強しないといけませんし。
うーむ、やることがたくさんありすぎて楽しくなってきました(半分は本当で、半分はやせ我慢です)。
ローマ人のその後──寝不足でしょうか……
ローマ人の物語、「賢帝の世紀」に入っていますが、これがどうしてなかなか進まない。理由は、寝不足でしょうか。暑くなったからかもしれませんが、最近明け方に目を覚ますことが多いです。日が長くなったというのも理由でしょうか。暑くなって睡眠の質が悪くなっているのかも知れません。
ともかく、早く起きて、本を読んだり書き物をしたり。家を出るのは7時前ですので、ゆったりとした明け方です。ところが、やっぱり寝不足らしくて、通勤電車で本を集中して読むことができずにいて困っています。仕事も結構忙しいですからね、最近は……。
ともあれ、微速前進ながらも読んでいます。トライアヌスが死に、ハドリアヌスの治世となり、ダキアの攻略もなる。ハドリアヌスは休むことなく帝国内を視察して回っています。
トライアヌスは初の属州出身皇帝でしたが、ハドリアヌスも同じく属州出身皇帝。トライアヌスはハドリアヌスの後見人といった立場だったのですね。このあたりのハドリアヌスの皇帝継嗣も少しく不可解なことがあったようなのですよ。
普通なら生前にトライアヌスを養子にして後嗣として扱うものですが、そうではなかったらしい。トライアヌスが死の床で養子にしたといわれているようなのです。トライアヌスの死の床には、数人の供回りと后のプロティアしかいなかったというのですから。だから不透明感はあった。しかもプロティアとハドリアヌスはプラトニックなものであるにしても互いに意識しあう仲だったということも言われているらしいですし。 もっとも、元老院もやはり推すならハドリアヌスという意見でもあったようです。経歴的にも十分だし、年齢も40歳過ぎだった、ということもありますし。結果として、良かったのではないでしょうか。ハドリアヌスもやはり賢帝の一人に数えられていますから。
こういう人間くさいエピソードは実に面白いですね。こういう部分をすかし彫りのようにじわりと表現するのがうまいと思います。決して情感的な表現ではなく、研究者かあるいは旅行者のような目線で描いていくわけで、真実味もあり情感もあり、ということになりましょうか。