ちと、桜の写真をば。これも先週末に撮りに行ったときのもの。日曜日以降、天気が悪くなりましたので、今年最後のチャンスだったというわけです。
さて、パルジファル。妄念炸裂中なのですが、先だっての「ジークフリート」、「神々の黄昏」の妄想なんて、ワーグナーが亡くなって100年以上も経っている中ですでに論じられていたことではありますが、まあ、パフォーマンスに接することで独力で理解できた部分を再構成しているということで、お許しください。学術論文を書いているわけでもありませんので。ワーグナーのことなんて、もうありとあらゆる説が出回っているでしょうから、何を言っても先人の遺業をなぞるに過ぎない。でも、なぞりたくなってしまう。そういう感じです。
しかし、「パルジファル」は不思議なオペラであります。まあ、真正のオペラではなく舞台神聖祝典劇と称されるだけあって、なぞだらけ。そうしたわからないことは以下のようなもの。
なぜ、クンドリはすべて知っているのか? クンドリは、まるで、ブリュンヒルデがジークフリートの出自を語るかのごとく、パルジファルの出自の秘密を語ってみせるのですが、なぜクンドリはそうした知識を持っているというのでしょう? あまりに謎すぎる。クンドリは、昨日も触れたように、イエス受難を見ているんですよね。時間と空間を超える能力を持っていなければ、そうできないはず。難しい。
あとは、クリングゾルのこと。これも、やっぱりミーメと我々の関係に似ていて、クリングゾルのほうが現代の人間的である。聖杯守護の騎士になろうとしたのだが、ティトゥレルに拒まれたが故に、その仕返しに、色仕掛けで騎士達を堕落させるとは。これって大衆操作と一緒だなあ。我々はパルジファルよりもこざかしいが故に、大衆操作の対象となっているとは。リングもそうですが、じつは悪役の方が自分たちに近いと思ってしまうのはなぜなのか。
あともう一つ。クリングゾルはなぜ自ら去勢したのか。去勢したが故にクンドリの魅力に落ちることなくそれを利用することができるとは何を表しているのか。
先にも書いたようにこのオペラは性的メタファーに満ちあふれていて、それでいながら聖なるものを扱っているので、整理するのが大変です。素人の手には負えない。でもあきらめたくない。 頑張ろう。
これ、会場で売っていたリブレットなんですが、凄く秀逸。四段組になっていて、左から、音楽的考察→原文→邦訳→解釈 という構造。すばらしい。2500円じゃ安いぐらいです。
解決のない解決──パルジファルによせて その5
執拗に西田敏行──パルジファルに寄せて その4
さて、昨日の「パルジファル」、先日の「神々の黄昏」と同じく、あまりにも強い雷撃を受けてしまいました。今朝は起き上がれず、いつもなら始業80分前には会社にいるんですが、今日は20分前にようやく到着。さすがに心身ともに大ショックだったらしいです。
私が泣いたところ。
私が泣いた1カ所目
一カ所目は、第二幕、パルジファルが「アムフォルタス!」と絶叫するところ以降。あそこのパルジファルの叫びが一つの頂点で、その後のクンドリの「笑った」の絶叫ももう一つの頂点。
クンドリが「あの人」というのはイエスのことで、彼を見て泣くのではなく笑ったのだという。「笑った!」、って、あの「ジークフリート」の最終幕の「笑って死を!」を思い出すじゃないか。「笑い」って、哲学的には非常に難しくて私は理解しておりません。古くはアリストテレスに「笑い」に関する著述があったのでは、というミステリになったのが「薔薇の名前」でした。ニーチェやらベルグソンやら。ただ、この「笑う」という言葉にはグサリと胸を貫かれましたですよ。しかもあの絶叫ともいえる強烈なフォルテで。
クンドリがイエスの受難を見た、という事実も私の胸にぐさりと来ました。何百年もクンドリは呪われ傷つき苦しんでいたのだということ。死ぬこともなく生きることもなく。ああ、なんということか。救いが死とは。
私が泣いた2カ所目
二カ所目は、第三幕でパルジファルが来歴を語るところ。なんというか、人間の根源的な罪状を突きつけられている気がしてきて、完全に感情移入しちまいました。苦労して遍歴し彷徨し、聖槍を使うことなく、聖金曜日に聖杯の元にたどり着くという労苦。まあ、私の苦労なんてどうということもないんですが、なんだか辛い十年間を過ごしていて、まあ、まだ状況は変わらないのですが、なんだかまだ希望があるかのように思ってしまいまして、ボロボロと涙が頬を伝って言ったというわけ。
私の同世代以上の方々は、みんなして涙腺が緩んでくるとおっしゃいますけれど、私もしかり、です。前に「涙が出ないと、入場料の元をとった気がしません」と書いた覚えがあるのですが、今回の「パルジファル」は、そう言う意味では元を取りまくりました。
今日は復活祭でパルジファル本番!──パルジファルによせて その3
今日は復活祭。
小学生低学年の時分は、リンドグレーンの「やかまし村」シリーズにのめり込んでいました。親からは早く寝なさい、と叱られていたのですが、豆電球をつけて布団の中でこっそり読んでました。昔から本は大好きということのようです。
で、「やかまし村」シリーズに、復活祭の描写があるんです。イースターエッグを探す場面でした。小学校の時分は全く何のことかよく分からなかった。
当時は、伝記もたくさん読んでいて、シュバイツァーとか、ニュートンとか、まあ、よんでるわけで、それに加えて「ロビンソン・クルーソー」なんかも読んだりすると、自ずとキリスト教文化に触れることになります。で、どうも復活祭というのはキリストと関係するらしい、という風に思って、親に「キリストの伝記を買って」とお願いしたら、拒絶されました。まあ、うちは葬式仏教ですので、抹香臭いのがいやだったんでしょうね。
とはいえ、復活祭の定義とは以下のようなものらしい。
# 春分の日を過ぎている
# 春分の日の直後の満月を過ぎている
# その直後の金曜日が聖金曜日で受難の日
# その直後の日曜日が復活祭
というふうに、購入した大変秀逸なブックレットには書いてありました。ウィキにはそこまで厳格には書いていないのですが。で、先日、撮った満月の写真、あれ、偶然撮ったんですが、今日を暗示していたように思えてくる。
というわけで、本日はパルジファルに行って参りましたですよ。写真は明日。
先日の「神々の黄昏」以来、ワーグナー漬けな毎日ですが、もうしばらくそれは続きそう。詳しい話は明日から少しずつ書いていきますけれど、ソリストの方にはみんなブラービと言いたい。つうか、今日の主な出演者の方のお名前を。
* 指揮:ウルフ・シルマー
* パルジファル:ブルクハルト・フリッツ
* クンドリ:ミヒャエラ・シュスター
* アムフォルタス:フランツ・グルントヘーバー
* グルネマンツ:ペーター・ローズ
* クリングソル:シム・インスン
クンドリ
ブラーヴァはやっぱり、クンドリのミヒャエラ・シュスター。あの圧倒的な第二幕のダイアローグは涙が止まらない。強力無比なワーグナーソプラノ。ジークリンデがレパートリーと書いてあるけれど、どちらかと言えばブリュンヒルデだと思います。
パルジファル
それから、もちろんパルジファルのブルクハルト・フリッツも。クンドリと接吻した直後に「アムフォルタス!」と絶叫するんですが、あそこ以降で、もう涙涙。私、今日は前から四列目だったんですが、シュスターもフリッツも私の涙が見えていたと思う。客席の照明はあまり落とされていませんでしたので。
アムフォルタス
アムフォルタスのグルントヘーバーは、なんだか疲れ死を望んでいるのですから。でも、ここぞというところのパワーはすごいものがあった。苦悩をうまく表現しておられるのですよ。それがですね、蝶ネクタイを外したりつけたりしていることで表している。第一幕の冒頭部ではネクタイを着けていない。なぜなら水浴するから。その後の聖餐の場面では蝶ネクタイを着けている。第三幕では、疲れ切っているのでネクタイを着けていない。うーむ。考えられている。
グルネマンツ
グルネマンツのペーター・ローズ氏は、2007年の私の中ではすでに伝説となっているペーター・シュナイダーの「ばらの騎士」でオックスをやっている。そのときより少し太った感じ。でも、圧倒的な存在感でした。もちろんクルト・モルとまでは行かないですが、完全に掌握している。歌手の中でスコア(総譜)を見ていたのは彼だけ。ほかの方はパート譜を見ておられました。
ウルフ・シルマー
以前も触れたように、シルマーの指揮には結構触れています。
“https://museum.projectmnh.com/2010/04/02221204.php":https://museum.projectmnh.com/2010/04/02221204.php
ですが、指揮をする姿を見るのは初めてでした。なぜなら、すべて、彼はピットに入っていたから。私の席、前から数列目で、ちょうど指揮台の真後ろというなぜかすばらしい席だったんです。シルマーの動き、すごいっすよ。鋭角でエッジの効いたタクトで、Twitterにも書きましたが、あれはもう阿修羅です。きっとマーラーの指揮ってこんな感じだったんじゃないかな、と。あのマーラーの有名なカリカチュアを思い起こしました。
もちろん、演奏自体も優れていました。思ったよりテンポは動かさなかったけれど、ゲネラル・パウゼの緊張感はすごかったし、デユナミークもすばらしかった。何はともあれ、気合いとパワーがすごい。あれ、絶対ジム通っているはず。そうじゃないとあの動きを5時間近く保てないはず。
N響
シルマー氏とN響の組み合わせも今回の楽しみの一つ。いやあ、これが実にいいんですよ。NHKホールの、なんだか散漫な響きとは違って、弦楽器の分厚さとか豊かさが十全に発揮されていました。私の席からは木管や金管は見えなかったんですが、某オケの不揃いなんていう事故はあまりなかったと思います。ロスフィルの映像を見た直後だったんですが、がんばれ追いつけるかも、と思いました。
というわけで、ざっくり感想をば。明日からは私の妄念を考えていきます。
某先生との嬉しい出会い&オペラの聴き方、私の場合&クルト・モル御大──パルジファルによせて その2
まずは、嬉しい出来事! ぎゃー、あのあこがれの、テレビでおなじみの音楽学の某先生にお会いしました。レストランで食事をしていたら、たまたま入ってこられたのです。カミさんが、「挨拶しておいでよ!」って、「そそのかす」もんですから、意を決して話しかけてみました。いつもテレビで拝見しています。これからも楽しみにしています、とご挨拶。気さくな先生で、本当にびっくりでした。僕たちの方が先にレストランを出たんですが、出口で振り返って会釈したら、先生も僕たちに会釈してくださったんです。嬉しい。凄く気持ちの良い先生です。今度、街ですれ違ったら挨拶できるかなあ。とても良い思い出ができました。また会えると良いなあ。
でもですね、今朝は強風で電車が遅れまくって大変でした。私なんて、6時15分に家を出たというのに、会社に着いたのは8時55分でした。いつもなら7時40分には到着するというのに。2時間ほど立ちづくめで大変でした。まあ、それでも気合いで乗り切りました。まだまだ若いモンには負けませぬ。
皆様の「神々の黄昏」のブログ記事を拝読していて、ちょっとハイティンク盤の「神々の黄昏」最終部分を浮気して聞いていたら、思い出してうるうるしちまった。うーん、リングの世界は奥深い。ワーグナーの世界も奥深い。それにてしても、「 “さまよえるクラヲタ人":http://wanderer.way-nifty.com/poet/ 」さんのブログは秀逸です。私はここまで覚えていない。すごいです。永久保存版。
さて、パルジファルの予習はなかなか進まない。私の場合、予習に関していえば、まずは音楽を覚えることから始めるんですが、どうもまだ第一幕しか覚えられてない感じです。なので、第三幕から何度も聞いている状態。
以前、書いた記憶もあるのですが、私のオペラの聴き方、をまとめてみると。
# まずは、音源を入手。
# おおまかなあらすじを把握。
# 音楽を覚えるために、ひたすら聴きぬく。
# 余力あれば、複数の指揮者バージョンで聴いてみる。
# 時間があれば、リブレットを読みながら音源を聴く。
# あらすじ理解のため、人物相関図を作る。
# 実演で、音楽と演出とリブレットの融合を楽しむ。
# 実演後は演奏や演出についての感想や妄想をブログに書いて記録する。
こんな感じです。
しかし、「パルジファル」におけるグルネマンツの圧倒的な存在感には感嘆するばかりです。狂言回しという感じではないです。狂言回しというと、「オテロ」のイアーゴとか、「ラインの黄金」のローゲなんかを思い出すのですが、グルネマンツはオペラの存立を支える強靭な土台でしょう。
で、私の聴いているカラヤン盤のグルネマンツはクルト・モル。レヴァイン盤もやっぱりクルト・モル。私は本当にクルト・モル御大が大好きでたまりません。クルト・モル御大の初体験は、もちろんクライバーの「ばらの騎士」オックスです。で、カラヤン盤でも歌っておられて、もう完全にデフォルト化している感じ。あとはクライバーの「トリスタンとイゾルデ」のマルケ王も印象的。あとは、サヴァリッシュ盤DVDの「ヴァルキューレ」のフンディングのすばらしさ。グルネマンツという難しい役柄を咀嚼吸収し個性として発露しているところは本当にすばらしいです。
さて、明日も引き続き予習予定。頑張ります。
聖ロンギヌスの聖なる槍──パルジファルによせて その1
こちらの写真は、2008年に訪れたヴァチカンのサンピエトロ大聖堂にある天才ベルニーニの手になる聖ロンギヌスの彫像。聖ロンギヌスは十字架にかけられたイエス・キリストの脇腹に槍をさしてとどめを刺した人物。キリストの血を浴びて、白内障が治ってしまい、後に列聖されるという人物。とはいえ、実在したかどうかはわからない。
“http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%83%8C%E3%82%B9":http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%83%8C%E3%82%B9
もちろん、この彫像の右手で持っているのが聖なる槍。すなわち聖槍。
“http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%A7%8D":http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%A7%8D
ということは、もちろんパルジファル。
パルジファルまであと三日。予習予習。
っつう感じで、この一週間はパルジファル漬けなんですが、東京春祭のこの以下の4つの記事が予習用として秀逸です。
“http://www.tokyo-harusai.com/news/news_443.html":http://www.tokyo-harusai.com/news/news_443.html
“http://www.tokyo-harusai.com/news/news_449.html":http://www.tokyo-harusai.com/news/news_449.html
“http://www.tokyo-harusai.com/news/news_459.html":http://www.tokyo-harusai.com/news/news_459.html
“http://www.tokyo-harusai.com/news/news_520.html":http://www.tokyo-harusai.com/news/news_520.html
リブレット読んだり、カラヤン盤の解説を読んだりしているんですが、実に興味深い。演奏会形式で見るのはもったいない。演出付きで見てみたい、という思いが強いです。
たとえば、「ダ・ヴィンチ・コード」をお読みになれば、聖杯と聖槍がなんのメタファーなのか、というのはおのずとわかりますし、そうすると、リングにおけるノートゥンクのメタファーとの関連性も見て取れる。
第二幕でクンドリがパルジファルを誘惑する場面は、「ジークフリート」のブリュンヒルデ覚醒の場面のミラーリングにも思えてなりません。クンドリは「私の接吻があなたに叡智をもたらしたのでしょうか?」とか「あなたに神性をもたらすでしょう」という。ブリュンヒルデもやっぱりジークフリートに知識を授けているし、ブリュンヒルデの神性は逆にジークフリート誕生に寄与したために失われていますし。
それから前述のリンク先に指摘されていたんですが、この物語には、キリストその人についての叙述がなく、典礼の言葉もないという不思議さ。おそらくは、ワーグナー自身がそれにあたるものとしているんじゃないか、と。
トーマス・マンの「リヒャルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大」を読んでいるところなんですが(これもめっぽう面白くて、何で今まで読んでいなかったんだ、という自己批判)、その中で愛情についての考察がいろいろ書かれていて、めちゃくちゃ興味深いんです。で、どうも、この愛と美というものが複雑に織り込まれている、あるいは織り込もうとしているのがヴァーグナーなのである、という直観に支配されています。
それと、ナチズムとの関連とか、ドイツ的なものとの関連とか考え出すと、身震いするぐらい面白い。この世界を20年前に知っていれば人生変わっていたと思います。
ちなみに、この「リヒャルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大」の後半に書かれている「リヒャルト・ヴァーグナーの『ニーベルングの指輪』」の結語が、ゲーテの「ファウスト」第二部の最後の一節なのです。
「永遠の女性なるものがわれらを高みに導く」
これ、もうご存知のとおり、マーラーの交響曲第八番の最後ですよね。もう、なんだか、頭の中が興味深い妄念で満ち溢れていて、仕方がありません。
明日からはマンに没入しつつ、パルジファルを聴く予定。マンの前述の本ではクンドリのことが分析されていたりして大変興味深いのです。
今週末のパルジファル予習──人物相関図とシルマー氏との思い出
4月4日は、上野でパルジファルを聴きます。というわけで、最近はパルジファルの予習ばかり。カラヤン盤とレヴァイン盤が主です。この曲、まだ理解しきれているか、不安は大きい。なんともかんとも頑張らないと。
というわけで、人物相関図を作りましたが、物語は複雑ですので一枚の図表で表現するのは難しいです。けれども、私のようなパルジファル・ビギナーにとっては、作るという行為が有意義でした。
指揮をするウルフ・シルマー氏の指揮は、結構な頻度で聴いています。実演でいうと、
* バスティーユ:「影のない女」[1]
* 新国:「フィガロの結婚」
* 新国:「エレクトラ」
* 新国:「西部の娘」
映像では、
* パリオペラ座:「カプリッチョ」
"https://museum.projectmnh.com/2010/03/19045206.php":https://museum.projectmnh.com/2010/03/19045206.php
* ブレゲンツ音楽祭:「ラ・ボエーム」
音源では
*ウィーン国立歌劇場:「カプリッチョ」
“https://museum.projectmnh.com/2009/11/24230223.php":https://museum.projectmnh.com/2009/11/24230223.php
シルマー氏の棒は、結構たくさん聴いていますね。今まとめてみても、ちょっとびっくり。いつも感動しています。
「パルジファル」情報や、氏の写真はこちらに載っていますね。
“http://www.hmv.co.jp/news/article/1002070002/":http://www.hmv.co.jp/news/article/1002070002/
シルマー氏の指揮は、あまり極度にテンポを動かさないのですが、メリハリをつけた意図を強く感じるものだと思います。N響と分厚い弦がどのように料理されるのか。本当に楽しみです。
fn1. ただ、何度も書いておりますが、バスティーユオペラでの「影のない女」は、仕事と飛行機疲れと時差ボケで意識を失っていたのですが……。勿体ないことです。
ロット様の耽美的シュトラウス歌曲集
はじめに
フェリシティ・ロットは、いわずとしれたイギリスを代表するソプラノ歌手です。1947年生まれと wik iにはありますので、今年で63歳。私は昨年の10月に実演に触れています。曲はもちろんカプリッチョの最終場。録画失敗したのが悔やまれます。
“https://museum.projectmnh.com/2009/10/19214851.php":https://museum.projectmnh.com/2009/10/19214851.php
あのときも泣けて泣けて、涙が出てしようがないぐらい感動したんですが、(思い出しただけれうるんじゃいます)、ロットのカプリッチョが聴けるCDがないかと物色していました。プレートルが振った全曲盤があるのですが、高くて躊躇していたんですが、まずはネーメ・ヤルヴィが伴奏を振っている「四つの最後の歌」などとカップリングされたCDを購入しました。
そして、あまりのすばらしさに感動しております。
# Biem Schlafengehen
# September
# Fruhling
# Im Abendrot
# Wiegenlied
# Ruhe, Meine Seele!
# Freundliche Vision
# Waldseligkeit
# Morgen
# Das Rosenband
# Zueignung
# Des Ditchers Abendgang
# Intermezzo (月光の音楽)
# Closing Scene (カプリッチョ最終幕)#
ちょっと面白いんですが、一般的な「四つの最後の歌」と順番が違うんです。
ふつうは
# Fruhling
# September
# Biem Schlafengehen
# Im Abendro
なんです。なので、ちょっと新鮮な感じです。もっとも、順番はシュトラウスの死後に決められたものですので必然性は低いんですけれどね。
音響の素晴らしさ
このCD、やけに音がすばらしいのです。トラック12のDes Ditchers Abendgang以外は、すべてCaird Hallというところで録音されています。
“Caird Hall":http://www.cairdhall.co.uk/
このホール、かなりすばらしいリヴァーヴなんです。ルカ教会残響の深さは似ているのですが、ちょっと残響の音程は高めです。この絶妙な残響感が、ロットの高貴で品性のある声を十二分に引き立てています。
実は、最初聴いたとき、あまりに美しすぎて、ちょっと引いたんですよ。何というか、不自然さのようなものを感じたんです。
というのはこんな経験をしたからです。
昨年、某日本人有名歌手のCDを聴く機会がありました。そのCD、あまりにリヴァーヴがかかりすぎていて、どこで録音したのかと見てみると、ただの音楽スタジオでした。リヴァーヴをエフェクターでかけ過ぎていたんですね。私は大変失望したんですが、ロットのこのCDにも一瞬同じ危惧を抱いたのだと思うのです。しかし、聞き込むうちにそれは危惧から感嘆に変わりました。日本人歌手の場合、すでに絶頂期は過ぎていますので、完全になんらかの悪い要素を消すためにリヴァーヴをかけていたとしか思えなかったんです。しかしながら、このロットのCDはそうとは思えません。純粋に美しい。天から降ってくる歌声といっても過言ではないです。
Das
Rosenband
また別の機会にも書こうと思ったのですが、Das Rosenbandを聴いていたら、急に涙が止まらなくなりました。この曲、アンネ・ゾフィー・フォン・オッターや、バーバラ・ボニーも録音しているのですがいずれもピアノ伴奏です。シュヴァルツコップ盤はセルが振ったオケ伴奏盤ですが、シュヴァルツコップは少し苦手意識があるので、あまり響いてこなかった。でも、ロットのDas Rosenbandは違いました。大きく分けて二つの旋律からなるんですけれど、シュトラウスらしい絶妙な転調の進行に心が締め付けられて、急になんだか母胎に回帰したかのような安堵感を覚えたのです。この曲、今度もう少し突っ込んで研究しようと思います。
「四つの最後の歌」の思い出
私が初めて「四つの最後の歌」を聞いた瞬間。それは映画「めぐりあう時間たち」でした。
“http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD33172/index.html":http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD33172/index.html
メリル・ストリープが、パーティーの準備をしているときにBGMで流れていたのがそれでした。この映画、実に多層的複雑さをもった秀逸な映画で、かなり重い内容なんですけれど、あの時の「四つの最後の歌」は雷撃でした。あらすじはあまり書きませんが、その後の不幸な結末を暗示しているように聞こえたんですよね。この曲を大音響で流しながら料理している姿の切迫感を忘れることができません。
というわけで、今日もシュトラウスでした。ああ、シュトラウスの歌曲全曲盤とかないかしら。あったら買いたいなあ。。
【写真篇】新国立劇場バックステージツアーに参加! その3
今日はちょっと写真を載せましょう。
まずは、舞台からのイメージ。これ、バックステージツアーじゃないと見られないです。ラッキー過ぎる。
舞台から見たマエストロの座席。
客席左方向。うーん、やっぱり建築デザイン的にも美しい。
ホワイトボックス。舞台の奥にパースが表現された白い箱が見えますよね。あれです。
これは趣味。初台駅につながるところ。
同じ場所から小劇場方面を。張られた水の反射が美しい。ラヴリーすぎる。
新国立劇場バックステージツアーに参加! その2
新国の一場面。素敵。
さて、バックステージツアーについては2回目。以下の写真は張り出された当選者の名簿。デジカメの画像があまりに暗いので、フォトショップでいろいろいじったんですが、復活できない。私の画像補整技術では無理ですわ。モザイクかかってますので名前は見えませんよ。
今日はちょっと項目ごとにまとめてみます。
もっと休憩短くしてほしいんですが……、への回答
三幕のうち、2階の休憩はそれぞれ45分ぐらい。何でこんなに必要なのか? 私の場合、13時半頃に、レッド・ブルを飲み、二幕のあとも、三幕のあともレッド・ブルを飲みました。それぐらい、観るだけの我々にとっても過酷な6時間の公演だったのです。「もっと休憩時間短くできないの?」みたいなクレームはあるそうです。確かに普通のオペラだと20分ぐらいですから。ですが、さすがにヴァルキューレ以降のオペラだと、普通のオペラ2,3本分を一気にやるぐらいの大変さなのだそうです。私の記憶に間違いがなければ、オペラ1本で、サッカー選手と同じカロリーを使っている、とおっしゃっていたと思います。それぐらい大変。もちろん、舞台裏も大騒ぎな感じなんだそうです。ですので、我々は、ゆっくり構えて休憩時間を楽しみましょう。ホワイエできょろきょろするだけでいろいろ面白いものが見られますので。
バックアップ
バックステージツアーでちょっと感心したのはバックアップ体制です。公演中、指揮台には、遙か情報の天井から光線が降りてきているんですが。あのライト、実は二つあるんですって。もちろん一つは予備。電球切れして、指揮者がスコアを見られなくなる、なんてことはないというわけ。それから、もう一つ。指揮者はカメラでモニターされていて、舞台両脇のモニタや監督席に移っている。これがないと、歌手は演技するにあたって、指揮者を見るのに苦労します。このカメラ機構も二重化されているとのこと。当然のこととはいえ、さすが、という感じ。これは、いわゆる冗長化というやつですね。
煩悩の数と一緒?
それからもう一つ面白いエピソード。オケピには130名ぐらい入るそうですが、暗い劇場ですので、譜面台には当然照明がついています。この照明の電源コードは、ほかの劇場だと配線が床を這うような形になるらしいのですが、新国のオケピはそのあたりを意識していて、床に電源供給用のコネクタがいくつも配置されているらしい。なので、配線が床を張って、足を取られるようなこともないんだそうです。で、このコネクタの数、108個なんですって。煩悩の数と一緒だ、といって一同爆笑みたいな。
ライヴのおもしろさ
監督助手のSさんが再三おっしゃっていたのは、「ライヴ」のおもしろさ。
映画やCDなどは、編集が加わりますので、完璧さが求められる。
けれども、劇場においては何が起こるかわかりません。様々な問題が偶然的に発生する。ライヴだと、我々の目に見えるところ、あるいは目に見えないところでいろいろな事件事故が起こるわけです。そうしたインシデントやアクシデントがあることこそ、ライヴの良さなのでは、とSさんは何度も言っておられました。共時性の重要性とか、一体感の醸成とか、緊張感の共有とか、そう言うことでしょう。
これは、舞台芸術以外ではなかなかないことだと思います。そうした緊張感を、演じる役者=歌手も、裏方も、観客も同じ空間時間で共有するということ。祝祭的といいますか、ハレといいますか、そうした共時性が、ある種のアウラ的なものを醸成するわけ。映画やCDのような複製芸術とはまた違う味わいというわけです。アウラかあ。ベンヤミンだなあ。あるいはギリシア悲劇的。
私の場合、パフォーマンスに強制的に組み込まれるという感じがとても好きなんですけれど、そうしたことをおっしゃっていたのだと思います。
「ジークフリート」のラジライネンの失敗
前回の「ジークフリート」のとある公演での出来事。ジークフリートがさすらい人=ヴォータンの槍をノートゥンクで切り折るシーンがあります。あのシーン、ノートゥンクが槍を折るんですけれど、ラジライネンが操作を誤って、ノートゥンクが打ち付けられる前に、槍が折れちゃってたんですって。だから、必死に折れた槍を、折れていないように見せるために大変だったらしい。結構な重量があるので、両手それぞれで、半分に折れた槍をそれぞれ持っていたらしいんだが、結構大変で、観客にもばれてたのでは、とのことでした。まあ、ノートゥンクが打ち砕く前から槍が折れていた、という演出と受け取れなくもないのですが。とはいえ、ラジライネンは結構ショックを受けていたらしく、楽屋で「やっちまったよ~」と愚痴っていたとのこと。
指輪がなくなってしまった!
ジークフリートが死んで、ブリュンヒルデが自己犠牲前に指環を床に投げるシーンがあります。その後この指環をハーゲンが拾おうとする重要なシーンなのですが、私が見に行った3月21日の公演では、この床に投げた指環が舞台袖奥の舞台端末ブースの下の隙間に入り込んでしまったのだそうです! つまり、指環は舞台から消え去ったのです。私はこれには気付きませんでしたが、裏ではパニックに陥っていたそうで、指環をほうきで隙間から取り出して、そーっと舞台に戻したんだそうです。気付きませんでしたが、本当に大変。
テオリン様の裏話
テオリン様は、けっこう気の強そうな、姐さん的なイメージなので、演技とかも結構強気な感じでやっておられます。去年のバイロイトの映像もやっぱりそうだった。でも実は、かなり繊細な方みたい。それから、茶目っ気もある感じ。「神々の黄昏」では、ジークフリートとブリュンヒルデは同じベッドに一緒に横たわった状態で舞台下手から登場するのですが、舞台にいざ出るときに、ベッドに横たわりながら、スタッフに「行ってくるねー」みたいに手を振ってみたりするそうですし。
火を使った演出.
私が見ていて本当に怖い火を使った演出。新国のリングでも「ヴァルキューレ」では、ブリュンヒルデの周りに火が巡らされていましたし、「ジークフリート」や「神々の黄昏」でも舞台奥に火が燃えていました。あの火、結構やっかいらしいです。私が怖がっていたのは、引火して火事にならないのではないか、ということでしたが、そうじゃなくて問題は音らしいです。火が燃えるときに、かなり大きな音がします。2002年に見た「トロヴァトーレ」でも火の演出がありましたが、もうゴウゴウと音をたてて、見ているだけでも気が気ではありませんでしたが、もちろんそれが音楽表現上問題なのだそうです。火の音を消そうと、周りに水を巡らせたり、などなど試したようですが、水が沸騰しちゃって逆効果だったり。「神々の黄昏」で使われた火は、カセットコンロに使われるガスカセットを何本も使ったものなのだそうです。場合によっては固形燃料を使うこともあるとか。舞台演出は奥深すぎます。
ボックスと蛍光灯の世界的流行
「ホワイトボックス」のシーン。あそこの証明は白熱灯のオレンジ色を帯びたものではありませんでした。蛍光灯の色のような真っ白なもの。こうした照明の演出は世界的に流行しているそうです。それから箱形の舞台。舞台上に立方体を置くんですが、こうした演出も最近の流行なのだそうです。私も新国の「運命の力」と「ヴォツェック」でそうしたボックス型の演出を見たことになります。
欧州人の「パース(遠近感)」のとらえ方
昨日も触れたとおり、ホワイトボックスはボックスとはいえ、遠近感を出すために、奥に行けば行くほど面積が小さくなっていきます。台形を上下左右に嵌めた感じで、一番手前の開口部にくらべて一番奥の開口部の方が小さいわけです。これって、遠近感を出すための演出の常套手段ですよね。大昔の「音楽の友」で読んだ記憶だけで、ソースをきちんと示せないのですが、たしかフィレンツェにある世界最古級のオペラハウス(おそらくは17世紀頃?)でも、そうしたセットが組まれていたはず。
Sさんがおっしゃるには、やはりこの遠近感の感覚は、欧州の街並みに依るところが大きいのではないか、とのことでした。四角形の建物がいくつも立ち並んでいると、遠近感に対する見え方が日本人とは違うのでは? とのこと。
日本でいうと、ようやくこの100年で丸の内界隈や霞が関界隈にに真四角の建物がいくつも建ち並んでいるという状況ですので。文化圏の違いというところでしょう。
演技の苦労
歌手は、演技をしながら歌を歌わなければならないという、大変過酷な状況に置かれています。歌詞を覚え、暗譜し、指揮者を見ながら、演技をするという、聖徳太子状態です。演技面だけでも体力的にも神経的にも非常に大変で、たとえば、「神々の黄昏」の冒頭で三人のノルンが登場して、フィルム(これがノルンの織りなす運命の糸という設定)に槍を突き刺すシーンがありますが、槍は思った以上に重く、しかも、床に差し込む位置も決まっているので、相当練習したとのこと。
それから、最終場面で、女性が大きなジグソーパズルのピースを床に落とした瞬間に映像で流されるジグソーパズルが完成するというシーンがあります。ピースは指環を表していますので、ラインの川底に指環が戻されたということを指し示しているのですが、あのシーンは異様に大変なのだそうです。音楽と映像に合わせて、タイミングを見計らってピースを床に落とさないといけない。これも異様に大変なことらしく、泣きながら練習していたとか。
僕たち観客は、見るだけで、ああだ、こうだ、と批評家ぶって書いちゃったりしますが、裏に隠されている大変な苦労のことを思うと本当に無責任なことは言えないなあ、と思います。[1]
楽屋で最も近い部屋は何か?
トイレだそうです。体を張ったパフォーマンスですので、やはり生理的欲求が最も重要。
今回の演出のスタッフ数は?
80人ぐらいのかたが関わっておられたそうです。結構多いです。
結論
私、楽屋口から舞台裏には行って、舞台監督助手のSさんを一目見た瞬間に身震いをして、お話を聞くにつれ、名状しがたい思いに包まれました。ああ、こここそ、僕が来たかったところなんだなあ、と。それほど強い雷撃でした。私は人生で何度か雷撃に打たれていますが、また一つ加わった感じです。
fn1. だから私は、このブログには、原則的には、良いと思ったことしか書かないようにしています。ですので、書いていないということは、評価出来なかった、と言うことになります。そのあたりを推していただけると助かります。
新国立劇場バックステージツアーに参加! その1
夕闇のなかに沈みゆく新国の中庭水庭。やっぱり、この建築は素敵。
バックステージツアー。何度も何度も応募しましたが、当たったことはありませんでした。応募用紙に座席番号を書いて入れるのですが、あまりに当たらないので、S席の方が優先なんだ、と勝手に拗ねていたのです。それで、当日は、係りの方に「S席じゃないと当たらないんですか?」と聴いてみたのです。まあ、当然「そんなことないですよ」とおっしゃったんですけれどね。
それで、第一幕が終わった後、抽選結果が一階ホワイエに張り出されるんですが、なんと、当たっておりました! でもですね、197人の応募があって、40名が当選。新国の収容人数は約1800人で、ほとんど満員だったのですが、たったの197人しか応募していないというのがとても意外に思いました。まあ、「神々の黄昏」の場合、終了予定時間が20時25分でしたので、皆さん家路を急いだのでしょうか。そうかと思うと、日によっては、定員40名に対して70名ぐらいしか応募がないこともあるとのこと。これも意外。
昔は、バックステージツアーというのを、舞台のない日に行っていました。当時は発券制でしたが、休日はかなりの確率で売り切れていました。最近はどうやらやっていないそうで、休日だと舞台監督の方々がいらっしゃらないからだとか。
というわけで、テオリン様にブラーヴァと叫びまくった興奮のさめやらぬうちにホワイエに集合しました。なんだかちょっと優越感。うふふ。事故などの保険料として200円を支払って、荷物を預けて、プレートをいただいて首にかけて待ちました。
8時半になると、20名ずつのグループに分かれて、無人の劇場内へ。よく考えると無人の劇場に入るのは初めてです。ダークオーク色の色調が良い雰囲気。入場の際、一瞬PAルームが見えたので撮影。ここに合唱指揮の方が入られて、本番では赤いレーザかライトかで指揮をします。あらゆる音響のコントロールはここでやっているはず。
続いてオーケストラピット(つまりオケピ)へ。オケピの深さは音量調節のために上下可動式になっています。公式記録では2.65メートルの深さなのですが、今回の「神々の黄昏」では、2.66メートルまで下げたとのこと。ワーグナーやシュトラウスのような大規模なオケの場合は、このように深くしますが、モーツァルトなど編成の少ないオケの場合は床をあげるそうです。指揮者は舞台を見なければなりませんので、オケピが深くなればなるほど、指揮台は高くなります。
そうすると、指揮者に誓いパートの方々から指揮が見えなくなると言うことで、指揮者に近い席ほどかさ上げされています。逆すり鉢状のような格好です。[1]
続いて、いよいよ舞台裏へ。楽屋への入口があるのですが、ここは暗証番号でロックされているそうです。昔はそのまま入れたそうなのですが、本番中に観劇の高校生が、ここから闖入し、本番の舞台に現れた、という珍事件が発生したことがあるそうで、厳重な管理になっているとのこと。
ここで、我々は靴にカバーを掛けました。舞台に油を載せたくないから、とのこと。ここから先は著作権の問題で写真撮影は禁止となりました。
そして、早速中に入ると、第一幕冒頭で三人のノルン達が演じたセットがおいてあって、そこに舞台監督助手の女性のの方が待ってくださっていました。この方、一目見ただけで、衝撃を受けてしまう。今までお会いした女性の中でもっとも強い意志とオーラ持った方の一人だなあ。みなぎる自信はまさに実力によって裏打ちされたもの、というような印象でした。これ、人生にそうそうあるかないかの衝撃でした。働く人間として尊敬の念に打たれたというところです。
続きはまた明日。
fn1. 見づらい写真ですいません。7年前のコンデジで撮ってますので。ISO400でohne Flashじゃ無理です。