NNTT:新国立劇場,Opera

昨日は池辺晋一郎氏の新作オペラ「鹿鳴館」のオペラトークに行きましたが、今日も引続き初台に赴きまして、「カルメン」を聴いて参りました。
私のカルメン体験は、クライバー&ドミンゴのDVDを観たのと、2006年にドレスデンで不祥ながら実演に接した、という二回限りですが、このところは、もっぱらクライバー盤とカラヤンの抜粋盤を交互に聴いておりました。
今日驚いたこととと言えば、まずは前奏曲が速い速い。疾風のように軽やかにギャロップする駿馬のよう。のっけからノックアウトされた気分。バルバッツィの指揮は、最近はやりのためるような棒ではなく、砂塵を巻き起こして走り去る軽騎兵のよう。すごく新鮮に感じました。私が予習で聴いていたクライバーよりずっと速くて流れるような演奏で溜飲の下がるおもいです。こういう指揮もいいなあ、と本当に感激でした。
一方、カルメンを歌ったキルスティン・シャベスも素晴らしかった。確かに終幕部にかけていくぶんかの疲れを見せましたが、第一幕の登場から、妖艶なカルメンを歌い演じきっていました。この方は生まれたときからカルメンだったのではないか、と思うぐらいはまり役です。歌唱のほうも素晴らしく安定していました。ピッチの狂いもあまり感じませんでしたし。何より演技が大胆で、迫力さえ覚えたぐらい。見ているだけで、ちょっと気恥ずかしくなるような場面も。まさに、ファム・ファタールたるカルメン。
ホセを歌ったトルステン・ケールですが、最初はかなりセーブぎみに歌っていたのですが、後半に進めば進むほど迫力と力強さを増して行きました。最初は少し細く軽めな声だと思っていたのですが、クライマックスでは正確なピッチで美しいロングトーンを聴かせてくれました。
あとは、ミカエラを歌った浜田理恵さんが素晴らしかった。この方を聞くのは二度目です。2008年に新国で「トゥーランドット」リュウを歌われたのですが、あの時に続いて、今日も日本人離れした太くて豊かなメゾソプラノで、感激しました。でも、よく考えると、リュウもミカエラも決してかなうことのない恋のに殉じていますね。
演出、その他については、また明日書いてみたいと思います。

Opera


新国立劇場の平成22年度収支予算案が発表になっているようです。
“http://www.nntt.jac.go.jp/about/foundation/budget.html":http://www.nntt.jac.go.jp/about/foundation/budget.html

おわび

 今年の3月17日付けの以下の記事で、平成21年度の予算案をご紹介していたのですが、私がソースとしていた資料が誤っていたか、私が誤認していたか、差し替えや訂正がなされたのか、よくわかりませんが、最新の資料を見る限り、実際とは全く違うことがわかりました。お詫びして訂正いたします。
“https://museum.projectmnh.com/2010/03/17032228.php “:https://museum.projectmnh.com/2010/03/17032228.php
先日もソースが不可解な動きをしました。私が間違えたのかもしれませんが、かなり気をつけて書いたつもりですので、何とも言えません。

収入について

平成20年度から22年度の3年分の収入の部を以下の通りあげておきます。

先日も書いた通り、委託費というのが、おそらくは国庫が元となる金額です。5億円ほど削減されています。

これは、さすがに仕方がないでしょう。こういうご時世ですので。といって、流してしまってもならないですし、事業仕分けでのコメントによれば、今後「圧倒的縮減」が予想されますので、油断してはならないのですけれど。

予算削減のポイント

3月17日の記事では、平成20年度と平成21年度を比べて、平成21年度は9億円ほどの受託収入が減ったと書きましたが、最新のソースを見てみると、実際には5千万円ほど削られていただけでした。
ところが、平成22年度となると、5億円ほど削られていることがわかります。このしわ寄せはどこに来たのか、といいますと、
# 施設維持管理費支出が4億円強の削減
# 公演事業費支出が1億9千万円の削減
# 管理費給料手当支出が6千万円強の削減
となっています。
気になるのは今年から「協賛収入」が一般会計から特別会計に移ってきました。これは何を意味するのか。謎。
会計知識、全くないですなあ、私。一応簿記の資格は取りましたが、10年以上前のことなので。

公演事業費支出

以下の通りですが、やはり公演費本体の削減は避けられません。

人件費

さすがに人件費が削られているのですが、これがちょっと興味深いのです。

「事業費」にぶら下がっている職員給与は5千万円ほど増えているのですが、「管理費」にぶら下がっている職員給与のほうは6千万円強削減されています。これは、管理職の方々が相当身を削っていると見て正しいでしょうか。もちろん、従前の水準が一般的に見てどうなのか、というのはわかりませんので、なんともコメントするのが難しいところでもありましょう。こういうご時世ですので。役員給与の下げ幅についてもよくわかりませんので、こちらもノーコメント。

まとめ

私は、平成21年度で9億円もすでに削減されていると誤解していましたが、実際には、公演事業費支出だけで言うと、3億4千万円も増やされていたのでした。それに対して、平成22年度は逆に1億9千万円削減されています。
これ、意外でして、平成20年度よりも公演事業費支出は高いという計算になります。平成20年度は「軍人たち」をやっていますので、相当お金がかかったはずなんですが。ですので、「自主公演ができなくなるのでは?」という懸念はまだなさそうです。
一番減らされている施設維持管理費とは、いったい何なのでしょうか? 施設のメンテナンスをリストラで4億円捻出とは具体的にはどういったところなのか、よくわからないです。たとえば、前庭の水を抜いてしまう、とかでしょうか。あの水を張った美しい前庭は、相当維持費がかかるはず。放っておくと水苔が出てきますので、定期的に水を抜いてきちんと洗わないといけないはず。相当大変な作業ですから。。
会計に明るい人がごらんになったら、もっといろいろつかめるのかもしれませんが、私の考え得る限るのと頃は今のところこんな感じです。
こういう世知辛い世の中ではありますが、人間を人間たらしめている芸術活動の基盤である新国立劇場の、一層の発展を願いつつ、応援しつつ、という感じです。頑張ってください!

iPad,Opera,Richard Wagner

シュナイダー師の「ローエングリン」

今日聴いているのは、ペーター・シュナイダー氏が振っておられるローエングリンです。これは、DVDで発売されているものをAMAZON.UKから個人輸入したものです。海外でDVDを買うときは、言うまでもありませんがリージョンコードにご注意を。
まだ、演奏全体を云々できるほど聴いていませんが、アンサンブルが美しく、速度の微妙なコントロールが絶妙で素晴らしい。シュナイダー師、やっぱり凄いなあ。もっとCDでないかな、と思うのですが、
あ、そういえば、昨年のバイロイトでシュナイダー師が振った「トリスタンとイゾルデ」ですが、画像をiPadに入れました。あの感動を再び、という感じ。こちらも楽しみ。
最近シュトラウスばかり聴いていたのですが、ワーグナーに戻ってくると、なんだか心現れる気がします。シュトラウスはもちろん大好きですが、ワーグナーのほうが愚直なドイツ的精神性が強いように思います。心に直接揺さぶりがかけられる感じ。ワーグナーは凄いのですね。

iPadつれづれ

さすがにここのところiPadが気になります。
今日は所用で都心に出たので、UQ-WImaxの一日プランを試してみようと思ったのですが、上手くいかない。
私の認識では、無線LANに接続し、UQ-WImaxの一日600円プランの申込み画面に遷移したところで申し込み、接続確立となる想定でしたが、無線LANには接続できますが、申込画面に遷移しません。
ポイントは無線LANルータのWM3300Rの挙動でした。WiMAXと書かれたアンテナ型のLEDが赤く光っているのです。どうやらこれはWiMAXの電波は受信しているけれどインターネット接続が出来ていないことを指しているらしい。で、このアンテナ型のLEDが緑になるととりあえずはインターネットに接続出来ていることになる模様なのです。
1) まずは、ルーターのWM3300Rの電源をいれて、以下の写真のようになるのを待ちます。

2) 続いてルータの画面 http;//web.setup ないしは、192.268.0.1にアクセスします。すると、管理者パスワードが出てきますので、入力します。

3) すると、こちらの画面となります。ウェブウィザードの画面ですね。すでに契約はしていると思いますが、右下の
「今すぐ契約」ボタンを押します。

4) すると、ガチャガチャ、動き出すんですが、

私の環境だと以下の「サインアップ中」のままで、無限ループ状態になりいつまで待っても何も起きません。

5) このとき、ルータのWiMAXと書かれたアンテナ型のLEDが緑色になっていることに注目。この時点でウェブにつながっているのです。

6) すかさず、サファリ(ブラウザ)右上の検索ボックスに適当に検索値を入れて、検索してみます。あるいは、ブックマークでヤフーやグーグルなど一般的なウェブサイトに飛んでみるのも良いでしょう。すると、UQ-WiMaxのログイン画面に遷移します。やった!

7)あとは、ユーザー名を入れてログイン

8) 以下の画面に到達するので、利用時間の購入ボタンへと進みます。

9) ゴールです。ここで、利用時間を設定し、「次へ」ボタンを押せば、ネットが開通するはずです。

私の場合、ここでいったん止めました。この先、ちゃんと利用時間が購入できてネットにつなげるはずです。おそらく今週の週末に同じことを試しますので、またレポートします。

iPad,Opera

iPadが来て二日目。大分なれてきました。

良いところ

画面が美しいアプリがたくさんです。たとえば、こちら。

天気予報のアプリなのですが、あまりの美しさと多機能に度肝を抜かれました。
それから、青空文庫からシームレスに本をダウンロードできるのは凄い。iBookが日本で根付くかどうかはわからないのですが、青空文庫はもうかなり歴史ありますからね。昔、Palmに落として、芥川を読んだり、岡本かの子を読んだりしていましたので、これは本当にありがたい。

本題

さて、本題。
カルロス・クライバーが、エレーナ・オブラスツォワ、プラシド・ドミンゴと組んで演奏したもので、ウィーン国立歌劇場で1978年2月に収録されたライヴ盤。
2006年にゼンパーオーパーで「カルメン」を観るための予習用に買ったものですが、クライバーとドミンゴとくれば、悪い演奏なわけがない。
特に激烈なのが20トラック目「セビリアの城壁近く」。スペイン的フレーズなんですが、このフレーズが凄くて、導入はマイナースケールで上昇するんですが、下降するときにはメジャースケールに変わっている。カルメンの表裏を表しているように思えます。美しきものの裏に隠れる狡猾さ。途中でオケが、激しく慟哭するんですが、あの場面のクライバーのドライヴ感は凄まじいものがあります。
1978年と言えば、ドミンゴは37歳ですか。一番脂がのっていそうな年頃です。クライバーは1930年生まれですので、48歳。こちらも一番元気な頃じゃないでしょうか。
しかし、カルメン役のオブラスツォワは、カルメンのために生まれてきたのではないか、と思うぐらい役にマッチしています。声の質は太く柔らかいメゾで、パワーもあるし、妖しさもある。私は、カラヤン盤抜粋でアグネス・バルツァのカルメンも聴きましたが、オブラスツォワのほうが、良い意味でカルメン的な野卑さを持っていると思います。
というわけで、お勧めしたところですが、この盤はもう市場の表舞台から消え去っていますね。AMAZONではMPでしか売っていないみたい。やっぱりコンテンツ産業は大変なんだろうな。DVDは高いですが、重要なものは落としてはならんのですね。
追記:ああ、こういう媒体で安く出ているのか……。なんと990円! 教えてくださったgarjyuさんに感謝。
→  "http://www.fujisan.co.jp/Product/1281683685/b/323315″:http://www.fujisan.co.jp/Product/1281683685/b/323315/ap-shushi
iPadが来て、時代が大きく変わったことを思い知ったことと相まって、ちょっといろいろ急いで考えないと、と思いました。頑張ろう!

Opera,Richard Strauss

来年は「ばらの騎士」イヤーでもあります。「ばらの騎士」は1911年1月26日にドレスデンにて初演です。マーラーは「ばらの騎士」を聞いたでしょうか?
シュトラウスとマーラーというと、仲がよさそうにも見えるし、悪そうにも見える。アルマ・マーラーの回想録では、エコノミカルな面に腐心するシュトラウスの姿が批判的に書かれていました。もっとも、アルマ・マーラーの回想録自体どこまで真実に近づいているかはよくわからないのですが。
いずれにせよ、二人は同年代ですし、互いを意識していたんだろうなあ、というのは音楽を聴いていてもわかります。特に「影のない女」では数箇所、マーラー的な場所が驚いてびっくり。たとえば赤い鷹のモティーフ、マーラー的に聞こえるのは私だけでしょうか。
話を戻して、来年が初演100周年となるばらの騎士をハイティンク@ドレスデンで聞いてみましょう。ハイティンクを好きになったのはこの一年ですので、この「ばらの騎士」も一箇所を除いては大変すばらしい演奏だと思います。私なんて、第一幕冒頭のっけから、平伏しましたし。
今日はばらの騎士を聞いて心を落ち着かせましょう。
そうそう。今週の土曜日は大学の先輩後輩のジャズライヴがあるので、遠出(っていても錦糸町ですが)します。久々のジャズライヴで楽しみ。私も参加したいぐらい。EWIがんばろう!
あ、明日、iPad、運がよければ家に届くかも。。。

Opera,Richard Strauss

はじめに

「影のない女」から一夜明けた今日、なんだか、虚しさ覚える、虚脱状態とでもいいましょうか。
オペラを総合芸術に仕立て上げたのはリヒャルト・ヴァーグナーですが、以降のオペラは、音楽面だけではなく、文学面や美術面においても評価されなければならなくなってしまいました。そのうちどれかが欠けても難しい。
昨日の「影の女」は、残念ながらひとつだけ欠けたところがあったと思うのです。それは私の理解の足りなさという面もあるかもしれませんが、やはり演出面だけは釈然としません。
シュトラウスとホフマンスタールが作り上げた天才的奇跡的な音楽だけに、それをさらに高みへとあげるのは困難なはずですが、それにしても、という歯軋りをする思い。三人のヒロイン達がすばらしかっただけに、残念な思い。
最初に舞台装置に「疵」というか「矛盾」を見つけてから、視覚的違和感が常につきまってしまうのです。
これ以降、書くこと自体躊躇するところがあります。私の理解不足や、体調の不備、天候の悪さなどが影響しているかもしれないからです。ですが、やはり、ここは一足飛び超えて書かないと行けない、という覚悟で書きます。それが、新国にとっても良いことだと思うので。ご批判は覚悟の上。なにかあればコメントを。

違和感

私が違和感を感じ始めたのは第一幕のバラクの家のシーンから。
舞台全部には白い平たい板、白い底面が引いてあるのですが、それは、家々が地面に投げかける白い影で、家の窓枠に対応する形で、床が切り取られているのですが、一つだけ対応していない場所があるのを見つけてしまったのです。
神は細部に宿りますので、そうした細かい疵に気づいてしまってからなんだか気が抜けたソーダ水を飲んでいるような気分になってしまいました。
で、この平たく白い底面は、全幕通して置かれっぱなし。皇帝の居室であろうと、バラクの家であろうと、霊界であろうと、いつでも。これはちょっと違和感がある。
それから、舞台装置の移動は、黒い服を着た男達が劇中にお構いなしにあらわれて移動してくる。日本風に言えば黒子なんですが、顔もあらわで、いわゆる日本的な黒子ではないのです。「影のない女」の難しい舞台転換を安易な方法で解決したとしか思えない。
確かに「ヴォツェック」でも、黒子的な男達が現れたけれど、ちゃんと衣装を着て、ちゃんと演技しながら舞台装置を動かしていたんです。ですが、今回は演技すらしない。本当にスタッフがやっていて、劇空間がめちゃくちゃに破壊されてしまう。
それから、鷹や馬、オオカミなどの動物たちは、動物の形をしたワイヤーアートを持った方々が出てくるのですが、このワイヤーアートが見えにくくて仕方がない。これ、あらすじを知らない方がごらんになったら、赤い鷹の重要性を全く理解できないと思います。
それから、舞台装置がチープに思えてしまう。家をかたどったオブジェはベニヤ板が張られているのが見えてしまったり、石垣のように石が積み上げられた壁は安くて弱々しい。
乳母が死ぬ場面も、なんだか予定されたように舞台下にせり下がっていくというありがちなパターン。

背景は何か?

でも、本当にこれは演出家だけの問題なのだろうか、とも考えたのです。ほかにも原因はあるのではないか、と。
よく考えますと2010年度になってから二回目の新制作ですよね。もしかしたら予算が相当削られていたのではないか、とも思えるのです。まだ新国立劇場自体の22年度予算はウェブ上で確認することができないのですが、そうした背景もあるのではないか、とも。
先日の「ジ・アトレ」6月号に書かれていたのですが、予算は年々縮減傾向にあることは間違いないようです。そうした影響が出ているのかもしれません。
それから、このシーズンでは指環の後半である「ジークフリート」と「神々の黄昏」をやっている。バックステージツアーで舞台監督の方がおっしゃっていたのですが、再演とはいえ、やはり経済的な負担は大きかったようです。ですので、「影のない女」の予算が削られてしまったのではないか、とも思える。

まとめ

いずれにせよ、すこし寂しい思いをした公演でした。私も少し気張りすぎていて、期待が大きすぎたので、その落差に戸惑っているという面も少なからずあるとは思いますし。
次のシーズンでは、「アラベラ」や「トリスタンとイゾルデ」の新制作もあります。演出家の方も大変だと思いますが、予算担当の方も相当大変なはず。
私にできるのは、チケットを買って、劇場に足を運んで、公演の模様をブログで取り上げて、頑張ってくださいと申し上げる、ということぐらいしかないので……。
ともかく、今後も、日本唯一の常設劇場を持ったオペラカンパニーとしての新国立劇場を応援していきたいと思います。

Opera,Richard Strauss



行って参りました、「影のない女」@新国立劇場。
あいにくの雨模様で、少々気が滅入っていたのかもしれませんし、昨週は相当忙しかったので、体調が万全ではなかったということはだけは最初に申し上げておいた方が良いかもしれません。

驚きの再会──ジェーン・ヘンシェル

しかし、驚いたことが一つあります。
このオペラで最初に口を開いて歌を歌うのは乳母役のメゾソプラノ。始まったとたんに身震いしたんです。凄いパワーなのですよ。
声の大きさも十分で、倍音を豊かに含んだ声。技術的にも凄いと思ったのは、伝令とともに、「皇帝は石化する」と歌うところ。

“!https://museum.projectmnh.com/images/SoundIcon.png!":https://museum.projectmnh.com/midi/strauss/3-Stein.mid
ここ、相当低い音まで出さなければならなくて、CDで聴いていたとき、この部分をメゾが歌うのは、ピッチコントロール含めて、かなり大変そうだな、と思っていたのです。
ところが、この方は難なく最低音域に到達しピッチも狂うことなく、音楽的な価値を保っている。
このメゾソプラノのお名前はジェーン・ヘンシェル女史。
で、わたし、デジャ・ヴに襲われたのです。ヘンシェル女史の姿、お顔や体型など、どこかで見たことがあるな、と。
もしかして、あの悔い多きバスティーユ・オペラでの「影のない女」で乳母を歌っていたのがこのヘンシェル女史ではないか、と。
家に帰って、ごそごそと当時のプログラムを見つけて見てみると……。
やはり!
2002年の冬といいますから、もう9年半前になりますが、当時、ウルフ・シルマーが振ったパリ・バスティーユオペラでの「影のない女」の公演で乳母役を歌っていたのは、間違いないくジェーン・ヘンシェル女史! まじですか! 凄い偶然というか運命というか。
この方のパワーで、この公演の音楽的部分は下支えされていたはず。相当なものでしたから。もう8年半前経っていて、かなりお年を召した感じなのですが、バイタリティ溢れておられる。体力的にもきわめて大変なはずの乳母役であるというのに。平伏します。

強力なヒロイン──皇后のエミリー・マギー

まずは、皇后を歌ったエミリー・マギーさんについても書かなければ。
この方、の高音の伸びは凄かった。ピッチコントロールを保ちながら、かなり高い音域でパワー全開で歌っている。テオリン様よりも高めの倍音を含んでいる感じ。容姿も端麗でいらして、皇后の持つ霊界の玄妙さと人間的な苦悩をうまく演じておられました。しかし、ハイトーンが凄かったです。新国には何度かいらしているようですが、またいらして欲しい方です。

もう一人のヒロイン──バラクの妻のステファニー・フリーデ

そして、もう一つの感動が、バラクの妻を歌ったステファニー・フリーデさん。この方を聴くのは「西部の娘」、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」に続いて三度目です。
しかし、ここまで凄い歌唱を聴かせてくれたのは今回が初めてだった気がします。バラクの妻は、エヴァ・マルトンのようなブリュンヒルデを歌えるドラマティック・ソプラノの役柄なので、相当なパワーを要求される役柄。
フリーデさんは、少し語弊があるかもしれませんが、咆吼とでもいえる凄まじいパワーを見せてくれました。ピッチで若干揺れたところもありましたが、バラクの妻の切実な苦悩がストレートに伝わってきました。特に第三幕の冒頭部分から、バラクとの二重唱にかけての部分の迫力は衝撃的。凄かったなあ。

しかし残念なことが。

しかし、今回のパフォーマンス、どうにもしっくりこない。なぜなのか。
雨が降っていたこと、私の体力が十分でなかった、という事実はありましょう。
しかし、それを吹き飛ばすだけのものがなかったのかもしれない。
それは、音楽的な面ではなく、演出面を私が理解できなかったからではないか、と書かざるを得ない苦悩。これ以上、書けるかはわかりません。一日頭を冷やして考えてみます。

Opera

はじめに

新国立劇場の情報誌である「ジ・アトレ」の2010年6月号が届きました。そのなかで、ウィーン国立歌劇場総支配人のイオアン・ホレンダー氏のインタビュー記事が載っていました。
新国立劇場の置かれている非常に難しい状況はすでにこのブログでも何度も取り上げています。予算の圧倒的縮減を求められていたり、年々国からの委託費が減らされて行くであろうという問題です。
“https://museum.projectmnh.com/2010/03/16035945.php":https://museum.projectmnh.com/2010/03/16035945.php
"
https://museum.projectmnh.com/2010/03/16084508.php":https://museum.projectmnh.com/2010/03/16084508.php
"
https://museum.projectmnh.com/2010/03/17032228.php":https://museum.projectmnh.com/2010/03/17032228.php
"
https://museum.projectmnh.com/2010/04/08084114.php “:https://museum.projectmnh.com/2010/04/08084114.php
まあ、ホレンダー氏へのインタビュー記事はこうした情勢を意識ししたもので、少々我田引水な側面もあるのですが、重要なことが多数書かれていましたので、少しご紹介します。
ホレンダー氏の発言を引用しながら考えていきましょう。

芸術作品を国が助成することの意義について

我々は国民の税金を託されて芸術作品を想像するのです。国のためにではなく、税金を払った人のためにです。(中略)国がオペラハウスを造り、人々にオペラを提供することは重要な義務なのです。

劇場が国民のためにオペラを企画し制作すると言うことを国民が希望しているのです。(中略)芸術という心の糧が必要だから自分たちで作り育てている、それが基本です。

日本とオーストリアの文化全般に対する考え方の違いや、日本とオーストリアにおける「オペラ」という西欧由来の芸術の位置づけがは、全く違いますので、ホレンダー氏の意見がそのまま日本にも当てはまるとは思えませんが、少なくとも「芸術が心の糧である」という考え方は万国共通でしょう。

オペラが人間にとって果たしている役割

(オペラというものは公的資金なしには運営が成り立たないものでしょうか? という問いに対して)
全く、明確にそうです。(中略)オペラは全然もうけのない商売です。(中略)心を豊かと言うにするという面でも、遙かに大きな利益、目に見えない利益が入ってきているのです。オペラが、バレエがなせ必要か。それはnotwendig、必要だからとしか言いようがありません。 *それこそが人間と動物の違いなのです。動物たちが必要としないものを人間は必要とするのです.*

今の社会は、明日、どうやって食べていこうか、という生存の危機にさらされている社会とも言えましょう。ですが、それでは人間も動物も同じになってしまいます。人間が動物と違うことの一つ、それこそが芸術を生みだし、芸術を享受することになる、ということなのです。これはどの芸術分野でも一緒です。音楽であっても、文学であっても。

新国立劇場の助成金と自己収入について

(新国立劇場の国からの財源が59%であるという事実に関して)自己収入が41%というのは非常によい数字です。(中略)ドイツでの歌劇場でも自己収入が20%以下というのがほとんどです。(中略)要するに、人に与える精神の価値というものは数字ではないのです。

私は、新国はMETのように、もっと国の助成なしに成り立っていくようになっていて欲しいと思います。ドイツの歌劇場では確かに許される助成金が、日本でもそのまま通用するとは思えないからです。
今、岡田暁生さんの「オペラの運命」という本を読んでいるのですが、ドイツにおけるオペラの位置づけは、国民のアイデンティティを確立するための装置であるという側面があります。日本において、オペラにそこまでの機能が求められているのか、というと少し違うはずです。
だからといって、ホレンダー氏の意見を全否定するものではありません。
岡田暁生氏の「オペラの運命」については、読了次第ご報告しようと思っていますが、オペラの歴史をたどると、現代におけるオペラの位置づけというものについて非常に大きな示唆を得ることができますので。これは別の機会に。

まとめ

今回の記事は、このタイミングで掲載されると言うことには若干の意図はあるでしょう。事業仕分けの問題などを意識しているはずだからです。ホレンダー氏の意見を100%無批判に受け止めることはできないでしょう。
とはいえ、人類に普遍的な部分はあると思いますそれこそが、 *「それこそが人間と動物の違いなのです。動物たちが必要としないものを人間は必要とするのです。」* という言葉に顕れています。これこそが、最も重要な言葉です。
オペラは日本においてはニッチな分野であることは間違いありませんが、オペラに限らず、歌舞伎、文楽、能楽、音楽、文学なども、ジャンルが細分化され、ジャンルのなかもさらに細分化していくという状態。
国民的な共感を得ているのはプロ野球やJリーグのような娯楽や、テレビドラマやバラエティ、映画などといえましょう。
だからといって、人数が少ないから、ニッチだから、といって切り捨てるのは本来の民主主義ではありません。民主主義は多数決主義ではないのですから。
私の書いていることは、きれい事かもしれません。食うや食わずで苦労しておられる方がいらっしゃることは十分に承知していますし、私だって明日はどうなるかわからないのですから。
ただ、音楽が生きる上での一つの支えになっていることは事実で、そうした思いを持っておられる方がほかにもいらっしゃると確信しています。
この「支えになっている」という考え方も、実はくせ者なのですが、これは岡田暁生氏の「オペラの運命」のご紹介の中で考えていきたいと思います。

Opera,Richard Strauss

いよいよ迫る新国「影のない女」

さて、本題。
今週末に迫ったリヒャルト・シュトラウス畢竟の大作、歌劇「影のない女」新国立劇場公演に向けて準備を進めています。今朝から聞いているのはショルティのDVD盤をiPodにいれたもの。この曲は、この一ヶ月間に数えられないほど聞き込んでいますが、第三幕が素敵だな、と思うようになりました。
なんだか、マーラーの皮肉を交えた牧歌的な音楽が聞こえてきたり、ベルクやマーラーのトーンクラスター的な和音が聞こえてきたり、ヴォツェックのフレーズがでてきたり、と、このオペラが受けた影響、逆に及ぼした影響の大きさを体感しました。あと、明らかに「ツァラトゥストラはかく語りき」とおぼしきフレーズも出てきます。
こういうの、ちゃんと譜面に起こして説明したいところですが。。
それから、バラクの妻が三幕冒頭で歌うアリア的なところ、私の今聞いているDVD盤ですと、エヴァ・マルトンでして、もうこのブリュンヒルデ歌いの全力疾走状態で、鬼気迫るものがあります。
その後のバラクと妻の二重唱のところ、泣けますねえ。3月ごろ、感情が不安定で、西田敏行になっていたのですが、最近は現実の厳しさのほうが激しくなって、泣く余裕がないんです。なので、今はまだ泣けない。週末に泣けるといいんだけど。
ここではバラクの旋律が一度提示され、その後もう一度歌われるバラクの旋律に、バラクの妻の旋律が対位法的に絡み合ってくる。このあたりのフレージングのすばらしさは、シュトラウスならでは、の神業とでもいえましょうか。
あと、一番大好きなのが、乳母が「カイコバート!」と叫んだあとに、女声合唱がエコー(こだま)を歌うんですよ。エフェクター的にいうとディレイをかけた感じで、
乳母「 %{font-size:16px;}カイコバート!% 」
女声合唱「 %{font-size:11px;}カイコバート!% 、 %{font-size:9px;}バート!% 、 %{font-size:7px;}バート!% 、 %{font-size:5px;}バート!% 」
という感じを再現している。こんな思いつき、シュトラウスが初めてじゃないと思うけれど、初めて聞いたときはのけぞりました。その後、荘重な音楽とともにカイコバートの伝令が現れるというかっこよさ。たまらんです。
ショルティの指揮も、いろいろ言われていますが、この録音に関して申し上げればまったく違和感ありません。ショルティというと力技でスピード感があって、というイメージなのですが、意外と重々しいんです。第一幕の冒頭のカイコバートの動機もかなりゆっくりと、低音域を強調してますので。
ショルティのCD盤のドミンゴのドイツ語が残念なだけ。歌はうまいのですが、子音の鮮烈感がたらないのですよね。。。ドミンゴにそれを求めるのが恐れ多いことではありますが。
それから、DVD盤のほうは、ライヴ収録盤なので疵が相当あるのは否めない。ウィーンフィルとはいえ、かなりアンサンブルにばらつきが感じられたりします。そこがちと残念
日曜日には泣けるように頑張ります。

Opera,Richard Strauss

オペラトークで紹介されたライトモティーフを、こちらでもご紹介します。

ライトモティーフとは

日本語訳では、示導動機と訳されます。ワーグナーが本格的に使用を始めましたが、それ以前にウェーバーなども似たような試みをしていますのでワーグナーの発明というわけではありませんが、ワーグナーの積極的な使用によりその後の作曲家にも大きな影響を及ぼしました。リヒャルト・シュトラウスのオペラにおけるライトモティーフの重要性はもちろんのこと、私はプッチーニオペラにおいてもその影響が見て取れると思います。
ようは、旋律に、各種の意味を持たせたものです。それは登場人物を喋々するものであったり、概念を象徴するものであったりといろいろです。オペラという劇空間の中では、ライトモティーフは台詞を伴う場合もありますが、伴わない場合もあります。台詞を伴わない時の効果は絶大で、この場面で何が起きているのか、このフレーズに隠された真の意味は何なのか、といった重要な要素を示唆するものとなります。
ライトモティーフを覚えてからオペラを見に行くと、聞き覚えのあるライトモティーフがでてきたときに、ちょっと嬉しくなります。

カイコバートの動機

カイコバートは作品には登場人物として登場することはありませんが、このフレーズによって何度も何度もその存在を我々に明らかにします。きわめて重要なフレーズ。第一幕冒頭、最初のフレーズがこのカイコバートの動機であると言うことことからも、その重要性は明白です。

“!https://museum.projectmnh.com/images/SoundIcon.png!":https://museum.projectmnh.com/midi/strauss/%EF%BC%91%EF%BC%89%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%81%AE%E5%8B%95%E6%A9%9F.mid

皇后の動機

この動機も実に美しいもの。少し愁いに満ちながらも、気位の高さや品位何度を感じさせるフレーズです。

"
!https://museum.projectmnh.com/images/SoundIcon.png!":https://museum.projectmnh.com/midi/strauss/%EF%BC%92%EF%BC%89%E7%9A%87%E5%90%8E%E3%81%AE%E5%8B%95%E6%A9%9F.mid

石化の動機

皇帝は、皇后が三日以内に影を手に入れないと石になってしまいます。伝令が、乳母に、「皇帝は石になるぞ!」と告げるときに相当低い音まで下がってこの不気味なフレーズを歌います。

“!https://museum.projectmnh.com/images/SoundIcon.png!":https://museum.projectmnh.com/midi/strauss/3-Stein.mid
今日で今週の仕事はおしまいですが、週末は週末でいろいろやることがありますので、気が抜けません。