昨週の土曜日、「ダフネ」を上野の東京文化会館で見たわけですが、東京都区内で午前中の用事を済ませたあと、「ダフネ」の開演まで時間がたっぷりありました。半分は喫茶店で本を読んでいたのですが、残りの半分は、僕の大好きな国立西洋美術館に行ってきたのです。
僕は、あまり該博な知識を持ち合わせてはいないにもかかわらず絵画を見るのが大好きです。二年に一度ぐらい行く欧州旅行での愉しみというものが、当地の美術館に行って、ルネサンス以降の西洋絵画をみることである、といっても過言ではありません。
とはいっても、海外に行かなければ西洋絵画の一品を見られないというわけではありません。上野の国立西洋美術館には、驚くべきことに西洋絵画の名品がいくつか収められているのです。そのことを知ったのは五年ほど前でしょうか。それ以来、僕のお気に入りの東京スポットの一つとなっています。一年に一度ぐらい訪れて、馴染みの絵を見ながら心を癒しています。
特に大好きなのが、クロード・ジュレや、リべーラ、ティエポロなど。エル・グレコやジョシュア・レイノルズもありますし、ゴッホ、ゴーギャン、モネ、ピサロもあります。
というわけで、土曜日に行った国立西洋美術館では刺激的な出来事がありました。二〇〇五年に新た収蔵された作品がいくつか展示されていたのですが、心に残ったの作品が二枚ありました。ヤコブ・ヨールダンス「聖家族」と、ギュスターヴ・ドレの「ラ・シェスタ、スペインの思い出」の二枚です。
ヨールダンスの「聖家族」は、ヨセフとマリア、幼子イエスの三人が画かれた作品。暗い背景は、一瞥すると黒一色に思えるのですが、実はバラ色の払暁の光が見えています。マリアの物憂げな表情。マリアの表情は、確かに物憂げなのですが、どこか諦念を感じさせるような素っ気なさも持っています。まるでこれから起こることを予感しているようにも思えるのです。イエスは幸福そうに笑い、何かを指さしています。マリアとイエスの表情のコントラストと言ったら! そして、マリアの素朴な美しさと言ったら! 絵の前をしばらく動くことが出来なかったぐらいです。
同じく、虜になったのが、ギュスターヴ・ドレの「ラ・シェスタ、スペインの思い出」です。スペインのある街の貧民街。夏の暑い盛り。シェスタの時間ばかりは、この高い建物に囲まれて日当たりの悪い界隈ににも天頂から太陽の光が降り注いでいます。太陽の光は万人に平等に降り注ぐのです。日なたでは世間の汚れを知らない子供達が光のなかに佇んでいます。その周りの佇む大人達も、確かに世間の不条理に苦しんでいるのでしょうが、このときばかりは太陽の神々しい輝きの喜びに預かっているのでした。立ってこちらを見つめる若い女は、黒髪で優しいまなざしのなかにも意志の強さが見てとれます。子供を抱く女は、抱くこと自体を幸福に感じている様子。奥にはターバンを巻いた異国風の男が彼方を向いて立っています。手前に座る女の子は、どうやら、少女から女へと踏み出しはじめた頃のようです。
ギュスターヴ・ドレは、アルザス人で、ストラスブールの生まれだそうです。挿絵画家として有名とのこと。なるほどなるほど、と思っていたのですが、このあと、運命の力に畏怖を覚えるのでした。
僕が楽しみにしている、GoogleパーソラナイズドホームページのArt of the Dayというコンテンツがあります。毎日、日替わりで西洋絵画を見せてくれるコンテンツなのですが、なんと今日はギュスターヴ・ドレではありませんか! なんというシンクロニシティ。おそらくは神は存在するでしょう!、と思わずには居られません。また近々国立西洋美術館に行って、感動の追体験をしたいと思わずには居られないのでした。
国立西洋美術館のシンクロニシティ
ケンペ/リヒャルトシュトラウス管弦楽曲集
今日もお休みでした。ありがたいことです。
午前中は、リヒャルト・シュトラウスの管弦楽曲を、ケンペ指揮で聴きました。このEMI廉価版全集シリーズ、本当に重宝しています。
ですが、悔しかったことも。この廉価版全集が出る前に、ABQのベートーヴェン弦楽四重奏全集を買ってしまったのですよ……。もう3年待っていれば安く手に入れられたのに、と言う感じです。
久々に聴いた「家庭交響曲」「英雄の生涯」「ドン・ファン」を楽しみました。家庭交響曲ってこんなに良い曲だったんだ、と感心しました。それから、家人に「「英雄の生涯」って、シュトラウス自身を英雄に見立てて居るんだよ」と教えてあげると「シュトラウスのイメージかなり損なわれたわ。そんなナルシーな人なんだ……」とあきれられたり……。いや、ナルシストだったからこそ、そして妻パウリーネに激しく叱咤され一生懸命努力をしたからこそ、リヒャルトは、後世に名を残す大作曲家になったのです! この世の中というものは、行動に移した者こそ勝利を収めるのです。もちろん、そこに才能が介在するのは言うまでもありませんが。
若杉弘/シュトラウス「ダフネ」
昨日は、ダフネを見に行きました。一幕形式で所要時間は1時間45分でしたが、あっという間に終わってしまった感じがします。本当に楽しめました。
くわしくはこちらも。二期会のページです。
http://www.nikikai-opera.or.jp/richard_s.html
ダフネ役の釜洞さんは、序盤では少々調子が悪かったようですが、終盤にかけてだんだんと声が熟してきた感じでした。本当に巧い方です。数年前の「インテルメッツォ」もすばらしかったのですが、今回も本当に力が入っていらしたと思います。
アポロ役の福井さんもすばらしかった。倍音が豊かな声は、欧米人のそれのようです。本当に安心して聴くことができました。
オケも良かったと思います。時に、弦と金管のバランスが崩れそうになる場面もありましたが、豊かにうねる弦や、金管の力強いファンファーレなど、うまくまとめていたと思います。
今回は、指揮者の若杉さんの指揮がよく見える席だったので、音楽を聴きながら振り方をじっと見ていました。ダフネは、四拍子と三拍子が混交し、時にテンポ取りが倍になるなど、とても複雑な拍子を取っているのだなあ、ということがわかりました。スコアをみるともっと興味深いのではないかと思いました。
今回の舞台ではダンサーが5人加わっていたのですが、すばらしかったと思います。一緒に行った家人に言わせれば「振り付けはありがちだと思うけれどね」ということでしたが、あまりバレエや舞踏を見ない僕にとっては斬新で興味深いものに思えました。
客席も9割方埋まっていて、盛況でした。おかげで終幕後のクロークの混乱には閉口しましたが……(というより、意見を言おうかな、とおもって、喉まで言葉が出かかったのですが、クレーマーになるのはいやだったのでやめておきました。一年前の僕ならきっとなにかしら言っていただろうな……)。そもそも東京文化会館のクロークの設置位置が悪いという問題もありますので、仕方がないとは思いますがね。それにしても、いい身なりの紳士淑女が列に割り込み、涼しい顔をしているのをみると、暗澹たる気持ちになりますね。そうした人間模様を観察できるのも「オペラならでは」なのですけれどね。
ダフネ
シュトラウス
二期会
今日聴いた音楽
今日聴いた音楽。
マーラー:交響曲第8番 ショルティ(サー・ゲオルグ)、ウィーン国立歌劇場合唱団 他 (1999/06/02) ユニバーサルクラシック |
ショルティのマーラー交響曲第8番です。小さい頃からのお気に入りです。このCDすり切れるぐらい聴いて、ほとんど覚えてしまいました。ルネ・コロさんのテノールが美しいです。他の盤だと、テンシュテット盤が良いといいますが、数年前に聞き比べてみたところ、僕はショルティ盤のほうが好きでした。今聞き比べると違う答えになるかもしれません。
ブラームス : ピアノ三重奏曲 第1番ロ長調 デュメイ(オーギュスタン),ワン(ジャン) ピリス(マリア・ジョアン) (1996/03/25) ユニバーサルクラシック この商品の詳細を見る |
ブラームスの三重奏曲は、デュメイとピレシュを愛聴しています。はじめて聴いた若い頃のことを想い出して、懐かしい感じです。特に第一楽章、午後の木漏れ日を浴びながら青々とした草地に上向きになって寝ている感じです。そういうことを想像しながら聴くと、慰めて貰っているような気になってきます。
辻邦生「黄昏の古都物語」
黄昏の古都物語 辻 邦生 (1992/07/31) 有学書林 |
「黄昏の古都物語」を読みました。前奏曲、間奏曲、終曲と題された掌編と五つの幻想的な短篇の世界です。この短篇は、「芸術新潮1984年9月号」でアール・ヌーボー特集が組まれた際に、田原柱一氏の写真と並べて掲載されたとのことです(あとがきより)。
幻想的な作風は、「天使の鼓笛隊」を想い出させます。それにしても、「幻想特急」が牧草地の真ん中に、レマン湖畔に、セーヌの河底に停車している姿が美しすぎて言葉になりません。正直言って、ヤラレた!と心のなかで叫んでしまったほどです。全編に通底するアール・ヌーボーの愁いを帯びた気怠い美しさの表現や、揺らいだ時間の表現が実に見事です。
美に魅入られるとは、その奴隷になることです。でも、それは、官能の甘い酩酊ゆえに、すべてを売り払った疚しさに似た気持を感じさせます
辻邦生「黄昏の古都物語」有学書林、1992年、214頁
「詩人というのは二重の存在さ、生れつきね。曖昧なところがあるから、健全な人たちには煙たがられる。ところが、詩人ときたら、大人のくせに子供。知っていて、何も知らない。泣いていて、笑っている」
辻邦生「黄昏の古都物語」有学書林、1992年、258頁
それにしても、セーヌの河底に列車を沈めるとは、なんという想像力なのでしょうか! 感歎してやみません。
それから、この短編集に収められた「サラマンカの手帖から」は、何十回と読み直している短篇ですが、今日もまた読んでしまいました。いつ読んでも、思うところがあります。僕にとって理想の短篇と言ってもいいと思います。「サラマンカの手帖から」については、また書いてみたいと思います。
辻邦生
パット・メセニー「シークレット・ストーリー」
シークレット・ストーリー パット・メセニー (1992/07/22) ユニバーサルインターナショナル |
仕事に疲れたので、食事もほどほどに、ゆったりしたいと思った。iTuneでJazzをランダム再生してみる。最初に流れてきたDavid Sanbornは今の気分にそぐわない。Sanbornはもっと元気のある時に聴くものだった。
次の曲がヘッドホンから聞こえてきた途端、記憶がパチンと弾けて、20年前のあの日のことを想い出したのだった。
言語哲学を専攻するN先輩の部屋に、先輩達に連れられて夜中にお邪魔したことがあった。年も押し迫った冬の日のことだった。大学近くの安居酒屋でN先輩とJ先輩と三人で呑んでいた。酔っぱらって、三人とも気が大きくなっていた。その場の雰囲気で、N先輩の部屋に行こうと言うことになったのだった。
N先輩の部屋は、池尻大橋の細い街路を通って行った先の、木造モルタルの建物の二階だった。6畳の部屋には小さな台所が設えてあった。日本酒を鍋で湯煎をして熱燗を作るのだとN先輩は言った。本棚には世界の名著や青帯の岩波文庫がぎっしり並んでいた。悲劇の誕生、論理哲学論考、純粋理性批判、存在と時間、弁明、メノン……。部屋の片隅には新聞紙がうずたかく積み上げられていた。なんと夕刊の思想欄が保存されているのだった。
「***、ほんまに、N君のこと見習わんといかんで」
J先輩が私を諭すようにそう言ったのだった。まだ一年生だった私は、本棚や新聞に眩惑されているだけだった。私はやらねばならぬのだ、という気持を抱いた。たとえN先輩のようになれずとも、近づくことは出来るだろうと思った。
N先輩もJ先輩も私と同じように音楽が好きだった。N先輩は帰り際に、私にCDを貸してくれた。Pat MethenyのSecret Storyだった。
「また来てくれよな」
帰り際、N先輩は笑いながらそう言ってくれたのだった。だが、二度とN先輩の部屋に行くことはなかった。
私が就職することを決意したころ、先輩達から盛んに大学院に進むように勧められていた。N先輩にもやはり勧められた。だが、私は大学院に進むことはなかった。
こうして、大学院へ優秀な成績で進学していったN先輩と再び会うことはなくなった。
だが、今日のように、こうしてPat MethenyのSecret Storyを聴くたびに、N先輩のことを思い出すのだった。Pat Methenyの、郷愁をさそう愁いをおびた旋律がきこえるたびに、N先輩に、近づけもせず、応えることもできなかったのだ、という重い事実が立ちはだかっていることを思い出すのだった。そこにあるのは悔恨でも苦みでもない。苛烈で厳然とした運命の力だった。誰をも逃さない運命の網は無情なまでに我々を絡め取り、何処へとも分からぬ方向へと引き摺るのだった。そうして私という者が今あるというわけなのだった。
充実した週末
Strauss;Four Last Songs Richard Strauss、 他 (1997/07/01) Deutsche Grammophon/Special Im この商品の詳細を見る |
Richard Strauss: Daphne Georg Monthy、 他 () Preiser |
R. Strauss: Der Rosenkavalier/Four Symphonic Interludes/Introduction And Moonlight Music/Salomes Tanz Richard Strauss、 他 (1994/02/15) Deutsche Grammophon この商品の詳細を見る |
Wagner: Tristan und Isolde Kurt Moll、 他 (1990/10/25) Deutsche Grammophon この商品の詳細を見る |
週末は、カラヤンがシントウと組んで録音したシュトラウスの「四つの最後の歌」を聴いたり、べームが1944年に振った「ダフネ」の古い録音を聴いたり、プレヴィンがウィーンフィルを振ったシュトラウスオペラ管弦楽曲集を聴いたり、クライバーの「トリスタンとイゾルデ」抜粋を聴いたり、と盛りだくさんな週末でした。久々にゆっくりとした休日を過ごした気がします。
プレヴィンのCDには、「ばらの騎士組曲」「インテルメッツォ」の管弦楽のための間奏曲集、この半年ほど執心している「カプリッチョ」の月光の音楽、「サロメの7つのベールの踊り」が納められています。シュトラウスのオペラのおいしい部分を取り出した感じです。管弦楽曲のみを集めているだけですけれど。やはり「カプリッチョ」の月光の音楽はいいですね。プレヴィンの指揮は意外ともたらせ気味です。ニュアンスがよくでていました。
カラヤンのCDで歌っているシントウさんですが、個人的には少し苦手なタイプの声質だったりします。カラヤンの指揮は切子細工のような繊細な美しさ、溢れるようなストリングスのうねり。たまりませんね。
「トリスタンとイゾルデ」は全曲盤も持っていますが、疲れ気味なので抜粋で楽しむことにしました。ルネ・コロさんのトリスタンにはいつも感銘を受けます。ディースカウさんもいい味出していますし。ほかの指揮者での演奏も聴いてみたいのですが、置き場所がないです。お金のほうは気合いを入れれば何とかなることもありますが(昼食を抜くといった手段……)、置き場所だけは気合いを入れてもどうしようもありません。仕方がないので、また図書館で借りてこようかな、という感じです。
「ダフネ」はだいぶ旋律を覚えてきました。あと一週間で本番です。私は見に行くだけですが、出演される方々は今頃大変なんだろうな、と思います。こちらは、引き続き予習をする予定です。
辻邦生「江戸切絵図貼交屏風」
三度目の「江戸切絵図貼交屏風」に、予想以上に強い感傷を抱かざるを得ません。「江戸切絵図貼交屏風」には、藩の犠牲になった男と女の哀切な物語が収められています。藩は、人間の集合する組織なのですが、一方で非人間的な側面を持つ組織なのであり、その存立のためには犠牲をも厭わない非情な側面を持っています。そうした側面は、現代社会においては国家組織や企業において、まるで合わせ鏡のようにみることが出来ます。「江戸切絵図貼交屏風」において、組織に翻弄された男と女は、心中を図り、仇討ちを果たすがために放浪を続けます。現代社会では、仇討ちは禁止されていますし(江戸時代は国家公認の制度でしたが……)、心中などという話も、あまり聞くことはありませんが、それでも、家族を舞台にした殺人事件や、DVなどには、硬く無機質な社会や組織に弄ばされ、傷ついた人々の哀切な叫びが隠されているような気がしてならないのです。「江戸切絵図貼交屏風」で繰り広げられる哀憫な物語は、現代を写す鏡なのであって、だからこそ、一編一編を読み終わった後に訪れる憂愁な気分がアクチュアルな意味を持ってくるのです。
シュトラウス/ダフネ
Richard Strauss: Daphne Hans Braun、 他 () Deutsche Grammophon この商品の詳細を見る |
2月10日から12日までの三日間、東京文化会館にて、リヒャルト・シュトラウスのオペラ「ダフネ」の日本初演があります。シュトラウス好きな僕としては、ぜひ行きたいなあ、と思い、チケットを手に入れ、予習をしているところです。ギリシア神話でのあらすじですが、一言で言えば、ダフネに恋をしたアポロンが、ストーカー的にダフネを追いかけるのですが、アポロンを嫌ったダフネが、自分の父親である河の神によって、月桂樹に姿を変えてもらい、難を免れた、というお話。なんともなんとも……。オペラのでは少し変わっているようですね。くわしくは、二期会のウェブサイトにて。
http://www.nikikai-opera.or.jp/richard_s.html
ともかく、聴いていると、アルカディックな音楽に心が鎮まっていくのを感じます。クロード・ジュレやプッサンの風景画を思い出すのでした。一度でもいいからギリシアに行ってみたいものです……。
しかし、このオペラを日本で上演するなんて、本当にすごいことだと思いますね。ギリシア神話的な素地が根付いていない国で、日本人だけで演奏するなんて、まるで、古事記を題材にした歌舞伎(そういうのは実際にはないと思うのですが……。あくまで「たとえ」です)をヨーロッパ人が演じるのと同じぐらい大変なことだと思います。そういう意味では、スノビズムだとか、高踏趣味だとかどんなに言われようとも、日本人は本当に果敢だなあ、すごいなあ、と思うのでした。