もう一度、コジの演出と舞台について── 「コジ・ファン・トゥテ」の舞台美術 その3──
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昨日に続いて、5月28日(土)に、東京初台の新国立劇場地下2階リハーサル室Bで催された「「コジ・ファン・トゥッテ」の舞台美術~イタリアの工房から~」の模様を。今日は前半一時間にお話された舞台美術担当のパオロ・ファンティン氏によるお話を。
コジの演出意図について
今回のコジの演出意図としては、舞台上に身近で分かりやすい人間ドラマを作りたい、というコンセプトなのだそうです。これは、演出のダミアーノ・ミキエレットとパオロ・ファンティンが話をしたときに出てきたコンセプトだそうです。
先日も、オペラトークの紹介の際にも書きましたが、四人の若者が夏のバカンスをキャンピング上で過ごすという設定です。
舞台装置は映画の設定に似た回り舞台です。これは、舞台が回ることで、映画のカメラワークのような効果を狙っているのだそうです。歌手は、回り舞台に乗って歌っているのですが、舞台が回ると、視界から去っていくわけです。これが、カメラワークに擬されている、ということと思われます(まだ実際に観たわけではありませんが)。会場の入り口には、舞台装置の模型が置いてありました。写真は撮れませんでしたけれど。
回り舞台にはたくさんのシーンが設えられています。ピクニック場、バール(バーのこと)、ジープ、キャンプ場のレセプションなどです。場面は台本設定に対応づけられていて、たとえば、フィオルディリージどドラベッラの寝室はキャンピングカーになっていたりするようです。
オペラ演出の二つの要素
さて、ファンティン氏によれば、オペラ演出では、二つの考慮点があるとのこと。一つは場所をどうするか、もう一つは人物設定をどうするか、です。
今回の場所はキャンピング場です。自然の中とはいえ、リゾートホテルではありません。より自然環境との距離が近いということです。これは、人間の持っている「自然な部分」を引き出すための設定で、「自然な部分」とは、本能的であったり、動物的であったりするわけです。
登場人物の設定ですが、フィオルディリージ、ドラベッラ、グリエルモ、フェルランドは、都会からやってきた自然に不慣れな四人の若者に置き換えられています。また、狂言回し的な存在であるアルフォンソは過去に恋愛に失敗し傷を負ったキャンピング場のオーナーという設定で、デスピーナはキャンピング場のバールの女給仕という設定です。
今回の演出におけるストーリー
第一幕では、冗談のつもりでアルフォンソのかけにのった男性陣二人ですが、徐々に本気になってきて、嫉妬を抱くようになります。嫉妬こそ人間の本能的な部分のなかでもネガティブで強いもの。
第二幕では日が暮れて夜になるのですが、昼間は明るく楽しげだったキャンピング場も、夜になると真っ暗になり、恐ろしさや不安感を抱くよう環境に様変わりしてしまいます。そこで、ますます嫉妬という本能が助長されて言うという構造になるのだそうです。(このあたりは、まだ観ていないので何とも言えませんけれど)
結局は、冗談のつもりだった賭事の結果、恋人を裏切るという過ちを犯してしまうわけですが、これはもう元に戻せない、ぬぐい去れない過ちです。そういう後味のわるさがあるフィナーレになるようですが、詳しくはあえて不明のままに……。
おわり
ともかく一夏で大人になった四人の若者ということになりそうです。このあたりは今週末を楽しみにしたいと思います。
明日は、舞台美術コーディネータの白石さんのお話。これは本当に興味深いものでしたよ。
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