今日は七回目。公開すこし遅れてすみません。取り急ぎ。
ではどうぞ。
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旧友フランケッティ
さて、イッリカが、「ラ・トスカ」のオペラ化のため、1894年にパリへサルドゥを訪ねたとき、同行者がいた。彼の名はアルベルト・フランケッティという作曲家だった。(写真がフランケッティ)
フランケッティはプッチーニとは音楽学生時代からの級友だった。フランケッティは1893年の時点で、既にこの「ラ・トスカ」のオペラ化の権利を持っていた。
先に書いたように、1889年にプッチーニは「トスカ」のオペラ化をリコルディに求めているのだが、マノン・レスコー以前のプッチーニにそれを実現するだけの「評判」がまだ無かったのだろう。
プッチーニの「トスカ」への思いが封印されていた頃に、リコルディはフランケッティにオペラ化の権利を与えていたのだ。
だが、時代は変わった。
プッチーニの1893年のマノン・レスコーの成功で、リコルディは「トスカ」のオペラ化の適任者はプッチーニだと考えるようになったのだ。
実際、ヴェルディが「トスカ」に示した最大の賛辞は、プッチーニにそれとなく伝えられたらしい。あのヴェルディが絶賛する「トスカ」のオペラ化という仕事が、この上もなく魅力的なものであることに気づく。
こうして、プッチーニのやる気は「ラ・トスカ」のオペラ化へ向けられたわけだ。
策士 ジュリオ・リコルディ
このリコルディという人。リコルディ社の社主でジュリオという。
リコルディ社第三代目当主で中興の祖とされる多才な男だった。音楽教育を受け、教養と経営センスを持った人物だ。(写真がジュリオ・リコルディ)
リコルディ社は、1808年に初代当主ジョヴァンニによって設立された音楽出版社である。リコルディ社は、ベッリーニ、ドニゼッティを見いだし、彼らの出版を手がけることで収益を上げた。
そして、その後ヴェルディを見い出すにいたり隆盛を極めるのだ。
だが、その後の「ヴェリズモ」ブームに乗り切れなかった。ヴェルディは年老いて、新たな作品の発表は期待できない。
そのような状況下にあって、ジュリオ・リコルディは次なる希望であるプッチーを見いだしたのだった。ソンツォーニョ・オペラコンクールに落選したプッチーニの才能を見抜き、「マノン・レスコー」の成功を導き出したのだ。
そんなジュリオ・リコルディにとって、フランケッティから「トスカ」のオペラ化権利を取り上げることはたやすいことだった。
台本作家イッリカと組んで、フランケッティに「トスカ」がいかにオペラ化に適さないか、という考えを吹き込み続けた。
フランケッティは良家の子息で、その資産をもってすれば、みずからで自作オペラを自費で上演することが出来るほどだった。
金に困らないお坊ちゃまは人が良かった。フランケッティはあっさりオペラ化の権利を放棄してしまう。
ジュリオ・リコルディは、契約破棄の一両日中に、プッチーニと「トスカ」のオペラ化の契約を済ましてしまうのだった。
こうして、ジュリオ・リコルディの辣腕が、偉大な芸術を後世に残すことになったというわけだ。
芸術作品(Opera)とはそうしたものだ。それは、誰かの意地や欲望、策略や悪意、それからほんの少しの偶然によって生まれる。それを後世の人々は必然と呼ぶのだ。
つづく
次回は「どうしてアンジェロッティは脱獄したのか?──「トスカ」の歴史的背景」です。
※ 新国立劇場「トスカ」は11月11日~23日にて。