故逢って、本日も休業日でした。我が家にiPad miniがやってきましたので、少し遊んでしまいましたが、本日もいそしんでおります。
歴史的背景は一回で終わるはずでしたがもう少し続きそうです。しかし歴史は面白いです。苦手な方、ごめんなさい。
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「トスカ」の舞台となるのは、19世紀初頭のローマである。当時の欧州史を簡単におさらいしてみよう。
フランス革命
1789年のフランス革命やその後のナポレオンの台頭からナポレオン戦争への至る激動の時代のローマが、このオペラの舞台である。
フランス革命が自国に波及することを恐れた欧州各国はフランスに干渉を仕掛けていた。フランスも対抗するためにオーストリアへの宣戦するに至った。また1793年にはルイ一六世の処刑やフランス軍によるベルギーの占領が諸国に衝撃をあたえ、イギリスを中心にした対仏大同盟が成立しフランスは欧州各国を敵に回したのである。
こうして、フランスは自国内の混乱に加えて、対外戦争にも乗り出さなければならなくなったのだった。
ナポレオンの台頭
そうした内乱と対外戦争の中にあって頭角を現した軍人がナポレオン・ボナパルトだった。ナポレオンはコルシカ島生まれのイタリア人で、イタリアトスカナ地方の貴族の末裔だったという。
ナポレオンは、1794年のトゥーロン包囲戦で手柄[i]を立て、旅団長に抜擢されるに至る。
(写真はカンポ・フォルミオ条約以降のイタリアの状況)
1796年、フランス軍はオーストリアを攻略するために、ドイツ、イタリア方面への作戦が開始された。イタリア方面軍の司令官はナポレオンであった。
ナポレオンは勝利をおさめ、1797年10月にカンポ・フォルミオ条約が成立し、フランスはロンバルディア地方を勢力圏に加える。
フランスはここに数多のフランスの衛星国家群を樹立した。もちろん共和制フランスが樹立するのであるから、共和国である。
衛星国はフランス軍の兵站基地としての機能を求められて作られたわけであるから、その成立に高邁な目的があったとは思えない。
だが、フランス革命という旧来の価値の転倒をイタリアへと拡大させたという意図は大きい。これは後のイタリア統一運動へとつながる布石となる。
ローマの行方
では、「トスカ」の舞台、ローマはどうなったのか。
ローマはイタリア中部を貫く教皇領として教皇の勢力下にあった。当時の教皇はピウス六世であった。
当然カトリック教会はフランス革命政府と対立していた。1793年にはフランス革命政府の使節がローマで殺害され、教皇とフランス革命政府の対立は決定的となる。
(写真はローマ教皇ピウス六世)
1797年にローマで暴動が勃発し、フランス軍司令官が殺害されると、フランス軍は教皇領に侵攻し、トレンティーノ条約を結ぶことになる。その後、1798年2月15日、ローマ市民により、ローマ共和国の成立が宣言されるに至ったのだった。教皇ピウス六世はフランス軍に捕縛され、1799年8月に世を去ることになる。
だが、ローマ市民すべてがこうしたローマ共和国を望んでいたわけではなかったし、ナポリ軍により、1798年が一時期ローマを占領し、再びフランス軍が進駐するなど、不安定な状態が続いたのだ。
つづく
次回も歴史的背景を振り返ります。
※ 新国立劇場「トスカ」は11月11日~23日です。
[i] このトゥーロン包囲戦の手柄の取り方が面白い。Wikiによると、要塞都市への無謀な突撃を繰り返していたのをやめ、港を見下ろす二つの高地を奪取し、そこから的艦隊を大砲で狙い撃ちをしたという。まるで日露戦争における旅順攻略戦のエピソードと同じではないか。