「わかったつもり」から深い読みへ。文章もオペラも同じ。
青葉が映える季節になりました。もう初夏と言ってもいいような一日でした。
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先日読んだこの本が、テクスト解釈を考える上で、わかりやすくまとめられていたので少し紹介します。
なぜ読んだのか?
15年以上も社会人をやって同じ仕事をやっていると、わかったつもりになっていることが多々あります。本人は理解しているはずなんですが、じつはミスリーディングをしているということがあり、すこし困っていました。こうしたことを防ぐためにも、何かしらのヒントが無いかと思い読んでみました。
結論から言うと、そういう「わかったつもり」に対する即効性のある対策を得ることはできませんでした。我々がテクストを「読む」時にいかに誤った読み、浅い読みをしているのか、ということを再認識することは出来ましたが、その対策が、自分がわかっていないことをわかれ、というソクラテスの「無知の知」のような教訓だったので(もっともこれが私がこの本を「わかったつもり」になっているだけなのかもしれませんが)。
自分がわかっていない可能性を常に意識し、細部にいたるまで読みを深めて行くことが必要である、ということでした。
「慣れ」てくると、段落を一瞥して「ああ、これはこういうことをいっているのだ」ということを経験的に察知してひとくくりの意味のまとまりとして認識してしまうことがあります。こういう「慣れ」が危険であり、細部に至るまで読みを深めるという愚直な営みが必要なんでしょう。
海軍大将で総理大臣をつとめた米内光政は、本をかならず3回読むということを信条にしていたのを思い出しました。あたりまえのことですが、テクストを細かい部分いたるまで読み込むことが真の理解に必要ということなんですが、まあ当たり前ですね。
テクスト解釈
テクスト解釈についての示唆は少なからず受けました。整合性を持っているれば、テクストの解釈は行かようにあってもよく、それが正しいとか誤っているという判断を下すことはできない、ということなのです。整合性を失った時に初めてその解釈は破棄されることになります。
この整合性という言葉が、この本を読んでもっとも印象的だったものです。
これはオペラ演出やその解釈に適用できるでしょう。演出家はオペラというテクストを使って解釈を進めます。テクストと整合性のあるかぎりにおいてあらゆる可能性が導出されるわけで、整合性があればこじつけであってもそれは誤っているとはいえません。
そして、聴き手も、そうしたオペラ演出を、整合性を保つ限りにおいて自由に解釈することができるわけです。
逆に言うと一辺倒な解釈では不十分で、それではわかったつもりなのだ、とも言えるわけです。今後はオペラも「わかったつもり」ではなく、脳みそが溢れるぐらいに考えないと、とあらためて思いました。
文脈
もう一つこの本で指摘されていた「文脈」という概念も、オペラ解釈と実に親和性のあるものだと思いました。文章を読むに際して、異なる文脈の適用が、異なる意味を引き出す、ということが指摘されていました。同じ描写でも、そこに文章には書かれない文脈、つまり想定や背景を付加することで、意味が変わるということです。
オペラ解釈も(あるいはあらゆるテクスト解釈も同じですが)、そこに語られない何かを当てはめることで、様々な意味を導出できるということです。たとえば《ローエングリン》にナチズムという文脈を適用することで、いろいろな意味が立ち会われてくるといったようなことです。
文章を「わかったつもり」ということだけにはとどまらず、オペラ、絵画、音楽といったあらゆるテクストを「わかったつもり」にはせず、さらにその先の整合性のある解釈をつくりだすことで、読みを深めていくということが重要なのでしょう。
ちなみに、この本は論旨はもちろん、本の仕立てや構成としても、実にわかりやすいです。文末に、これまでの論旨がわかりやすくまとめられていたのが素晴らしかったです。
それではグーテナハトです。
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