前世の記憶の錯角とともに──マーラー交響曲第10番

先日、マーラーの10番の第1楽章を聴いて、全曲版が気になり始め、さしあたりApple Musicで聴くことのできるラトル&ベルリンフィルのバージョンを聴いています。まだまだ、なにか理解は足らないですね。これまでも何度か聴いたことはありますが、その他のマーラーの交響曲に比べるとあまりに聴いた記憶が少ないです。

それで、このところ、クラシックと言えばほとんどこの曲ばかり聴いています。何度聞いても「果てしなさ」しか感じません。つまり、まったく分かった気がしない=飽きないのです。終わりを知ることなく、ただただ酩酊するだけ、と言う感じです。今日も大掃除をしながら何度も聞いていました。聴けば聴くほど新鮮な発見があるのです。神学の文脈における霊性という言葉が、なぜか心に浮かびます。この曲に彼岸を感じるというご意見を聞いたこともありますが、なにか、宗教的な文脈での死のイメージを強く感じるのです。

もちろん、この曲が書かれた背景というものもあって、妻であるアルマの不倫がマーラーを苦しめた時期にこの曲が書かれたなど、さまざまなのですが、そうした背景にとらわれずに聴いてもそこに何らかの意味を見いだしてしまうわけです。バスドラムとチューバの陰鬱なフレーズは、解説によれば、不倫相手が訪れたときの心のショックと言うことになっていますが、私にはどうにも天国の入り口でをノックして、裁きを受ける時の判決を知らせる音にしか聞こえませんでした。

それは、もしかするとすでに見知った前世の記憶なのかも知れません。ほかにも見覚えのある街を思い出す気がするのです。濡れた石畳とか、曇りきった港から出港する大西洋航路の客船とか。あるいは、マーラーのほかの交響曲の一節が聞こえたり、あるいは後代の作曲家であるベルクを思い出したり。

ウィキペディアによると、このラトルの演奏はクック版第3稿第2版を使っているとのこと。そうか、10番の補遺版はこんなにあるのか、と、ウィキペディアの記事はなかなか興味ぶかい情報が満載でした。マーラーも死に際して、扁桃炎にかかっていた記載も見つけまして、先日ひどい急性扁桃炎で苦しんだこともあり、すこし親近感を憶えたりもしました。

さて、今日は冬至。もう一息で正月ですか。早いものです。明日からは夏にまっしぐら! 早く夏になれ!と思います。

それでは、みなさまどうかよいクリスマスを。おやすみなさい。グーテナハトです。