移動に際してマーラー10番を聴く

今年に入ってから、忙しさが続いています。もちろん、忙しさというのは相対的な概念で、私が忙しいと言っているのも、世界の忙しい人々に比べると暇な部類に入るのかも知れない、ともおもいます。結果的には、忙しさというのはタスクの優先順に帰結するもではないか、と思います。がゆえに、このWeblogに書くというタスクの優先度が下がってしまっている、というのが、忙しさが続いている、という先述の表現に対するるひとつの回答だと思います。さまざま時間が足りません。困りました、と言うところです。

今日は、仕事の集まりで、東京から大阪へ日帰り出張でした。我が家では、疲労というものは、移動時間に比例するのではなく、移動距離に比例するのではにか、という説が有力です。東京から大阪まで移動する2時間30分というのは、その時間よりも距離に応じて消耗しているのではないか、と思います。これ、なにか相対性理論と関連するのではないか、と言う発想があります。新幹線の移動であったとしても、相対性理論は有効で、その速度に応じて時間の流れが変わっているはず。疲労と時間に関連があるとするならば、距離が長く、高速で移動すれば、人間の疲労感覚にも影響するのではないか、というSF的発想があったりします。

それで、この2時間半をきちんと使いたいと言うことで、東京へむかう車中で書いています。

聴いているのはマーラーの交響曲第10番。シアトルフィルをトーマス・ダウスゴーが振ったもの。

どうも、昨年末もマーラーの交響教第10番ばかり聴いている時期がありましたが、どうやら今今でいうとこの曲への共感が半端なく高まっているなあ、と感じています。もともとマーラーは好きでしたが、そこにある民謡的なフレーズに苦手意識を感じていたのです。10番について言うと、なにかあまりそうした感覚を受けず、直接、楽曲が胸の中に差し込んでくる感覚を持っています。この音源、すこし弦のポルタメントが聴いていたりして、ねっとりとした感じに仕上がっているように思います。とても共感できる演奏だと思います。今日はすでに③回ほど聴いていると思います。

それにしても、仕事含めてたくさんの出来事がありますが、こうして音楽をしばしきいて心を洗い流すことができる、ということはひとつの幸いだと思います。そうしたいくばくかの幸いを見つける、というのが人生なんだろうな、と思います。

それではおやすみなさい。グーテナハトです。