講演会「没後20年辻邦生を語る」にいってまいりました──その2 松浦寿輝先生「辻邦生──天性の小説家」について

2019-07-01

はじめに

昨日の続きです。

学習院大学史料館講演会「没後20年辻邦生を語る」の後半は、作家・詩人・批評家の松浦寿輝先生による講演「辻邦生──天性の小説家」でした。こちらも本当に勉強になり、さまざま考えを巡らす機会となりました。

松浦先生のお話は、辻邦生を天性の作家として捉え、作家デビュー前のパリの手記における1つのクライマックスであるパルテノン体験記述の文体と内容の解釈を通して、辻邦生がデビュー前にいかに作家として完成していたのか、説明していくものでした。

天性の作家

辻邦生の作家デビューは37歳。早いとはいえない作家デビューではありましたが、実のところ、その時点で辻邦生は作家として完成していて、つづく40台において奇跡的ともいえる創作エネルギーを爆発させて、「背教者ユリアヌス」をはじめとした大作群をものにしていくのです。

これは、作家デビュー前に、技術的訓練をただひたすらに積んでいたわけで、「たえず書く人」という言葉が相応しいものだったわけです。

松浦先生は、作家でありたいという意志・決意・努力の持続にこそ天分が現れるのであり、「天性の作家」とは、作家たらんとする情熱と決意を持続し、電圧を高めて、一挙に書き出し、花開くもの、とおっしゃっていました。今風にいうとレジリエンスの発露という所だと思います。

実際に、パリの手記のなかから第3巻「岬そして啓示」の中から、ギリシアを訪れた辻邦生がパルテノン神殿を訪れたときに書き記されたとされる実際の文章を分析して、均整のとれた躍動感のあるリズミカルな文章を解きほぐしていき、デビュー前からいかに完成されていたのか、松浦先生は熱く語っておられたと思います。

文章の長さと時間が呼応していたり、風の描写など身体感覚を大切にした描写、過去時制と現在時制を織り交ぜた文章、など、あらためて味わいました。長いセンテンスと短いセンテンスの組み合わせが、音楽的でリズミカルなアクションに満ちた文章となっている、という話で、おっしゃるとおりと思いました。

(ただ、私は辻邦生以外の作家の小説をあまりよむことが出来ずにいまして、こうした文章の特徴を言われたとしても何かそれが自明のことであるようにも感じました。それしか知らないとその価値が分からない、というようなそういう感覚でした)

辻邦生と西欧文明

辻邦生は西欧文明に影響をうけたとされますが、そもそも、西欧というのはヘレニズムとヘブライイズムという二つのH(世界史の教科書で2Hと言う言葉で表されますが)によるものですが、辻邦生はヘレニズムには興味があったがヘブライイズムには興味がなかったのでは、という見解があったりしまして、たしかに「ユリアヌス」も「異教」が一つの要素ですし、「春の戴冠」においても、ギリシア的イデア論の復興がテーマでした。

個人的には、そうした割り切りができたとしても、キリスト教的モチーフを用いた作品も思いあたたりしまして(「風の琴 二十四の絵の物語」の第八の旅「地の装い」)、あるいは、「背教者ユリアヌス」の最新文庫版の解説で加賀乙彦さんがドキッとすることを書いておられたり、これもなにか一つの大きな辻邦生研究のテーマなのではないか、と思いました。

あるいは、西欧は車の両輪の一つであり、日本文化への興味と眼力があったということもわすれてはならない、と話しておられました。

また、宗教的な観点では、「美と永遠」ひとつの根本概念として辻文学の中に屹立している、という趣旨のお話をされていたことも付記いたします。

辻邦生の小説とは何か?

辻邦生の小説は、一体何か?という問い。池澤夏樹さんが、辻邦生をモダニズム小説として捉えている点について松浦さんは否定的にとらえておられました。モダニズムと言うよりもむしろ、十九世紀的小説を完成させたのが辻邦生だ、という見解でした。辻邦生が留学した1957年から1961年のパリはヌーヴォー・ロマン、アンチ・ロマンの時代だったのです。その時代にあっても辻邦生は、十九世紀的小説を守り続けた訳です。まさに、辻邦生のなかには小説の完成形があって、それを守り続けたのだ、ということでしょうか。

辻先生との思い出

松浦先生の講演の最後は、辻先生との個人的な思い出でした。松浦先生も学習院大学の仏文科の非常勤講師をされていたとのこと。そのころ辻先生との交流があったとのことです。松浦先生が辻先生に詩集を贈られた後に、学習院大学で辻先生とすれ違ったときの思い出、秋の日の光の中で、辻先生と挨拶されたことを懐かしそうにそしれ嬉しそうに話しておられて、辻先生は、アポロン的知性の持ち主で、明晰、明澄、にこやかだったというお話で締め括られました。

おわりに その1──十九世紀ロマンの時代

辻邦生の小説が十九世紀小説の完成形というのは、ひとつ直球的な結論で、実に明快に感じました。しかし、この十九世紀的(辻先生の時代にあっては「前世紀的」となるのでしょうけれど)という言葉は否定的に捉えられるのではという思いもあり、すこしショッキングに感じたのも事実です。

ただ、その後考えたのは、おそらくは十九世紀というロマン派の時代を再構成しているという肯定的な意味合いでも捉えられるのではないかと考えたのです。クラシック音楽において、十九世紀ロマン派はまだアクチュアルで、多くのコンサートでは十九世紀に作られた音楽が演奏されているわけですし、現在の人権意識などは十九世紀において完成形へと形作られたわけです。

もちろん、その後、十九世紀は良くも悪くも瓦解していくわけですが、そうした十九世紀的なロマンの時代=つまりローマ風=異教風=ヘレニズム風の時代を現代に再興しようとしているルネサンス的なありかたとして辻邦生の小説があるのだ、と考えました。

十九世紀は古いのではなく、何度となく人類の歴史に訪れる人間性恢復の波の一つが辻文学なのだ、と思い、おそらくは次の波が来るときに、あらためて辻文学の重要性が高まるのだろうなあ、と思いました。

おわりに その2──小説家の三要素

また、作家とは、文章表現、思想、物語構成、の三つがあるのではと思います。それは辻邦生が「言葉の箱」で語っている、詩、根本概念、言葉という小説の三要素に対応為ているのではないか、と思います。こうした三要素を天分の小説家である辻邦生がどのように鍛えていったのだろう、そういう思いを感じながら、昨日今日と時間を過ごしていました。「言葉の箱」をもう一度読むとか、「パリの手記」をもう一度読もうか、などと思いながら、そろそろ日付の回る時計を眺めながら、キーボードをたたいております。

なかなか時間が取れずに今日も夜更かし為て書いています。

そろそろ休んで、明日からの現実に向き合おうと思います。また雨が心配な季節になりました。どうかみなさまお気をつけください。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

Posted by Shushi