シュトラウスの洒脱さとマーラーの深刻さ──ラトルの振る交響曲第5番を聴きながら──

はじめに

急にマーラーが聴きたくなった。それも交響曲第5番。第1楽章の緊張感を感じたかった。AppleMusicで選んだのがラトルがベルリンフィルの音楽監督に就任した際の記念コンサートのライブ録音。


たしか、この演奏をBS放送で観てラトルを好きになったはずだ。

まるで、大海のうねりのような音楽。巨大なタンカーでさえ翻弄されるようなうねりで、なにか情感をかき乱し、世界のことわりの厳しさに退治しているような畏怖を感じる演奏。

初めて聴いた5番はマゼールがニューヨークフィルを振ったものだった記憶しているが、そのときはあまり好きになれなかったはずだ。おそらくは30年ほど前のことで、まだ小学生か中学生だった。

あるいは、第4楽章だけを目当てに聴いていたようなふしもあり、第1楽章、第2楽章、第3楽章は当時の私の理解を超えていたのかも知れない。当時はマーラーと言えば交響曲第2番と交響曲第8番ばかり聴いていたのだ。

マーラーとシュトラウス

そもそもマーラーよりもリヒャルト・シュトラウスを好んでいた。かつて知人に言われたのことがある。昔はマーラーが好きだったが、最近はリヒャルト・シュトラウスが好きなんです、と言うと、なにか道理を知らない子どもに言うように「普通、逆ですよね?」と。

シュトラウスが「ツァラトゥストラはかく語りき」のような一見親しみやすそうな音楽を書いていることもあり、最初はリヒャルト・シュトラウスから入るにせよ、その後、マーラーのなにか深刻な色彩に彩られた音楽に進むのが王道ではないか、という見解がその知人の言葉の背景にあるようだ。

シュトラウスの洒脱さとは

シュトラウスの洒脱さや明るさは、おそらくは世界の深淵をのぞき込んだのちに、その深淵を咀嚼するための洒脱さであり明るさなのではないか、と。そうでないと、元帥夫人は「どうして腹が立つの? これが世の中なのに」と言わないはずなのだ(もちろんテキストはホフマンスタールによるもの。そしてこのブログの現在の巻頭言でもある)。

シュトラウスの洒脱さ──こういうとき、私は「町人喜劇」を思い出すのだが──も、やはりそこには、なにか世界との折り合いをつけなければならないにっちもさっちもいかない状況を、芸術美が支えている、という感覚だ。現世の馬鹿馬鹿しさを一段上から俯瞰するような感覚、メタ視点に移行することで、現世の暴圧をいなすような感覚。

深淵を見据えるマーラー

マーラーは、反面、世界の深淵を常に見据えている。咀嚼するというよりも、ストレートにその暗い深みを表現している。それも、なにかシニカルな色彩とともに、その深淵を表出している。時に深刻に、時に自虐的な皮肉とともに、その音楽が眼前で繰り広げられる。それは何か、悲劇映画を観ることができるかどうか、と言う観点とも重なる。マーラーを聴くと言うことは、シュトラウスを聴くときとは違う心の強さを要求される。深淵は覗きこむには暗い。だが、そこには人を魅了する闇と真実が眠っている。それは芸術のデモーニッシュな要素でもある。

おわりに

フランクリンだったか、ワインを飲めると言うことは健康な証拠だ、という言葉を聞いたことがある。

同じように、健康でなければマーラーには耐えられない。そんなことを感じる。

そうだとすると、私は以前よりも健康になっているのか、とも思う。たしかに、毎日泳ぎ、酒量を減らしたおかげで、体重はずいぶん減った。ただし睡眠不足が昂じているけれど(とはいえ、私は悲劇映画は今でも見られない。まだ健康度は低いのだろうか)。

今日も結局夜更かしだ。いつになったらよく眠れる日々が来るのだろうか。

おやすみなさい。グーテナハトです。