マーラー9番をアバドの指揮で聞いてみる
はじめに
相変わらず聴いているマーラー9番。今回はアバド。この週末からはラトルにかわり、アバドを繰り返し聴いています。
美的高揚のようなもの
第1楽章の高揚は、おそらくは、強烈な美的な衝撃を表していて、それは、芸術美なのか、あるいは愛情につながる衝撃であるかもしれず、という感じです。ベートーヴェンやワーグナーを聴いた衝撃、アルマを一目見た衝撃、そんなことを思いました。第1楽章の16分過ぎあたりの箇所です。
こういう、衝撃的な瞬間というものは、人生において何度か訪れるものですが、そうしたときの、無意識に声を出してしまうそうした瞬間を想像してしまいました。
その後、何か最後の審判のような金管の咆哮とティンパニーの連打があるあたりも、何か示唆的で興味深いです。触れてはいけないものに触れた衝撃。マンの「小フリーデマン氏」のような感じ。
磁器のようなアバドの演奏
それにしても、アバドの指揮は、磁器のような美しさがあります。繊細で白く高貴な磁器が、夕日の差し込宮殿の奥に置いてあって、誰も知ることもないその磁器が、夕陽に照らされることだけに意味があるような、人がその存在を知らなくても、ただ、イデアとしてそこにありさえすれば世界が支えられている、そんな演奏だなあ、と思いました。
おわりに
いまさらマーラー9番とは、本当に遅かったかな、という感覚です。
複利効果と同じように、物事を知るのは、早ければ早いほどメリットがあります。ただ、これまでは、マーラー9番を聴いてもあまり共感できなかったということなんだろうなあ、と思い、まあ、しかるべき時に聴くようになったのではないか、と思うようにします。
それにしても、この激務…。いや、今まで、もっと働いたこともありましたが、まずは身体が持たなくなり、あるいは、何か別のことを手掛けたい、という気分になります。激務からのがれたい、というわけではなく、何かに裨益することをしたい、というそういう気分なのやもしれません。
マーラーを聴くようになったのは、こういう心境の変化とも関係あるのでしょうか、なんてことを考えながら、夜更けの通勤列車で文字を書き連ねています。
それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。
ディスカッション
アバドのマーラー9番はルツェルン音楽祭の演奏を偶然見て感銘を受けたことがありました。ザビーネ・マイヤーが出ているオケ(選りすぐりメンバーと後日知りました)で最終楽章はもはや祈りを超えて彼岸の世界を感じさせてくれた記憶があります。晩年のアバドの表情も心に染み入る雰囲気で圧倒されるのではなく言葉を必要とはしない世界を感じました。
ありがとうございます。
ザビーネ・マイヤー、あとは(どこか忘れてしまいましたが確かアメリカの有名な)弦楽四重奏メンバー、ベルリンフィル引退したビオラのクリスト、などが参加したスーパーオケですね。私もテレビで偶然見ています。どこかにDVDが残っているかもしれません…。ルツェルンとアバドの組み合わせは最高だと思います。今はAppleMusicで聴けず残念です…。