Book

黒田如水
黒田如水

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(2013-10-22)

吉川英治「黒田如水」読みました。黒田如水は黒田官兵衛のことです。今年の大河ドラマですので、いきおい盛り上がりました。
Kindleは無料ですので、みなさまもよろしければ是非。
吉川英治を読むのは高校以来かもしれません。講談調ともいえる古風な歴史小説の趣が息づいていて、なんとも懐かしく、そして「感動」しました。
白眉は、織田信長が自分の過ちに気づくシーンでしょうか。
黒田官兵衛が信長に謀叛した荒木村重に囚われる場面。
信長は、黒田官兵衛が荒木村重に加担したと誤解し、人質にとっていた官兵衛の息子松千代を手打ちにするよう命じるわけです。松千代を預かっていたのが竹中半兵衛ですが、もとより松千代を手打ちにするつもりなどなく、偽首を信長に届けてお茶を濁すわけです。
結局、荒木村重は敗北し、官兵衛は加担どころか、一年にも渡って監禁されており、満身創痍で信長に面会するわけです。信長は、残忍な処罰を下しますが、そうした処罰は常に正しい判断に基づいていたという自負がありました。ですが、今回は官兵衛が寝返ったものと早合点してしまったわけです。
信長が、官兵衛に松千代を手打ちにしたことを知らせるところで、竹中半兵衛と若武者が登場します。この若武者が松千代。のちの黒田長政。竹中半兵衛は、信長に、自分は主君の命に背き、松千代を手打ちにしていなかったと告白し、ここで腹を切る、というわけです。
それを聞いた官兵衛は、松千代に、親同然の竹中半兵衛が、お前のために命を落とすのだから、お前もここで武士らしく腹を切れ、と命じます。
ここに至り、信長は、半兵衛を許し、自らの過ちを認めることになります。
という、この小説のクライマックス。ここで、いくばくかの感動を覚えてしまいました。感動をしたのは、信長が後悔する、という部分についてなのですが。
やはり、日本人はこういう忠君物語が大好きです。
高校生の頃には、純然たる歴史小説としか読めないのですが、会社組織を知った身にとっては、完全なまでな組織のメタファーになっています。
日本人は昔から変わらなかったのか、吉川英治が当時の日本人を歴史に投影したからか、吉川英治をはじめとした歴史小説のパースペクティブが日本人を形成したからなのか。
少なくとも、ここに描かれるのは、現代日本組織におけるごくごく普通の人間模様でした。ここに描かれているような忠君模様が、いまの日本を支えているのかもしれません。
ちなみにこの小説が発表されたのは1943年1月から8月です。太平洋戦争真っ只中で、例えば1943年4月には山本五十六が戦死するなど、敗色が濃くなる時期にあたります。
随所に見られる、天下統一の大業のためなら我が子の命など仕方が無い、という台詞は、もちろん執筆当時の状況を反映しているでしょう。この小説を読んだ「父親」は何人もいたはずです。
いろいろと考えることの多い一冊でした。
ではグーテナハト(?)です。

Music

でましたね、iTunes Match。

でましたね、iTunes Match。

iTunesで買った音楽はもちろん、自分が持っている音楽もクラウドに上げることができるというわけです。
iPodのコンセプトが、音楽を全て持ち歩くということであれば、iPodに入りきららない音源があったとしても、それはクラウドに載せていれば、ネットが繋がっていればどこでも聴くことができるようになる、という事になります。
年間3980円というのも、考えようによっては高いとも言えません。iPod Classicalは、カカクコムによれば25000円程度です。iPhone8GBモデルを持っていた場合、6年間使えばペイするわけで、リーズナブルと思います。
つまり、これはすでにうわさにあがっていたiPod Classicの終焉を意味するものと思います。別に大きいハードディスクを積まなくても、クラウドに上げておいていつでも必要なときにダウンロードして使えばいいよね、ということなのです。
iPhoneの8GBさえ持っていれば、事足りる、ということなのです。ですから、もう昔ながらのあのiPod Classicの終焉が近づいている、と予感してしまいます。

気になる制限事項

気になる制限事項。iTunesストアで買った曲以外については、2万5000曲が限度である、とされています。
コレが問題です。特にオペラリスナーにとっては。
ポップス、ジャズなどは、いいですよ。1曲で完結しますから。
ですが、オペラのCDでは一曲あるいは一幕が幾つものトラックにわかれていて、それぞれが1曲として計算されてしまいます。
たとえば、ばらの騎士の場合、ハイティンク盤は、62曲から構成されています。カラヤン盤は48曲から構成されています。
私は、iPod Classicを2台持ちしていまして、クラシック音楽とジャズ系音楽をそれぞれわけています。昔はひとつでしたが、入りきらなくなりましたので。
変な写真ですが、うちの二台のiPod ClassicとiPod touchです。
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私の場合、クラシックを入れているiPod Classicは21,210曲、ジャズを入れているiPod Classicは、8,368曲ですので、あわせて、25,000曲をゆうに超えます。従って、私はこのiTunes Matchの利点を享受することはできません。

もう一つの懸念点

もう一つの懸念点。クラシックの場合、iTunes Matchでただしい曲と紐付くのでしょうか。ポップスやジャズと違い、特にアルバム名の付け方が揃わないケースが多いでしょう。いまでもアルバムアートワークが正しくひもつかないことも多いのです。
(逆に思いもよらない曲が紐ついてきて、得してしまうケースもあるかもしれないですが)
というわけで、私にとっては興味深くはあるものの、デメリットも少なくないように思えてならないiTunes Matchです。もう少し眺めましょうか、と思います。なにかよい情報やアイディアがあれば教えていただければと思います。
ではグーテナハト。

Book

いまさら感あり、なかなか恥ずかしさもありますが、以下の本を読んでみました。寝ながらは学べないので、電車の中でKindleで読んでいました。

寝ながら学べる構造主義 (文春新書)
文藝春秋 (2012-09-20)
売り上げランキング: 1,483

構造主義の先駆としてのマルクス、フロイトを取り上げ、その後構造主義四銃士として、フーコー、レヴィ・ストロース、ロラン・バルト、ラカンを取り上げた入門書です。入門書ならではの深みと面白さというものがあり、今回読んでとても楽しかったです。
現在の相対主義的価値観が、どのように生じたのか、ということがよく理解できます。
私は、構造主義とは兎にも角にも主体が失われ、普遍的妥当性と客観的必然性が形式以外のところで失われる過程と捉えました。それは、まさに現代のあり方を捉えています。あるいは、構造主義が現代を作ることに加担した、ということなのだと考えました。
そういう文脈でとらえると、ロシアのクリミアへの勢力伸長や、中国の南シナ海や東シナ海での勢力拡大といった、力による現状変更も、国際秩序というある種の相対的価値観に囚われることなく、別の論理で説明のできるものだ、と思いました。
また、齢を重ねてから再びこういった哲学関連書を読むというのは実に興味深いものが有りました。特にラカンのオイディプスコンプレクスのあたりは、世の中を渡り歩くためには極めて重要な実践的概念だと思います。
ちなみに、同僚に構造主義を知っている人はあまりおらず、さすがに一般には知られていない概念なのだなあ、ということを再確認しました。こういう乖離も、舞台と客席の乖離につながるものだと思い、難しさを感じることがよく有ります。
今日の音楽はこちら。ディーリアスのフロリダ組曲。なにか落ち着く一曲。

ではグーテナハト。

Book,Murakami Haruki

小澤征爾さんと、音楽について話をする
小澤 征爾 村上 春樹
新潮社
売り上げランキング: 29,692

先日の件、「小澤征爾さんと、音楽について話をする」の93ページから記載されていました。
レコードマニアを小澤征爾が批判をしているシーンでした。
高価なオーディオ装置とレコードを沢山持っている人はだいたいにおいて忙しい人達だから、家にいる暇なんてなくて、音楽を少ししか聴いていない。お金のある人は忙しいのだから。
小澤征爾はそうしたレコード、CD、商品に対する嫌悪感を持っていて、都内の大型レコード店で、しばらく忘れていたそうした嫌な気持ちが甦ってきてしまった、というのです。
その嫌悪感が具体的にどういうものなのかは語られていません。
一方、村上春樹の音楽の聴き方はマニア的な聴き方ではない、と小澤征爾は述べます。村上春樹の音楽の聴き方がとても深い、というわけです。そうした中で、音楽に対する、小澤征爾の見方と村上春樹の見方が違うことがわかり、そうした違いが小澤征爾にとっては面白く新鮮だったようです。
最後に、村上春樹との対話をマニアのためにはやりたくなく、本当に音楽の好きな人たちにとって、読んでいて面白いというものにしたい、と小澤征爾が述べて、このシーンが終わります。
このシーンのあと、村上春樹が長い注釈を書いています。このシーンの重要性ゆえだと思います。
村上春樹の音楽の聴き方というのは、いろいろなレコードを買って、あるいはコンサートに熱心に通って、同じ演奏を違う演奏家で聴き比べる、相対化するということに喜びを見出し、自分にとっての音楽をひとつひとつ時間をかけて形づくってきた、というものだそうです。おそらくはこうした聴き方に小澤征爾は興味をもったのだと思います。
その後、やはり痛切ともいえる思いが述べられていました。
プロとアマをへだてる、あるいは創り手と受け手を隔てる壁というのは、かなり高いもので、相手が小澤征爾ぐらい超一流であれば、その壁は高く分厚いものになるというのです。
ですが、村上春樹は、音楽について正直に率直に話し合うことの妨げにはならず、音楽はそうしたことを許す裾野のひろい、懐の深いものであり、そうした高く分厚い壁を抜ける通路を見つけることが大切なのである、というわけです。
なるほど。
自分の音楽の聴き方というものを改めて考えるものでした。どこまでいけるものなのか。どこまでいくべきなのか。難しい問題です。
ではグーテナハトです。

Book

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近所のほうれん草?畑です。青々と若葉が吹き出していて、なんとも希望にあふれた光景です。未来にむかってこういう若々しさが保たれるといいのですが、どうも最近思うのは文明が疲弊し衰退しているのではないか、という気分です。まあ随分前から言われていることでは有りますが、昨今つとにつとに思うことが多くなりました。
さて、最近Kindleで本を読んでます。といってもiPhoneアプリですけれど。とにかくかさばらず、手軽に読めますので、重宝しています。
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本はなんだかんだとかさばりますし、荷物が重くなります。私はどうもいつも荷物が多くかばんが大きいので、本をこういう形で手軽に持つことができるというのはありがたいことなのです。
こちらは吉川英治の「黒田如水」で、無料で手に入れることができます。ちなみに、大河ドラマはどうもあまり史実に敷衍していないようですし、評判もあまり良くないようですが、私は嫌いではなく、ずいぶん楽しんでいます。
こんな感じでマークもできます。
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そして、マークをした部分を一覧表示もできますね。
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紙の本の場合「何を持っていくか」という選択を外出前に常に強いられていましたが、Kindleはそういうことがなくなりました。これって、iPodがでた時に感じたのとおなじです。かつては、持ち出すCDを選ぶ時代でしたが、いまは、iPodにある程度音楽が入っていますので、持ち出す音楽に悩むということはなくなりましたので。
Kindleなんて、もう何年も前から使えるようになったわけですが、最近は本も増えてきて使いやすくなりました。もう少しほんの値段が下がるといいんですが、値段が下がるのも書籍文化にとっては今ひとつなのでしょうから、いまはこちらで一旦は滿足しておきましょう。
ではグーテナハト。

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本日は自宅にて仕事などを。午前中に片付けて、休息の後、午後は近所のカフェを家族と一緒に開拓に。その帰り道に出会った猫がこちら。
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明らかに王者あるいは女王の風格で、人を恐れることがありません。写真を撮ろうとするとこちらに擦り寄ってきます。どうやらなでて欲しかったようですが、私にその気がないと知ると、ぷいっと何処かへ消えていってしまいました。
まあ、人間も猫も同じです。また会いに行こうと思います。今度はなでてあげることにします。
それではグーテナハトです。

Book

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青葉が映える季節になりました。もう初夏と言ってもいいような一日でした。

わかったつもり~読解力がつかない本当の原因~ (光文社新書)
光文社 (2013-12-13)
売り上げランキング: 4,934

先日読んだこの本が、テクスト解釈を考える上で、わかりやすくまとめられていたので少し紹介します。

なぜ読んだのか?

15年以上も社会人をやって同じ仕事をやっていると、わかったつもりになっていることが多々あります。本人は理解しているはずなんですが、じつはミスリーディングをしているということがあり、すこし困っていました。こうしたことを防ぐためにも、何かしらのヒントが無いかと思い読んでみました。
結論から言うと、そういう「わかったつもり」に対する即効性のある対策を得ることはできませんでした。我々がテクストを「読む」時にいかに誤った読み、浅い読みをしているのか、ということを再認識することは出来ましたが、その対策が、自分がわかっていないことをわかれ、というソクラテスの「無知の知」のような教訓だったので(もっともこれが私がこの本を「わかったつもり」になっているだけなのかもしれませんが)。
自分がわかっていない可能性を常に意識し、細部にいたるまで読みを深めて行くことが必要である、ということでした。
「慣れ」てくると、段落を一瞥して「ああ、これはこういうことをいっているのだ」ということを経験的に察知してひとくくりの意味のまとまりとして認識してしまうことがあります。こういう「慣れ」が危険であり、細部に至るまで読みを深めるという愚直な営みが必要なんでしょう。
海軍大将で総理大臣をつとめた米内光政は、本をかならず3回読むということを信条にしていたのを思い出しました。あたりまえのことですが、テクストを細かい部分いたるまで読み込むことが真の理解に必要ということなんですが、まあ当たり前ですね。

テクスト解釈

テクスト解釈についての示唆は少なからず受けました。整合性を持っているれば、テクストの解釈は行かようにあってもよく、それが正しいとか誤っているという判断を下すことはできない、ということなのです。整合性を失った時に初めてその解釈は破棄されることになります。
この整合性という言葉が、この本を読んでもっとも印象的だったものです。
これはオペラ演出やその解釈に適用できるでしょう。演出家はオペラというテクストを使って解釈を進めます。テクストと整合性のあるかぎりにおいてあらゆる可能性が導出されるわけで、整合性があればこじつけであってもそれは誤っているとはいえません。
そして、聴き手も、そうしたオペラ演出を、整合性を保つ限りにおいて自由に解釈することができるわけです。
逆に言うと一辺倒な解釈では不十分で、それではわかったつもりなのだ、とも言えるわけです。今後はオペラも「わかったつもり」ではなく、脳みそが溢れるぐらいに考えないと、とあらためて思いました。

文脈

もう一つこの本で指摘されていた「文脈」という概念も、オペラ解釈と実に親和性のあるものだと思いました。文章を読むに際して、異なる文脈の適用が、異なる意味を引き出す、ということが指摘されていました。同じ描写でも、そこに文章には書かれない文脈、つまり想定や背景を付加することで、意味が変わるということです。
オペラ解釈も(あるいはあらゆるテクスト解釈も同じですが)、そこに語られない何かを当てはめることで、様々な意味を導出できるということです。たとえば《ローエングリン》にナチズムという文脈を適用することで、いろいろな意味が立ち会われてくるといったようなことです。
文章を「わかったつもり」ということだけにはとどまらず、オペラ、絵画、音楽といったあらゆるテクストを「わかったつもり」にはせず、さらにその先の整合性のある解釈をつくりだすことで、読みを深めていくということが重要なのでしょう。
ちなみに、この本は論旨はもちろん、本の仕立てや構成としても、実にわかりやすいです。文末に、これまでの論旨がわかりやすくまとめられていたのが素晴らしかったです。
それではグーテナハトです。

Alban Berg,Opera

《ヴォツェック》以来、どうも「倫理が贅沢」という言葉が頭から離れず、という感じです。
《ヴォツェック》を単純に貧困批判と捉えるべきなのか、という考えがずっと頭から離れません。オペラ劇場に足を運ぶ人々が、ヴォツエックと同じ貧困状況なくとも、なぜか共感するからです。
貧困非難ではなく、文明批判であり、人間批判なのでしょう。
ヴォツェックが囚われている貧困は、経済的な支配被支配関係といえるのでしょう。がゆえに、全ての人々は経済的支配非支配関係に従属しているはずで、時にヴォツェックのように抑圧された存在になるのです。我々もまた生きるために自我を殺し振る舞います。
時に大尉のように社会倫理をもって他者を抑圧します。時に医者のように理性で人間を扱うこともかあるでしょう。
貧困に倫理がないのではありません。抑圧に倫理がないのです。だからこそ、私は、ヴォツェックを愛おしく思うだなあ、と思いました。

Wozzeck (Complete)
Wozzeck (Complete)

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Berg Skovus Denoke Blinkhof Metzmacher
Angel Records (1999-07-22)
売り上げランキング: 114,501

こちらのアルバム。メッツマハーのライヴ盤です。全体的に感情が濃厚で、かなり気に入っております。
ではグーテナハト。

Classical

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桜の季節も終わりまして、若葉がみなぎるけやきが美しかったです。こういう立派な樹がを観ていると幸福な気分になりますね。どこまでも無限に広がる枝葉はあらゆる可能性を想起させます。剪定されているのを見ると悲しくなります。

小澤征爾さんと、音楽について話をする
小澤 征爾 村上 春樹
新潮社
売り上げランキング: 10,272

かつて読んだこの本で忘れられない場面があります。
図書館で借りたので、至急再度取り寄せしますが、たしかこういった場面でした。
小澤征爾の言葉でした。世の中には高価なオーディオを持っている人が多いけれど、彼らは全然音楽をわかっていない。その点、村上春樹はよく聴いていますよね、と小澤征爾が村上春樹を褒めるわけです。
この場面、ずっと心にひっかかっていました。
村上春樹が音楽を聴く能力が高いのは言うまでもありませんし、作家業という仕事の一環として音楽を聴いているわけですから、そういう意味ではプロの音楽評論家と肩を並べているはず。
ですが、いわゆる高価なオーディオを持っている人というのはそうではありません。お金はあっても、コンサートに足を運ぶ時間や機会を持てない人なのでしょう。地方在住であったり、あるいは東京にいたとしても仕事が忙しくて音楽を聞く暇もないのでしょう。ですが、しばしの休息に出来るだけ良い音に触れたいという思いでオーディオを揃えようと考えた人々です。私は高価なオーディオを持っていませんが、正直音楽に触れる時間を平日はほとんど持てませんので、同じ状況なんでしょう。
が、小澤征爾は、そうした人たちをバッサリと切り捨てたように私は思ってしまったわけです。真意は別のところにあるのかもしれず、私の記憶なかでそうなっているだけなのかもしれないので、原典にはもう一度あたります。
これも私の記憶の中ですが、岩城宏之も似たようなことを行っていたような気がします。いわゆる音楽愛好家と話したくない、といったたぐいの言説だったはず。原典は探します。
さらには、絶対音感がなければ、音楽を語りえない、という私の友人の知り合いの音楽学者の言葉も影響しているのかもしれません。
これが、私の中の最近の迷いのようなものなのかもしれないわけです。結局、音楽家はこういう思いを皆持っているのだろうか、ということ。音楽家と聴衆(私かもしれません)に横たわる断絶がこれなんでしょうね。
真の音楽とは何か、ということを例の偽ベートーヴェン事件から考えざるをえない状況なんですが、どうやらこういう芸術認識における断絶の問題なのでしょう。聴くだけで語るべからず、なんでしょうかね。
今聞いているのはこちら。予習です。

Cavalleria Rusticana / Pagliacci
Cavalleria Rusticana / Pagliacci

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Decca (1988-10-11)
売り上げランキング: 48,696

ではグーテナハトです。

2013/2014シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

消毒を勧められたので、本日も廉価版にて。
今日も遅くに帰宅しアルコールで心を休めました。いい感じです。
ヴォツェックの件。ちょっと面白かったことをいくつか。
カーテンコールのときのこと。
2009年、指揮のハルトムート・ヘンヒェンは長靴を履いて登場しましたが、今回のギュンター・ノイホルトは革靴そのままで登場しました。あの水が張られた舞台にじゃぶじゃぶと。
合唱指揮の三澤さんも同じく長靴なしでじゃぶじゃぶと。その後、子役の方々が元気よく登場して、じゃぶじゃぶ水しぶきを飛ばすので、三澤さんが困ってました。
そういう意味で言うと、バンダの方々も長靴を履いてました。劇中にありながら、現実が混ざっているという状況で、第四の壁問題というか、メタ問題というか、私の好きなフィクションとメタという構図がかいまみえてとても興味深かったです。
ではグーテナハト。