シークレット・ストーリー パット・メセニー (1992/07/22) ユニバーサルインターナショナル |
仕事に疲れたので、食事もほどほどに、ゆったりしたいと思った。iTuneでJazzをランダム再生してみる。最初に流れてきたDavid Sanbornは今の気分にそぐわない。Sanbornはもっと元気のある時に聴くものだった。
次の曲がヘッドホンから聞こえてきた途端、記憶がパチンと弾けて、20年前のあの日のことを想い出したのだった。
言語哲学を専攻するN先輩の部屋に、先輩達に連れられて夜中にお邪魔したことがあった。年も押し迫った冬の日のことだった。大学近くの安居酒屋でN先輩とJ先輩と三人で呑んでいた。酔っぱらって、三人とも気が大きくなっていた。その場の雰囲気で、N先輩の部屋に行こうと言うことになったのだった。
N先輩の部屋は、池尻大橋の細い街路を通って行った先の、木造モルタルの建物の二階だった。6畳の部屋には小さな台所が設えてあった。日本酒を鍋で湯煎をして熱燗を作るのだとN先輩は言った。本棚には世界の名著や青帯の岩波文庫がぎっしり並んでいた。悲劇の誕生、論理哲学論考、純粋理性批判、存在と時間、弁明、メノン……。部屋の片隅には新聞紙がうずたかく積み上げられていた。なんと夕刊の思想欄が保存されているのだった。
「***、ほんまに、N君のこと見習わんといかんで」
J先輩が私を諭すようにそう言ったのだった。まだ一年生だった私は、本棚や新聞に眩惑されているだけだった。私はやらねばならぬのだ、という気持を抱いた。たとえN先輩のようになれずとも、近づくことは出来るだろうと思った。
N先輩もJ先輩も私と同じように音楽が好きだった。N先輩は帰り際に、私にCDを貸してくれた。Pat MethenyのSecret Storyだった。
「また来てくれよな」
帰り際、N先輩は笑いながらそう言ってくれたのだった。だが、二度とN先輩の部屋に行くことはなかった。
私が就職することを決意したころ、先輩達から盛んに大学院に進むように勧められていた。N先輩にもやはり勧められた。だが、私は大学院に進むことはなかった。
こうして、大学院へ優秀な成績で進学していったN先輩と再び会うことはなくなった。
だが、今日のように、こうしてPat MethenyのSecret Storyを聴くたびに、N先輩のことを思い出すのだった。Pat Methenyの、郷愁をさそう愁いをおびた旋律がきこえるたびに、N先輩に、近づけもせず、応えることもできなかったのだ、という重い事実が立ちはだかっていることを思い出すのだった。そこにあるのは悔恨でも苦みでもない。苛烈で厳然とした運命の力だった。誰をも逃さない運命の網は無情なまでに我々を絡め取り、何処へとも分からぬ方向へと引き摺るのだった。そうして私という者が今あるというわけなのだった。