Classical

今週、ふとしたきっかけでマックス・リヒターを聴いています。

クラシックというか、ミニマルというか、アンビエントと言うか。

かなり気に入ってしまい、これからも継続的に聴こうと考えています。

今日聴いていたのはこちら。The Blue Notebooks。2004年の作品。

イラク戦争を含めた暴力への批判をこめたアルバムのようです。こういう表現の方法もあるのか、ととても感銘を受けています。

なんだか映画音楽のようで、聴いているだけで、いろいろな情景が浮かんできてしまいます。

ただただ、だれも読まない手紙をタイプライターで打ち続ける女性。曇り空、白い大理石の壁、プラタナス、湿った風……。

それにしても、終わりのない戦い。どこもかしこも。

みなさまも秋の夜長をお楽しみください。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

昨日に引き続き辻邦生「のちの思いに」を。

「のちの思いに」、よく考えると最後まで通しで読んだのは初めてかもしれない、と思いました。

若い頃、辻先生はよく笑われていたとのこと。森有正が、80歳になったら笑わなくなるのでは、と評したそうです。で、現に最近笑うことが少なくなった、と辻先生が述懐されているのですが、このシーン、読むのがつらく思いました。晩年、事故に遭われたこともあり、身体が動かなくなっておられたそうで、やはり、この「のちの思いに」を書いておられた頃は、さまざまお辛い状況だったのだろうなあ、と思ったのでした。

後書きで、辻佐保子さんは、「お互いに覚えていることが奇妙に食い違う旅の光景をあれこれと語り合い、記憶と忘却が交錯するありさまを改めて不思議に思った」と書かれています。記憶はときに変質し、別のものに変わっていきます。まるで、金属が鋳造されなおすように(ジークフリートが、ノートゥングを鍛え直すように)、記憶は変わるのかもしれませんが、ほかの人とすりあわせをしない限り、記憶が変わっていることにすら気がつきません。おそらくは、記憶そのものが真実に変わっていくのでしょう。そうした記憶を元に、歴史が語られ、歴史書となり、それが真実になっていくこともあるのでしょうから、なにか記憶への畏れのようなものを感じずにはいられません。

おそらくは、人の数だけ記憶があり、人の数だけ歴史があるのだが、語られる歴史はそのなかの一つでしかない、といった感覚を最近は持っています。

長くなりましたが、今日はこのあたりで。おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

昨日に続き、「のちの思いに」を読んでいます。辻佐保子さんの後書きには、「御世話になった方々へのお別れ」という趣旨のことが書いてありますが、辻先生が出会ったたくさんの人々との出会いが綴られています。

とくに、衝撃だったのは、辻先生のお母様が、避暑地の松原湖にみえたときの話。辻先生とお母様が二人で山登りを楽しみ、美しい池の畔で休んでいるとき「もう母はここに二度とくることはないのだ」という思いに達するのです。この達観、私には、人生の、あるいは記憶の悲しさ、とまずは思いました。それは非情であり容赦ないものではあるのですが、がゆえに、今、ここの大切さ、を認識すると言うことなのだと思います。

先日、「言葉が輝くとき」のなかから、「かりそめに過ぎて」というリルケの詩を取り上げました。かけがえのない体験というものは、おそらくは、記憶の中に生き続けるのだろう、と思います。

そういえば、2000年頃だったか、夜中に帰宅しているときに「あ、きっとこの瞬間をいつか忘れることになるだろう」と直観した瞬間を記憶しています。しかし、忘れることはなく、あの瞬間を今でも覚えています。それは、詩的ななかけがえのある瞬間というわけではありませんが、おそらくは一生涯あの微分点のような瞬間を覚えているはず。

いろいろ考えること数多……。

さしあたり、今日はここまでです。

Tsuji Kunio

東京地方は久々の快晴だったように思います。先週一週間は、なんだかずっと仕事場にこもって仕事をしていた、あるいは、外の風景を観る余裕もなくすごしたような気もします。

さすがにハードな一週間の後で、週末は、少しゆっくりさせてもらいましたが、今度は家の仕事が出来ませんので、難儀だなあ、と思います。

そんな中で、すこしばかり辻邦生「のちの思いに」を少しつまみ読みして、すこししんみりとした感じです。。最後のフィクションとなってしまったこの作品は、自伝的な風合いで、大学入学から、フランス留学、帰国後のことが描かれています。

と、かんがえたところで、先に書いた「しんみり」という言葉はあまりに軽すぎる、とも思いました。人生と記憶の素晴らしさと悲しさ、というところでしょうか。重いテーマです。

結局、つれづれを書くつもりが、辻先生のことを書いてしまいました。

明日からまた戦わないと。

それではみなさま、おやすみなさい。

Dmitrii Dmitrievich Shostakovich

チック・コリアを聴いていたら、なぜかショスタコが聴きたくなりました。

暗く静かな世界を見たくなったのかも。

で、交響曲第七番《レニングラード》。ロジェストヴェンスキーの指揮で。


暗鬱、戦闘、悲しみ、勝利の予感?

描かれていることは、レニングラード攻防戦という陰惨な出来事だというのに、なぜ聞くのだろう、と思いました。本当に戦争は嫌なものです。

ロジェストヴェンスキーの指揮、昔から結構好きでした。とくに交響曲第10番を聴いたときの衝撃は忘れられません。まだソ連があった頃に聴いたはずで、NHK-FMのエアチェックテープを何度も何度も聞いた記憶があります。躍動感、炸裂感…。

やはりこの音源も素晴らしい。何というか、ソ連がアメリカと張り合っていたころのソ連の推進力のようなものを感じたり。オケの名前はソヴィエト国立文化省交響楽団。そして懐かしのメロディアレーベル。時代を感じさせます。

さて、それにしても、今週は本当大変でした。一体何回会議をやったんだろう? 4日間で19回でした……。

それではみなさま、よい週末を!

おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

辻邦生はリルケに関係する著作がいくつかあります。一つは有名な「薔薇の沈黙」。美しい本です。

一方、先日、書棚にある講演録「言葉が輝くとき」を取り出していたところ、ここにもやはりリルケの素晴らしい詩について語られていました。

これは、1990年に不二聖心女子学院での講演「詩をよむ心」の講演録に含まれているものでした。リルケの「果樹園」という詩集に入っている「かりそめに過ぎて」という詩です。

かりそめに通り過ぎて

 

かりそめに通り過ぎて

十分に愛さなかった かずかずの場所への郷愁よ

それらの場所へ 遠方から なんと私は与えたいことか──

仕忘れていた身ぶりを つぐないの行いを!

 

もう一度──今度は独りで──あの旅を

静かにやり直したい

あの泉のところにもっと永くとどまっていたい

あの樹にさわりたい あのベンチを愛撫したい……

 

つまらないと皆が言う

あの独りぼっちの礼拝堂まで登ってゆきたい

あの墓地の鉄柵の扉を押してはいり

あんなにも無言なあの墓地とともに無言でありたい

 

なぜなら 今や こまやかな敬虔な

ある接触を持つことが大切な時ではないか?──

ある人は この地上のものの強さによって強かった

ある人は 地上のものを知らないために愚痴をこぼす

辻邦生「言葉が輝くとき」27ページ

孫引きになってしまいますが、片山敏彦さんが訳されたものを辻邦生が引用し、若い女学生に説明をしています。さまざまな事物を見過ごすのではなく、かけがいのないものとして味わい直すと言うこと。それが、私たちをもう一度生きるという意味に立ち返らせてくれるのだ、ということ。こういったことを、辻邦生が静かに女学生たちに語っている姿が想像出来ます。

それにしても、この、今、ここ、を愛おしむ感興は、実に甘美であり、実に真剣であり、実に厳しいものです。

私は最初に読んだとき、「あの旅」と言う言葉に反応し、旅行という非日常において、なにか旅行で触れた事物への愛惜の念が描かれているように思ったのです。しかし、実のところ、人生こそが旅ですので、旅行というよりもむしろ日常において触れるさまざまなものへの愛惜なんだなあ、と思ったのです。

そのときどき、触れるものを大切にし愛しむというのはとても大切ですが、実際にはとても厳しいものです。すべてを愛おしむことは出来ませんので。ですが、たとえそうではあっても、やはりあの樹に触りたいし、あのベンチを愛撫したい。あの時、あの瞬間の思い出を死ぬまで大切にしたい。それでもやはり、すべてに触ることは出来ないし、失われた思い出もある、と言うことなんだなあ、と思います。

だからこそ、「敬虔」という言葉なんだ、と思いました。まるで、不可視である神を見るかのごとく、さまざまな事物すべては不可視であり、が故に、神的性格をも帯びて、敬虔な思いとともに、事物を見るということ、と思います。求めないと神は現れません。同じように、事物に接触=触れるという能動性において、この事物のかけがえのなさと、生きる意味が得られる、ということなんだと想いました。

今、この瞬間に全力を尽くすのが、生きると言うことです。私もそういう生き方をしてみたい、と想います。

思ったより長くなってしまいました。みなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Jazz

今朝、とある女性ピアニストのアルバムを聞きました。確かにとても上手いのですか、ピアノとかくぐもったような感じで少し違和感を書きました。

この感覚、昔、感じたことがあります。確か十代の女性ピアニストが弾いていたピアノコンチェルト。実演で聴いたのですか、どうも音が悪いのです。幼い音だなあ、と表現したのを覚えています。

それで、強いタッチのピアノが聴きたいなあ、と思い選んだのがチック・コリアです。

Summer Night。1987年のライブ。アコースティックバンド名義のトリオのアルバム。ドラムのヴェックルと。ベースのパティトゥッチが加わったアルバム。懐かしのカルテットNo.1など、楽しみました。このカルテットNo.1は、一度バンドでやりましたが、難しかったなあ、とか。チック・コリア、シャープな音がたまらないです。夏ではなく秋ですが、Summer Nightで秋の夜を楽しみました。

それにしてもめまぐるしい毎日。今日は会議が朝から9回……。

それではみなさまも秋の夜長をお楽しみください。おやすみなさい。グーテナハトです。

Ludwig van Beethoven

今日は、仕事場の都内にちらばる四つの拠点を朝からまわった一日。結構カロリー消費したらしく、かなり消耗しました。体重も一日で1キロ弱は減っているような……。

さて、聞く音楽が良く分からないときは、Apple Musicのプレイリストを聴きます。Apple Musicが勝手に選んでくれるナンバーで、ジャズからクラシックまでさまざま。日頃聴いている音楽の傾向から生成されるようです。

その中に入っていたのがバーンスタインが振るベートーヴェンのミセ・ソレムニス。つまり荘厳ミサ曲でしたバーンスタインらしいたゆたうテンポで聴くミサ・ソレムニスは実に甘美でした。ときにオペラ的なクライマックスもあり、モーツァルト《魔笛》のような和音が出てきたりと、実に楽しめました。

音楽の幅を広げるのは、こういう偶然ともいえるような出会いであることが多いです。本来なら、能動的に曲を選んで聴きたいところですが、今回のようにあえて受け身で音楽を聞いていると、思いもかけないいい出会いがあります。きっと若い頃は、思わぬ出会いばかりで音楽をたくさん聞いていたんでしょうが、歳を重ねると、こういう出会いが貴重に思えます。善し悪しかなあ、と。

今日はこのあたりで。それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

今日、会社は規定の公休。とあるところで、ビックバンドを聴きました。30分ほどのパフォーマンスでしたが、なかなか楽しかったです。

迫力いっぱいでした。トランペットのハイトーンを聞けたり、2ドラムのパフォーマンスをみたり。ボーカルも居て、なかなか楽しかったのです。あまりミスらしいミスもなかったですし、立派な演奏でしたし、なにより楽しい演奏でした。

ただ、30分のステージでしたので仕方がないのかもしれませんが、30分間フルスロットルの演奏でしたので、ちょっと疲れたかも。。

大学時代の先輩が昔言っていたことを思い出しました。「デヴィッド・サンボーンのライブは凄い。バラードとアップテンポの曲を交互にやるんだ」

音楽は生演奏で聴けるのがとても幸せです。録音音源とは違い、その場で演奏者の緊張感が直に伝わってきます。これが醍醐味です。

今日は短く(じつは一日遅れ)。おやすみなさい。

Miscellaneous

9月、初旬から出張や懇親会が続きました。最終週にとある報告があり、そちらの準備。で、その報告関連の残務を10月に引き続き。と思ったら、10月中旬にも報告があって。。みたいな感じで、ちょっと睡眠時間も減り気味。そんな感じで今日は一日休ませてもらいました。

昨日のNHKスペシャルで、AIを使って健康寿命の要因を探る、という番組がありました。健康寿命を延ばすためには本や雑誌などを読むことが重要、とのこと。健康寿命が長いとされる山梨県の図書館が取材されていました。県民85万人に対して、のべ99万人が図書館を利用しているとか。これは戦後間もない頃から学校に司書が配置されていて読書週間が着いているからではとのこと。現在でも、全国平均59%の学校司書配置率が100%近いそうです。

本を読むためには、図書館に行ったり、本屋に行ったり、ということで外出が増えて、健康になる、とのことですが、それだけではなく、さまざまな知的刺激をうけることも健康に良いと言うことのようです。読書すれば、健康に関する情報も入ってくるでしょうし、頭も使いますし、きっと健康に良いと言うことなんでしょう。

個人的には本が好きというよりも、なんでも知らないと、という強迫観念のようなものに追い立てられるように、本を読んだり、雑誌を読んだり、ネット記事を読んだりしている気がします。楽しむ読書という感覚は、高校時代で終わってしまったなあ。楽しむと言うより、何かを探している、ということのようです。

仕事がつまってしまうと、本を読む時間が取れなくなり、睡眠時間も減ります。健康寿命もきっと短くなるのだろうなあ、と。歳を重ねると仕事の質も変えないと、とあらためて思いました。

仕事を切り上げて、本を読んで、睡眠時間を取れば、健康になるはず。確かに、そういう時期もあったなあ、などと思ってますが、まあ、同調圧力の強い日本社会ではなかなか難しいですね。

明日ももう少し本やら雑誌やらもっと読まないと、とあらためて思いました。でも、早く寝ないと、とも。

みなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。