Tsuji Kunio

早いもので、今年も11月21日が来てしまいました。11月21日は辻佐保子さんの誕生日。冬も間近に迫り、東京の日の入り時間は16時半頃。ついこの間まで夏だったと言うのに、と思います。

いつも言っていますが、早く夏にならないかな、と思います。さしあたりは、正月めがけて頑張らないと、と思いました。

で、読んでいるのが「安土往還記」です。3回か4回か、それぐらい読んでいると思います。

それにしても、ほんとうに西欧合理主義的な織田信長像が見事で息をのみます。戦争ですら芸術(アルテ)として捉えられるのではないでしょうか。かずかずの残虐的な戦後処理(比叡山の焼き討ちなど)ですら、そうです。

主人公は、言うまでもありませんが、イタリア人で、新大陸で戦闘を経験したことのある人物。織田信長が長篠の戦いで使った三段構えの戦法も、このイタリア人の支援があったから、という設定になっていて、いまから500年前にあっても、なにか西欧とのつながりがあったという事実が、不思議なようでもあり、あるいは、だからこそ現在と500年前が地続きであるようにも思うわけで、物語世界と現実がつながっていることを身体で感じてしまうわけです。じつに見事な設定です。九鬼水軍の装甲船もやはりこのイタリア人の手になるもの、という設定も(史実には当たっていませんが)実に見事です。

西欧合理主義的、と言う観点で言うと、石山本願寺を攻め下すために、遠大な計画をもってそれに当たる、というところも、実に合理主義的です。鉄砲を供給している雑賀を征服し、前述のように九鬼水軍を鍛え、包囲網に城を築き、じわじわと締め上げる。これを読んで、何か、米ソ冷戦の末期に、アメリカがソ連をじわりと追い込んだという史実を思い出したのです。スター・ウォーズ計画をでっち上げてソ連を宇宙開発競争・軍拡競争に引き込み、原油価格をサウジと組んで引き下げ、あわせてアフガニスタンで疲弊させる、という遠大な戦略を彷彿とさせるのです。

史実はどうかは分かりません。しかし、残念なことに事実というものは歴史の中で失われるものです。歴史小説によって描かれる事実は、おそらくは実際にあったこととは離れているのかも知れませんが、それはそれで一つの真実として世界に屹立しうる訳です。そういう意味では、この安土往還記における織田信長は、ひとつの合理主義的な人物として、リアリティがある人物として、小説世界に確固として存在していると思います。

ただ、どうもこうした西欧合理主義的な織田信長像も、時代の要請において、どうあるべきなのか、ということまで考えなくてはいけないのではないか、とも思うのです。果たして、現代において、織田信長的な西欧合理主義の意味は何なのだろうか、と。1970年代から現在までの40年に何があったのか。その歴史的経緯を踏まえた評価を行わなくては、とも思います。冷戦の二極化から、現在の多極化の時代において、なにが言えるのか。

この後、そうした時代の視点に気づかせてくれた辻先生の文章をとりあげようと思っています。

今日は長くなりました。どうか、みなさまお身体に気をつけてお過ごしください。

おやすみなさい。

Miscellaneous

この一週間近く、このブログ書けませんでしたが、実は辻先生のことばかり考えていました。

実は、先日、とあるグループで辻先生について発表的なものをしたんですが、まあ、巧くいかなかったなあ、と。いつも仕事場でやっているように、骨子だけスライドを作って、話をしましたが、進行上、早く終わらせたかったと言うこともあって、うまく説明できず、と言う感じ。

さらには、プロジェクタの性能がいまいちで(私が持って行ったもの)、画面とからめてうまく説明出来なかったなあ、という思いもありました。

人文系も発表は、大学以来なので、20年ぶりぐらい。振り返るとかなりチャレンジングだったと思います。私は哲学系でしたが、哲学よりも文学のほうがいっそう概念が揺れます。そこをなにか大学時代の記憶をたよりに哲学的なアプローチで攻めてしまった感もあり、方法論として間違っていたようにも感じました。

言葉は、言葉として発語した時点でその意味が揺れるように思います。そうした言葉の揺れの中から、お互いの共通点を探っていくわけですが、そんな中でもあるのに、どうもターム(専門用語)に甘えてしまった感もあります。と反省することばかりでございました。

ただ、個人的には、新たな発見をたくさんしてしまいまして、とても勉強になったのです。そういう意味では素晴らしい機会をいただきました。内容はこちらにも機会があれば出そうと思いますが、どうでしょうか……。

会も終わりに近づいた頃、会場には夕陽が差し込んでいました。その時に、かけた音楽が、グンドラ・ヤノヴィッツが歌う《四つの最後の歌》のなかから、Im Abendrotを聴いたときには胸がいっぱいになりました。CDをBOSEのWAVEシステムで聴いたのですが、深みのある音で素晴らしかったです。しばし時を忘れた感覚。Apple Musicで聴くのとは全く違います。

それにしても、寒くなるのは嫌なものです。また風邪をひいてしまいました。10月のあたまからずっと風邪気味な気がします。暖かくしているつもりですが、やれやれ。

それではみなさまも風邪をひかれぬようご注意ください。おやすみなさい。

Miscellaneous

今日はほんとうにつれづれを書きます。

最近、思いもよらないことがたくさん起きるのです。想定外ばかり。その措定外がやることをすこしずつ増やしていく……。新しいことをやると、まあそんなものなのですが、制御できないことが多過ぎで、難しいですね。

ともかく、いろいろなことが少しずつ動き始めている気がします。くじけず頑張らないと。

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それでは、みなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

 

Jazz

あまり、くたびれた、とか、疲れた、とか、書かないようにしています。

ただ、今日は、特にくたびれた、という感じがします。細かいことは書きませんが、まあ、くたびれた、という感覚。この、感覚は、肉体的というよりは、むしろ精神的なもので、今日がとりわけ、というものではなく、10年以上溜め込んだくたびれが浮き出してきたような、そんな感じ。

で、いつものようにプールで10分ほどクロールで泳ぎ、帰宅。夜半前の暗い道で、Apple Musicのプレイリストを聞いていたら出てきたのが、ウォルト・ワイスコフでした。

昔、Apple Musicで聴いていたのでレコメンドされたのだと思います。ピアノはブラッド・メルドー。聞いた瞬間に、あ、こっちが本物の世界だ、と思いました。サックスのノンビブラートのロングトーンも素晴らしい。しばらく聞き惚れてしまいました。くたびれた中で、ふと、なにか柔らかい羽毛のようなものに触れた気がしました。

私の中では、あらゆる美こそが、本当の世界で、美と美はあちら側の本当の世界でつながっている、ということになっています。おそらくこのアルバムを聞いた瞬間、あちら側の世界に心が触れたのだと思います。芸術とはそういうものなのかもなあ、と最近思っています。

明日も引き続きくたびれる予定。しかしながら、もしかすると今日のような美と触れられるかもしれないです。楽しみです。

それでは、みなさまおやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

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なんだかつれづればかり。まようことしきり。

11月になって、寒くなりましたが、写真は、さきの週末の秋晴れに生えるケヤキ。じょじょに葉も落ち冬ぞなえです。

たくさんのことがやらなければならず。まあできることは限られているもで、目の前のものを粛々と片付けるだけですが、まあそれだけでも大変です。またすこしずつ夜更かしするようになってしまったし……。

そんな中、すこしこの本を読んでこころをやすめました。あすからまたがんばらないと。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Richard Strauss

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11月になりました。深まる秋。

相応しい曲は何だろう?と思いました。

思いついたのが、リヒャルト・シュトラウスの「家庭交響曲」や「ツァラトゥストラはかく語りき」でした。

で、マゼール盤をAppleMusicで。

マゼール盤は、巨大な演奏、という印象をかつては持っていましたが、今日聞くと、なにか音の輪郭がくっきりしたイメージで、つやのある果物が並んでいるのを眺めているような気分になりました。オレンジやチェリーが輝いていくつも並んでいるような、それも露店で、太陽の光を浴びているような、そんな感覚を持ちました。マゼールのオリジナリティは本当に素晴らしいです。

それにしても、いろいろあるこのごろ。頑張らないと。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

今日、日中、出張で都内から多摩方面へ移動しました。

途中目に入った紅葉。色づき始めた紅葉のグラデーションが青空に映えてとても美しいです。

今年の秋は一度限りです。秋の素晴らしさ。ただ、さみしさも感じます。

今年の夏は暑かったですが、振り返ると意外に元気だった気がします。その反動でなにか放心してしまっている気もします。歳を重ねると時間が経つのが速くなりますが(最近は速いことにも慣れました)、季節の巡りもあっという間ですので、気をつけて過ごさないと。

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それでは。

Dmitrii Dmitrievich Shostakovich

昔、マツコ・デラックスが、「夜中にショスタコーヴィチを聴くのよ」という話をしていたのを聴いたことがあります。

確かに、真夜中に、一人でショスタコーヴィチの緩徐楽章を聴くという贅沢はなににも代え難い気がします。

私のショスタコーヴィチ体験は、記憶に残っている限りでは、ロジェストヴェンスキーが振るこの交響曲第10番です。NHK-FMで放送されていたのをエアチェックしました。SONYのHF-60というノーマルテープ両面に入れたのですね。第二楽章の一番カッコいいところでリバースがかかり悔しかったのを覚えています。

とにかく、第一楽章の深みは実に素晴らしくて、今聴いてもなにか心を打つものがあります。なにか小説のネタがたくさん詰まっているような、そんな気がします。強制収容所のイメージなのか、あるいは、深い森の中で暮らす木樵の物語か、あるいは都会の古い高層マンションの最上階で長い間一人で暮らす老人の物語か。

音楽のなかに意味を見いだすのは、危険なことではありますが、音楽体験が、作り手と聴き手の共同作業である、ということを踏まえつつ、そこになにかを感じ取ることがあってもいいのでは、と思います。

史実においては、戦争終結後の勝利の交響曲として期待されていた交響曲第9番があまりに短く軽い交響曲だったと言うことで、批判にさらされたショスタコーヴィチが、スターリン死去の後に、短期間で作曲したのがこの交響曲である、とされています。まあ本当はどうだったのかは、誰も知り得ないわけですけれど。

まあ、孤独と苦悩が描かれているんだろうなあ、とうことを漠然と考えています。

さて、10月最後の週末も終わり。明日からまた仕事。まるで毎週末に息継ぎをしている感じです。いつまで続くのか。

それではみなさま、よい日曜日の夜をお過ごしください。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

辻邦生「安土往還記」は、織田信長の戦いを描いた歴史小説です。

以前はいつ読んだのか、記憶がなかったのですが、このブログの記事を調べてみると、2006年に取り上げているようですので、12年前にはなにかしら読んだということと思います。

https://museum.projectmnh.com/2006/12/04225449.php

友人に勧めて喜ばれたりもしましたので、個人的には思い出深い小説でもあります。

今回12年ぶりに読んでみると、初期辻邦生の精密な表現に心打たれるのでした。いくばくか長い文章が連なる文体は、大寺院の甍の列のようにも思います。整然と輝き、それでいてその奥には神的なものが隠されているような。

読むのが何度目になるのか、分かりませんが、読み進めてみようと思います。新たな発見があるものではないか、とワクワクしています。

うちには、新潮文庫が二冊あります。左は1977年。右は1972年。アマゾンの画像とも違うものです。古い1972年のほうが痛みが少ないので、こちらを読むことにしました。定価は120円。古本での購入時は50円。中を開くと活字がとても小さく、いまだと活字を大きく印刷し、倍の太さになるでしょう。値段もきっと高くなるでしょう。本は高くなったなあ、と思います。

さて、やっと終わった今週。しばし休んでまた戦わないと。

それではみなさま、十月最後の週末をお楽しみください。

おやすみなさい。グーテナハトです。

Dmitrii Dmitrievich Shostakovich

ふらっと、聴いてしまったのが運の尽き。

ショスタコーヴィチの交響曲第10番は底なし沼のようで、足を取られたら最後、ずぶずぶと深みにはまって行ってしまった。

暗く古い森。湿った空気を嗅ぎながら、進んでいくと、最後は、歓喜なのかパロディなのか、華々しい歓呼に迎えられる。何を信じればいいのか分からない。

そんな曲だな、と思う。

幼い頃は、ただ「カッコいい」というイメージだったが、齢を重ねると、裏側が見えてくるもの。カッコいいものには騙されてはいけない。

演奏は、ベルリンフィルをカラヤンが振ったもの。私のデフォルト盤はロジェストヴェンスキーなので、カラヤン盤はすこしスマートに聞こえる、と言う印象。これもやはりカラヤンというのは……という先入観によるものかもしれないけれど。

明日で、今週も終わるけれど、まだまだ戦いは続く。この戦い、どうもショスタコーヴィチ的な戦い、と思う。詳しくは書けないけれど……。

それではおやすみなさい。グーテナハトです。