辻邦生没後15年によせて その8 全体像を恢復する手段が小説である。
昨日の続き。考えるうちに、ブログで語りきるのは難仕事だと思いましたが、すこしあがいてみます。
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世界を全体的に描くためには、世界のなかに身をおきながら世界を超越しなければならない、とも言います。世界を一つのモデルとして把握する透徹した認識量が必要というわけです。
そうした世界を描くために、外から眺めてそれを叙述するのは、どこまでいっても帰納法的なアプローチしかできません。「嵯峨野明月記」で、全てのものを描こうとしながら命を落とす画家が登場しました。狩野光徳という名前でした。世の中を表現するためにそうした方法をとったのです。ですが、もちろんそんなことはできるわけはないのです。世界のすべてを描くということは、有限な存在の人間にはどだい無理なのですから。
この辺りの議論はかなり難しいのですが、「小説への序章」でも同じようなことが言われていました。
プルーストやトーマス・マンを取り上げて、物語主体が全体世界を把捉できる可能性を論じているのです。物語主体は常に過去形で物語るわけで、それはすなわち、終末から全体を見遣る主体であり、全体を把捉できるのである、という議論でした。それが、無限拡散する現実を克服し、全体像を恢復する手段である、ということなのです。
私は、これは西田幾多郎の純粋経験のようなものと捉えています。私の理解では、刹那の経験の中に豊かな世界が含まれているのが西田幾多郎の純粋経験だったはず。たしか「善の研究」では統一力というような書かれ方をしているはずです。
物語の中において、個々の要素を描くことが、全体把捉につながるという考え方で、それが小説=物語形式が、世界認識あるいは世界表現の様式として有効なのである、という議論です。
まったくもって科学的な方法でも論理的な方法でもありませんが、そもそも小説は科学でも論理でもないはず。ですが、この個々の要素と全体のつなぎが、辻先生の言う「透徹とした認識力」というもので、書き手が持つ何かしらの能力、ということになるのだと思います。
長くなりすいません。グーテナハトです。
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