Japanese Literature

犬養道子さんの旧約聖書物語を読んでおります。

ヨーロッパを理解するためには2H(ヘレニズムとヘブライズム)が欠かせないわけですが、残念ながらヘブライズムのほうは大学の一般教養課程で少々学んだだけで終わっています。絵を見たり、オペラを聞くようになってからは、この2Hが前提知識として備わっていないと解釈が難しくなります。それを知らないということは、ある種の怠慢だといわれても仕方がありません。

というわけで、まずはギリシア・ローマ神話を学ぼうと、ちくま文庫の「ギリシア・ローマ神話」を購入して読みました。プルフィンチなどでも良いのかもしれませんが、この本は実に丁寧に書いていますので私のような初心者には最適でした。 一方で、ヘブライズムのほうですが、こちらは復習もかねて犬養道子さんの「旧約聖書物語」に手を伸ばしました。

犬養道子さんは犬養毅のお孫さんなのですが、カトリックでいらっしゃる。というわけで、犬養道子さんに噛み砕いていただいた旧約聖書の物語をアブラムがカナンへと旅立つところから読み始めたわけです(天地創造は物語の途中で説明されますので、必ずしも旧約聖書の順序に忠実というわけではないようです)。

読んでいると、いろいろなことが思い出されて面白いのですよ、これが。 アブラハムが自分の息子を生贄にささげようとするシーンは、いろいろな絵画で出てきたなあ、そういえば、ブリテンの「戦争レクイエム」でもこの生贄のシーンを改題したシーンがあったなあ、などと。旧約聖書では、息子を屠ろうとする瞬間に神の使いが現れて、押しとどめるわけですが、ブリテンの戦争レクイエムでは、神に制止されても、息子を屠ってしまうという筋だったと思います。 モーゼとアーロンがエジプトを脱出した後の部分、ここがシェーンベルクの「モーゼとアーロン」の背景なのだなあ、とか、ソドムに関する記述(男色)を読んで、ああ、なるほどプルーストの「ソドムとゴモラ」はここから派生しているんだな、などと興味深いことしきりです。

ほかにも、過越の由来なんて、大学時代に習っていたはずなのに、すっかり忘れていました。それから、アブラハムの子孫のイシュマエルがアラブ人の祖先となり、そこからイスラム教に派生していったんですね。そういう意味で言うと旧約聖書は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にいたるまでの宗教の源流となっているわけですから、やはり勉強しなければならないところ。

物語におけるプロットは、旧約聖書においてすべて出尽くしている、と聞いたことがありますが、そういう観点で読んでも実に興味深く勉強になります。

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「ローマ人の物語7 悪名高き皇帝達」読了しました。取り上げられた4人の皇帝、すなわち、ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロについて、全員が全員「悪政」を敷いたわけではない、というのが塩野さんの見解だったのではないか、と思います。

ティベリウスは、帝国の統治を盤石なものとするべく、軍団を配置し、有能な指揮官達を派遣し、財政の健全化に努めた。けれども、晩年はカプリ島に隠棲しながら帝国を統治したということで、ありもしない噂を立てられてしまったり、財政健全化のために、大盤振る舞いをすることもなかったので、評判は芳しくなかったということなのだと思います。

カリグラは、一刀両断。だめですね。ティベリウスと一緒に暮らしていたので帝王学は学んでいたはずですが、大盤振る舞いをしたのは良いけれど、派手なことばかりするようになって、財政を悪化させてしまう。エジプトからオベリスクを運ばせたり、巨大な船を作ったり……。だから暗殺される。

クラウディウスは、地道な統治で帝国は安定したけれど、皇帝としての迫力に欠けていた感があって、諸手を挙げて支持されたわけではなかったのです。私としてはクラウディウスにはがんばってほしかったのですが、最後に娶った妻がいけなかった。小アグリッピーナという名前ですが、彼女がクラウディウスを毒殺したとされています。その理由は、クラウディウスの実子を差し置いて、連れ子のネロを早々に皇帝に即位させたかったから。早々に、というのは、ネロが若いうちには、小アグリッピーナ自身が権力を握りたかったから。烈女というか、悪女というか……。

ネロは、必ずしも頭の悪い男ではなかったですし、統治期前半は、セネカなど優秀なブレーンがいましたので、当初はそうそう酷い統治ではなかったのですが、母親や妻を殺し、セネカを殺し(自死に追いやる)、有能な指揮官達をだまし討ちにすることで、人心は離れて言ったのですね。キリスト教の信者を虐殺したのも、評判を落とした原因の一つ。ローマ大火の犯人としてキリスト者達を死刑にした点については、当時も評判が悪かったし、後世のキリスト教側から書かれた史書においても当然厳しい評価が下される。まあ、後半はやっていることがほとんどバカ皇帝ですから仕方がない。いくら皇帝でも、うまくもない歌を歌いにギリシアまで巡業するなんて馬鹿げています。というわけで、ネロ帝は属州で起きた叛乱に追い詰められて自死となります。

というわけで読了ですが、少々読むのに時間がかかりました。次は8巻「危機と克服」です。なんとか9巻「賢帝の世紀」まで今月半ばまでに到達できれば、と思っています。

 

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「ローマ人の物語7 悪名高き皇帝たち」ですが、皇帝クラウディウスの死までたどり着きました。

クラウディウスは、吃音癖などで、そもそもは皇帝になるべき人とはみなされていませんでした。ですので、歴史学者として生きてきたのですね。ところが、カリグラ帝による治世の乱れから、近衛軍団はカリグラ帝を誅殺し、クラウディウスを擁立する。50歳になってからの皇帝ですが、これがまたそんなに悪政というわけではなく、帝国は安定するし、ブリタニア(グレートブリテン島⇒イギリス)の征服も手がける。公共工事もしっかりやっていて、水道を作ったり港湾を整備したり。だのに、やはり生まれながらのカリスマというものがなかったのでしょうか、がんばるクラウディウスをせせら笑うような雰囲気もあったらしいです。

クラウディウスは(解放)奴隷を秘書官にあてて、官僚組織の走りのようなものを構築して、政策の実行を図っていくわけですが、これがかえって元老院との関係がギクシャクする原因になったようです。江戸幕府で言えば側用人政治とでもいいましょうか。それから、女性や家庭に対しては無頓着だったようで、最後に結婚した小アグリッピーナにしてやられて、どうやら毒殺されたらしいのです。気の毒な話。小アグリッピーナには連れ子がいたのですが、この子があのネロ帝というわけです。というわけで、私もネロ帝の治世の物語へと駒を進めています。

やっぱり、共和政時代のローマの上昇志向を読んでいるときのような痛快さはないですが、リーダシップとは何か、人間の性(さが)とは何か、など興味深いテーマがたくさん。人を信じても信じなくてもいけない。世界は汚濁に満ちた背理の世界なのです。マーラー的混濁の世界。だからこそ、抗うためには強い力が必要。剛健な身体と健全な精神。皇帝(あるいはリーダー)こそがその背理の世界を理想へとかえる意志が必要だと思うのですが、そういう意味では、カエサルもオクタヴィアヌスもすごいですね。普通にはなかなか難しいことです。だからこそ、辻邦生氏が「嵯峨野明月紀」でおっしゃられている「背理の世界を笑い飛ばす」ぐらいでないとなかなか生きていけないですね。

というわけで、今日も引き続きアイーダを聞き続けています。曲の雰囲気、演奏の雰囲気に徐々につかることができるようになってきました。もう一息です。もう少し聞き込めば光が見えてくる。ヴェルディという城塞都市への扉の向こうから、人間たちの生々しい息遣いが聞こえてくる予感。開門までもう少し。しかし、初めてヴェルディのオペラを見てから6年たちます。ようやく、というところでしょうね。 そういえば、「アイーダ」を歌舞伎化するというニュースを見ました。「愛陀姫」という演目になるようで、アイーダの曲も三味線などで再現するようです。

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ローマ人の物語もとうとう7巻に到達しました。面白すぎて仕方がないですね。7巻は、ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロまでの皇帝の治世が描かれます。

皇帝位というものは、中国の皇帝位や、後世のヨーロッパにおける皇帝位とはことなり、戴冠式などはない。民衆と元老院の承認により、「第一人者(第一市民)」、「ローマ全軍の指揮権(インペラトール:これがエンペラーの語源)」、「護民官特権(元老院決議に拒否権を行使できる)」の三つの権力を手中に収めるわけです。 神権授与説などではなく、まるで民主主義で選ばれる大統領のようなもの。しかしながら、前代皇帝の遺言により指名されたり(ティベリウスまでは)、近衛兵団に皇帝に祭り上げられたり(クラウディウス)するわけですので、現代的な民主主義とは全くかけ離れています。不思議な政体です。

読んでいても、「皇帝ティベリウス」とか、「皇帝カリグラ」という表現に出会うのですが、オリエント的、中国的な皇帝とは字は同じでも内面はまったく違いますので、かなり違和感を覚えてしまうのでした。皇帝といっても多義的ですので。

ただいえることは、一民族の長は王であるが、民族を超えた長は皇帝なのである、というところ。だから、カエサルはローマ人の王にはならなかったのです。神聖ローマ帝国や、フランス第一帝政、オーストリア=ハンガリー連立帝国など、西洋の皇帝位にはこの定義が当てはまりますね。

そんなわけで、今日はカリグラ帝の暗殺のところまで読みました。一緒にアイーダを聴いていたのですが、期待した演奏ではなくて少しがっかり。本当はこの盤のことを書こうと思ったのですが、ちょっと遠慮することにしました。というわけで、アイーダについては別の盤を探そうかな、と思っています。どなたか、おすすめ盤があれば教えていただきたいと思います。

それにしても、昨日の夢の話ではありませんが、オペラは難しいです。

 

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週末までの締め切りは何とか終わらせました。昨日は健康診断。ちまたで論議を呼んでいるメタボ判定を受けてきました。おへそ周りの腹囲を測られたのですが、ちょっとおなかを引っ込めて見たりしたおかげで、セーフ。よかったです。体重も思ったよりも低かったのでBMI的にも大丈夫かなあ、というところ。最近立ちくらみがひどいのですよ、と医者に相談したら、それは疲れから来る自律神経の問題ですね、と一蹴。あるいは、平衡感覚が狂うことによるめまいとか、脳神経系障害ということも考えられるのだそうですが、確率的には自律神経の問題が一番高いのだそうです。疲れているということなんでしょうか。普通に働いているんですけれど。

というわけで、昨日は早めに帰宅してしまいました。やらないといけないことはたんまりあるんですけれどね。 「ローマ人の物語6 パクス・ロマーナ」を読んでいるのですが、やはり内政問題中心だと進みが悪いですね。戦闘描写は結果が気になりますから、いきおい読む速度が上がるのですけれど。ともあれ、アウグスティヌス=オクタヴィアヌスが、いかに老獪で強い意志の持ち主であることがわかって、感嘆しています。あるいは、人の使い方がうまい、というところも。外政や戦闘はアグリッパに任せ、内政はマルケルススを重用する。本当に力のある人は、人の使い方がうまいということなんでしょうね。そういう意味でも、カエサルに比べれば面白みのない男だといえるかもしれませんけれど。今読んでいるところでは、義理の息子のティベリウスとドゥルーススが防衛ラインをライン川からエルベ川へと移動するべくゲルマニア攻略に乗り出したところです。

音楽のほうはといえば、あいかわらずコルンゴルトの「死の都」を聞いています。だいぶフレーズにも慣れてきました。もう一息ですね。

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今日もなんとか時間を取ることができました。ブログ書くのは楽しいですね。どんな方がごらんになっているのだろう、とアクセス解析を見ることがありますが、いろいろな方に見ていただいておりまして、大変感謝しております。本当は、美術館のようにいろいろなものを「陳列」したり、「展示品」の感想を書いたりするブログにしたくて、2003年からMuseum::Shushiをはじめたのですが、もうそろそろ5年にもなりますか。当初思ったような形とは違う方向に進んできた感もありますが、ともあれ、この一年ぐらいは「ほぼ」毎日更新になっていると思っています。そういう意味では少しは前進したといえそうです。今後も引き続き書いていくことになると思います。

今日も引き続き「死の都」を聞いていますが、昨日の夜あたりから、この雰囲気、プッチーニの「西部の娘」と似てないだろうか、と思い始めてきました。「西部の娘」はアメリカを舞台にしたオペラですが、ほかのプッチーニ作品に比べて、若干渋みのある作品で、「私はミミ」か「私のお父さん」と比べられるような大人気アリアを持たない作品です。しかしオーケストレーションの厚みとか色が鮮やかでなのです。「死の都」の持つ空気の色と同じなのです。これを楽理的に言えればもっといいのですが。

「ローマ人の物語」はとうとう6巻に突入しました。全15巻ですので、まだ半分にも達していない。先は長いです。今年は、せめて第11巻「終わりの始まり」までは今年中に読みたいと思っているのですが、ちょっと気を張らないと読み終われなさそうですね。さて、6巻は初代皇帝、オクタヴィアヌス治世のお話。「パクス・ロマーナ」という題名から察せられるように、ローマ帝国の国力は地中海世界を覆っていて、しばしの平和が訪れるわけですね。オクタヴィアヌスがどのようにして皇帝の地位を獲得してゆくのか。その老獪ともいえる手腕をまさに眺めながら、という感じで読んでいます。

「ローマ人の物語」をはじめとした塩野七生さんの著書を読んで良かったことは、困難なことに立ち向かう力がまた湧いてきた、ということにあります。特に仕事面でその効果は大きいです。オクタヴィアヌスの意志力の欠片にあずかった気分。読んで良かったです。

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今日もブログがかけることを感謝しています。ものを書くのは結構楽しいですね。昔の知り合いがテレビでインタビューされているのを見ました。彼は、 10年近く前に会社を辞めていたのですが、どうやら夢をかなえるべく頑張っていたようで、いまでは某地方自治体の議員になっていたのでした。すばらしいですねえ。

「ローマ人の物語5 ユリウス・カエサル ルビコン以後」読了です。

ポンペイウスとの戦いを終え、ローマに凱旋するカエサル。終身独裁官に就任し、事実上「皇帝」となるカエサルでしたが、カエサル的な融和政策で、かつての敵をも寛容さを持って許してしまったため、反カエサル派の動きを掣肘しないまま。子飼いの部下も不遇にかこつけて反カエサルに身を投じ、運命の3月15日、ユリウス・カエサルは、元老院会直前に刺殺されます。傷跡は二十数箇所。

カエサルの下、平静を保っていたローマ情勢は緊迫します。カエサルの右腕で、執政官の同僚だったアントニウスは、カエサルの意外な遺言書に驚きます。カエサルの示した後継者は無名の若者、オクタヴィアヌス。だれそれ? と誰もが言うぐらい無名だったのです。ですが、オクタヴィアヌスは、カエサルから指名されただけのことはある若者だったのです。

ローマ史の最もおもしろいところが終わってしまいました。少し寂しい気分。あと、楽しみなのは五賢帝の時代でしょうか。そういう意味で言うと、ユリアヌスがどう描かれているのかも楽しみですね。辻先生の「背教者ユリアヌス」とどういった違いがあるのか、など。

音楽のほうは、引き続き「死の都」を。ストーリとは裏腹に、映画音楽的な甘い旋律も現れるわけですが、ただ甘いわけでは決してなくて、旋律もオーケストレーションも複雑。シュトラウスやマーラーの影響下にあったといいますけれど、それよりもコルンゴルトが影響を及ぼした種々の映画音楽との関連性のほうが浮き上がってくる感じを持っています。それだけ、コルンゴルトのオリジナリティが発揮されているのだと考えています(楽理的に述べられないのが痛いのですが。本気で音楽理論や譜面の勉強したいのですが、いまからでも間に合うものなのでしょうか、という感じ)。

あと余すところ一日。それで週末です。長いようで短い一週間。あっという間でした。ということは充実していたということでしょうか。

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通勤電車の中では、引き続き塩野七生さんの「ローマ人の物語5 ユリウス・カエサル ルビコン以降」を読んでいます。いよいよ軍勢を率いて禁じられたルビコン側以南への兵力侵攻を成し遂げたカエサルは、宿敵ポンペイウスを追ってイタリア南部へ。当方へ撤退するポンペイウスを引き止められなかったカエサルは、一転してスペイン属州へ向かい、自治都市マルセイユを攻略し、スペイン属州群を大破せしむる。サルディニヤとシチリアを攻略し、食糧補給地を確保。カエサル隷下の元老院議員クリオ率いる軍団はアフリカ属州へ向かうが、ヌミディア軍に破れ全滅。ポンペイウスを追って、アドリア海を渡り、バルカン半島へ。さてどうなるのか!?

下手な漫画やドラマより、ぜんぜん面白いです⇒ローマ人の物語。史実としての面白さもあるのだけれど、やはり塩野七生さんの冷徹な筆致と、そこから浮き上がってくるカエサルへ向けられたある種の普遍的な感情。ついつい塩野さんと一緒にカエサルに感情移入してしまう。 それにしても、カエサルの人身掌握術はすばらしい。ストライキを起こした軍団に、厳罰で臨みながらも、軍団長らの(おそらくはカエサルが仕組んだ)とりなしに、仕方がなく従うあたりとか。これは、読む人が読めば実世界にも役立ちますよ。

そんなときに聴きたい曲を考えていたのですが、やはりダイナミックな音楽を。シュトラウスの「ツァラ」かな? とも思ったのですが、実際に聴いたのは先だって聴いたばかりのコルンゴルトの映画音楽集。古きよき映画音楽は、「ローマ人の物語」に良く似合う。血がたぎるぐらいに読書がワクワクします。それにしても、コルンゴルトの音楽は、肌触りが良い中に、難しいフレーズとか、無調感が仕組まれていたりして、面白いです。ジョン・ウィリアムズの「スター・ウォーズ」にそっくりなのもびっくり。

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昨日今日の週末はなかなかに充実。「ローマ人の物語4 ユリウス・カエサル ルビコン以前」を読了。英雄譚を読むのは悪くないです。カエサルの人心掌握術とか、目的へ向かう強い意志などに魅惑されてしまいます。ルビコン川を渡ってからのカエサルは何を考えどう行動するのか。ポンペイウスとの闘いは? クレオパトラ? そしてブルータス。興味は尽きません。

今朝はなんとか5時に起きましたし、昨日は3時半頃に起きました。朝が充実すると、午後になるとどうしても疲れてしまいますね。バランスが大事です。いつもの家でやる作業は、はかどるにはかどったのですが、疲れに任せていきおい睡魔に襲われ、久々に午睡を派手に取ってしまいました。頭を使いすぎると、破裂しそうになるのですが、もう歳なのでしょうか? それともそう言うものなのでしょうか? まあ、資料を作ったりするのもやはり労働ですからね。時には身体を休まねばならない、と言うところでしょう。

今日もフォーレの室内楽を聴いてから、iPodに入っているフォーレのピアノ曲を聴きました。ピアノ曲自体聴くのは久しぶりでした。ノクターン集だったのですが、特にノクターン第三番は有名ですね。ノクターンだけで言えば、室内楽ほどに先鋭的ではありません。むしろ柔らかみをおびたしなやかな曲調で心が安まります。ピアノはジャン・ユボー。静謐なタッチに吸い込まれていく感じです。こういう世界に身を浸すのもいいものだと思いました。

 

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今朝も起き上がれず、6時過ぎに起床。たくさん夢を見たということは、質のいい睡眠ではなかったということでしょうか。

往路では、いよいよ「ローマ人の物語4 ユリウス・カエサル ルビコン河以前」に取り掛かることができました。せめて五賢帝時代までは今月中に読み終わりたいのですが、少々無理が過ぎるでしょうか。 「ローマ人の物語」は決して史実に寄り添ってはいますが、決して事実を述べているわけではありません。歴史学者の書いた本にはない人間っぽい出来事がそっと差し込まれているのを感じます。たとえば……、とある元老院議員が会議に遅れたのだが、遅れた理由は、子供が生まれたから。日は9月23日で、あのオクタヴィアヌス=アウグストゥスの誕生のエピソードになっているんですね。これが史実だとしたら、よく見つけていらしたのだな、と思いますし、史実でなかったとしたら、作家の天才的なイマージュとでもいえましょうか。

しかし、塩野さんは本当に優秀な方でいらっしゃるのですね。大学は学習院大学哲学科で、そこで「リベラル・アーツ」を学んだのだとか。ラテン語やら、哲学史やら、歴史やら、そういったことだと想像します。その後、欧州で友人と語られるとき、そうしたリベラル・アーツを学んでいたおかげで、共通の話題についていけたのだ、と書いておられます。

でもその後イタリアに遊学されるんですが、そこがなかなか引っかかる。あの時代にイタリアで「遊」学出来るとは、本当に幸運なことだと思います。やはり外国で「遊」学しないとだめなのかしら、などと……。

私は、決してまじめな大学生ではなかったので、悔やんでも悔やみきれないところはありますね。英語は当然として、ほかの諸欧州語も少しでもいいからかじっておけばよかった、と後悔しています。まあ、「老い易く学なり難し」の典型ですが。それにあきらめるのもまだ早くて、そんなことすると神様の罰が当たりますので。

昨日に引き続きマニャールの交響曲第三番をミシェル・プラッソンの指揮にて。第一楽章に現れるフーガが印象的。第二楽章は軽やかな舞曲ですね。第三楽章はオーボエに導かれる静寂とした音楽。雨の中、ひっそりと森の中に身を横たえる池に、幾重もの波紋が広がっているのを見ている感じ。そろそろ梅雨入りですので、なんだか今のアンニュイな気分にとてもフィットする曲想です。第四楽章も不穏な動機をはらみつつも、弦楽器の旋律が曲を先導していきます。静かです。

演奏は少し迫力に欠ける感もあり、私の再生環境(iPod+BOSE QuiteComfort2)では弦楽器の音に不自然さを感じたりもします。録音場所に恵まれなかったのでしょうか?いい曲であることは間違いないです。他の指揮者でも聴いたみたいです。そうですね、意外とバーンスタインとかレヴァインのような、ちょっとまったりした甘さをかぶせてみるとまた違った味わいの曲に聞こえるのではないか、などと思っています。