Tsuji Kunio

Haru

辻邦生全集〈9〉小説9
辻邦生全集〈9〉小説9

posted with amazlet on 07.07.06
辻 邦生
新潮社 (2005/02)
売り上げランキング: 485752
辻邦生全集〈10〉春の戴冠(下)
辻 邦生
新潮社 (2005/03)
売り上げランキング: 492937

春の戴冠、上巻も半ばを過ぎてきました。小さかったサンドロ(ボッティチェルリ)も、語り手のフェデリゴももう十二分に大人になりました。サンドロはフィリッポ・リッピの工房から別の親方の工房へ入ったのですが、人気が出てきたこともあって独立した工房を構え、肖像画などを描く仕事をしています。語り手のフェデリゴは、フィチィーノに弟子入りし、師匠の原稿の清書をしたり、後輩のギリシア語の先生になったりしています。フェデリゴは結婚していますので、もう20代も半ばにさしかかったところでしょう。

フィレンツェ(文中では、フィオレンツァ)の情勢はといえば、コシモが死に、息子のピエロが死に、孫のロレンツォがメディチ家の当主となりメディチ銀行をやりくりするだけではなく、フィオレンツァの政治的安定と覇権を確保すべく活躍しています。 フィレンツェの主要産業は毛織物なのですが、毛織物を染色するためには、媒介剤となる明礬が不可欠です。ところが、明礬はオランダでとれたり、教皇領でとれたりという感じで、なかなか安定供給が見込まれない状態。毛織物業者の中にも廃業するものが出てきたのですが、そんな折、フィレンツェ領内で明礬鉱が発見され、大騒ぎになります。ところが、明礬鉱が発見されたヴォルテルラの住民が叛乱を起こし、ロレンツォは完膚なまでにヴォルテルラの住民を虐殺するのでした。

一方、サンドロとは言えば、今そこにある桜草を描くのではなく、この桜草を通じてそこに現れている神的なものもを描き出そうとしています。他の親方は「ものから目をそらすな」といった具合に、現実認識を拡張していくことで、そこに美を求めようとするのですが、それはそれでいつしか破綻を来すのは必定なのです。人間の認識能力は有限ですので、認識すればするほど地平は広がり、認識すべきものの多さと大きさに圧倒されることになるのです。いわば経験論的な世界観とでも言いましょうか。サンドロはそうではない。いまここにあるものの背後にある神的なもの、あるいはイデアールなものをとらえて、それを描き出そうとしている。そう言うやり方なのです。この構造には見覚えがありますね。「嵯峨野名月記」の俵屋宗達のスタンスと同じです。あるいは、「小説への序章」で語られる、神の死後に改めて認識される世の不可知性の問題です。バルザックの頃までは、経験によって全世界を把握しようという試みは可能であったかも知れないけれど、いまやその可能性はないのです。そうなると、芸術家はパースペクティブを変えなければならない。帰納的認識から演繹的な認識へといこうしなければ、無限大に連なる世界を表現することなど能わないのです。辻邦生師のなかに一貫して現れるテーマがここにも当然のように登場していて、それを読むたびになぜか甘美な思いをするのです。

たしか、前回読んだときには、サンドロの芸術的信条がもう一二度転回していく、というのを覚えています。これからどのようにサンドロが成長していくのか、そしてフィオレンツァの行く末はいかなるものへとなっていくのか。二度目だというのにわくわくしますね。もちろん、歴史的事実として、このあとサルヴォナーラが登場して、フィオレンツァのルネサンスは小休止を強いられる訳なのですが。

最近、思い立って、フィレンツェの地図をガイドブックからコピーして、読みながら、場所を把握するようになってきました。フィレンツェには行ったことがありませんので、土地勘が全くありません。せめて地図と本でフィレンツェを満喫できればいいな、と思いながら読んでいます。もちろん辻邦生師の文学への理解がいっそう深まることを願っているのは言うまでもありません。

Tsuji Kunio

Haru

辻邦生全集〈9〉小説9
辻邦生全集〈9〉小説9

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辻 邦生
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辻邦生全集〈10〉春の戴冠(下)
辻 邦生
新潮社 (2005/03)
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春の戴冠を読んでいます。ようやく上巻の半分ぐらいまで来ました。前回読んだときよりも読む速度が早まった感じ。おそらくは読書時間が昔より増えたからだと思います。というのも、昔は会社の近くに住んでいましたので、通勤時間に本を読むと言うことができなかったからです。家が近いと、遅くまで仕事をしてしまいがちですし、疲れていると部屋で本を読もうにも、臥せってしまうことが多かったのでした。当時は明け方まで働くこともありましたからね。それに比べれば最近は早く帰らせて貰っています。ともかく、そう言う具合で読み進めているのですが、二回目ということもあって、内容を朧気にも覚えていますし、あるいは、覚えのないエピソードに遭遇して、嬉しくなったりしています。 ちょっとしたことですが、印象的なところ。マルコ・ヴェスプッチとシモネッタの婚礼の場面で、知り合いの親方がフェデリゴに目をつぶって遠くから挨拶をするシーンがあるのですよ。こんなシーンです。

叔父カルロの競争相手の毛織物製造業者ベンボも片眼をつぶって、遠くから私へ挨拶した。

春の戴冠 144頁 ここを読んでため息が出ましたよ。そうそう、そうなんですよ。日本人は目をつぶって挨拶する風習などあまりありませんね。もしそんなことをしたら気障な奴、と言われるに違いないのです。ですが、外国ではありますよね。映画でも観ますし、旅行中も見たことがあるような気がします。日本にはない風習であるからこそ、この一文を書かれたとことで、大きな現実性が付加されるわけですね。

語り手であるフェデリゴは、商人マッテオの息子です。マッテオは、事業に砕身しながらも、夜にはギリシア語で古典を読むという習慣を持っています。マッテオは、商売を営む現実人でありながら、ギリシア古典に親しむ理想的な人文主義者でもあるのです。マッテオのようなスタンスを撮る人間がフィオレンツァには多いのだ、という設定になっています。

現実と理想とのバランスに於いて生きるというスタイルは、「嵯峨野明月記」の角倉素庵の生き方と似ていますね。彼もやはり人文の世界で典籍に親しみながらも、ある時決意して家業に力を注ぐようになる。その二つのバランスを苦しみながらもやり遂げようとする。マッテオ達と同じなのです。その二つの世界は相容れないものではないのだ、とフェデリゴに語るのが、ルネサンス期のプラトン哲学者のフィチーノです。彼は、二つの世界を一つにまとめることが大事なのであって、現実に生きる人間こそ、理想の世界を忘れてはならないし、理想の世界に生きる人間も現実の世界を忘れてはならないのです。現実にぶつかって、株取引でもうけたり、営業成績ナンバーワンいなろうとも、一度、人は死ぬのだという宿命にぶち当たったときに、それを乗り越えるためには、一度理想世界、人文界を見遣らずには居られなくなるのだ、というわけです。

私たちもそうですよね。生きるために会社で働かなければならない。利益を上げるためには、ある種のカラクリを使わねばならない。それが善意にもとるものだったとしてもです。それでも、眼差しは本に向いていたり、音楽に向いていたり、哲学に向いていたりする。そのバランスをとることに苦慮する毎日を送っている。そうしたアクチュアルな問題をマッテオの生き様に投影させている。そう言うことなのだと思います。

一介の会社員に過ぎない私などがこういうテーマを読むと、どうしても自分に投影して見ざるを得なくなります。辻邦生師自体、大学院に通いながらも、日産ディーゼルで嘱託として働いていたと言うこともあったり、戦争が終って、文学の力に疑問を持ち、実務的な世界にあこがれていた時代があった、ということもあって、現実と理想のバランスのテーマは頻出していると思います。このテーマを考えてくれているということが、僕が辻邦生師を愛する理由の一つであると思います。

すこし、現実と理想を安易に使用した感もありますが、そんなことを思いながら読んでいます。
今回は、本の読み方も工夫しています。気になるところには付箋を入れていますし、気になるエピソードはなんとか書き出そうとしています。こうした長編を読むのは、勢いで読んでしまいがちなところもあるのですが、あとで全体を把握するためには、備忘録的なものがあった方が良いなあ、と思っています。

ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法 (PHP文庫)
福田 和也
PHP研究所 (2004/07)
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福田和也さんの「ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法」では、本に折り目を付けて、あとから書き抜くという方法が紹介されていますが、これも試してみたのですが、私の場合読んでいるときに、すでに関連する物事が沸々と沸き上がってきて、すぐにメモをしないと忘れてしまうのですね。本来なら、本の中に書き込めばいいのですが(現に書き込んでいる本もありますが)、さすがに重厚な単行本に書き込みをする勇気をまだ持てずにいます。本来なら、すぐにでも書き込むべきなのでしょうけれど。あるいは、折り目を付けてしまうのが良いのかもしれませんが。それが無理なので、やむなく付箋を貼りつつ、メモをとりながら本を読むようにしています。もっと言い読み方があればよいのですが、昔から試行錯誤しながらまだ迷いがぬぐえません。

Tsuji Kunio

Haru
今日は、往路、復路ともに辻邦生師の「春の戴冠」を読むことができました。昨日は30頁弱しか読めませんでしたが、今日は40頁強ぐらい読めたと思います。サンドロ(ボッティチェルリ)と語り手のフェデリゴが徐々に大人になっていく部分です。コシモ・デ・メディチが登場し、策謀を巡らせてフィレンツェの実権を握っていくあたりまで行きました。その中で、芸術と実務の対立や、フィリッポ・リッピの華やかな生き様を賞賛するあたり、それからサンドロ現実の美しさの有限性に気付き悩み始めるところ、などを経てきました。それから謎の薬剤師トマソの登場や、コシモとの出会いなどなど、今日もいろいろあった一日でした。


今日も吉田秀和さんのビデオを見ました。桐朋学園の前身の子供のための音楽教室をつくられたり、二十世紀音楽研究会をつくられたりしたのですね。武満さんが「Ring」という作品を発表されたときにどれだけ感動したかと言うことを話しておられました。

グールドやアルゲリッチの評価の先鞭を付けられた吉田さんは、そのことを、何万もの魚の中から、これぞと言う魚を見つけるのが楽しいのだ、ちょうど釣人が、だれもつらない様な場所で魚を釣り上げたような喜びなのだ、という具合に喩えていらっしゃいました。

それから、音楽の本質は、良い機会(オーディオ)でなくても分かると思う、ともおっしゃっていました。逆に、音楽の本質をつかめないのにオーディオに投資をしても無駄だ、ともおっしゃっていました。僕自身、iPodとヘッドフォンにしかお金をかけていなくて、オーディオにはあまり頓着しない方(というか、経済的理由からできないのですが)なので、その言葉は多いに励みになりました。

チェリビダッケのチャイコフスキー5番を聴きながら、チェリビダッケは遅いというのは分かっているけれど、そこから、何が生まれてくるのか、どういう面白み、音楽の愉しみ、予想外なことが出てくるのかを見つけるのが、僕の楽しみなのだ、とおっしゃっていました。

音楽を聴かれるときは、畳の部屋で聴かれているのですが、スコアを見ながら、メモをとりながら(おそらく欧文で)聴かれていました。やはりスコアが読めないいけないなあ、と思いました。まあ何を望むかと言うことにもよると思うのですが。


また会社で少々失敗を。本当は味方にしなければならない方を敵に回したかもしれない。考えすぎはよくありませんが、まだ少々おとなしくしておいた方がよいようです。仕方がない。あすからは気持を切り替えて行きましょう。


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Tsuji Kunio

Tsuji

城・ある告別―辻邦生初期短篇集 城・ある告別―辻邦生初期短篇集
辻 邦生 (2003/02)
講談社

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講談社文芸文庫に入っている辻邦生先生の「城/ある晩年」というを読みました。

目録のとおり、講談社から辻先生の本が出ているのは、これだけだと思います。なぜだかよく分りませんが……。所収されている数ある短編のなかから真っ先に読んだのは、大好きな「サラマンカの手帖から」でした。この小説については何度も取り上げているような気がしますが、それぐらい好きなのだ、ということです。

主人公はパリに来ている日本人、恋人とおぼしき女性もおそらく日本人でしょう。日本人であることが述べられているのは、文中において一カ所のみ。示唆されているのも一カ所(サラマンカでは同国人に出遭わない、といったくだり)のみです。

なぜ、この小説を読んでこんなにも感動するのか、いろいろ考えています。 まず主人公と女は、あることで悩んでいる模様。おそらくは、子供をあきらめたと言うところなのでしょう。それを女はとても後悔しているし、罪悪感を感じている。主人公の男もやはり同じ気持ちを女ほどでないにしても持っている。だから、「誰だって、過失はある。そのたびに何もかも投げだしたら、一生かかっても人は何もできやしない」という名文や、「おれたちだって幸福になる権利があるんだ」という名文において、必死にその過失と対決しているのです。

サラマンカでは、若い踊り子の情熱的な舞踏であったり、その踊り子が盗みをはたらき、警察署から出てくる場面に出くわしたり、地酒を飲んだり、旅館主の夫婦の落ち着いた暮らしぶりをみたり、灼熱の太陽を浴びたりするのですが、そうした体験で、二人は徐々に恢復していきます。 たとえば、踊り子の姿をみて以下のように女が言います。

「私ね、あんなに熱中し、没入できるものがこの世にあることを、なんだか教えられたみたいな気がするの。いままであんなふうに熱中したことがなかったみたい。熱中する前にさめちゃって、ぶつぶつ言ってたみたいな感じね」

現代人的な「分別」とでもいいましょうか、そうしたものが、熱中することを妨げていた。そうではなく、もっと人生に没入していかなければならない、ということを行っているのだと思います。

さらに、終幕部に続きます。 盗みをはたらいた踊り子の娘が、オレンジを齧りながら、警察署からでてくる。それも堂々と。それは「野生の獣のような純粋な感じ」と表現されています。野生の獣は、日々生きるために対決しています。そうした空気を踊り子の娘が持っていたわけですね。 そして、この下りへ入っていきます。もう何度もこのブログに書いているかもしれませんが、ここだけはどうしても書かないわけにはいきません。

「オレンジを齧っていたね。あれが生きるってことかもしれない」 「オレンジを齧るのね、裸足で」 「そうだ、オレンジを齧るんだ。裸足でね、そして何かにむかってゆくのさ」

この主人公達は、冒頭においては、もう生きることが辛くて仕方がない風だったのです。それはある種の後悔の念や罪悪感によるものだと思うのですが、正面から対決し、生きていこうとしている。そういうある種の解決感、もちろん生やさしい解決などではなく、現実や社会との対決という、途方もなく辛苦に満ちた解決への道程が含まれていると思うのですが、対決する意志、野生の獣のような強い意志をもって生きようとする剛毅な態度への志向を感じるのです。

そう思うと、日頃、生きるためとはいえ、従順になって、まるで柵に囲まれた羊のように生きている自分って何なのだろうか、と思わずには居られません。柵の中にはオオカミは入ってきませんが、柵の外にでることは決してありません。

…… 少々、思考が暗くなっていますね。どうやら昨日の失敗が尾を引いているようです。 僕も、少し休んだ方が良いのかもしれません。


今日はフォーレを聴いています。プラッソンの振る管弦楽全集の第二巻です。

フォーレ:管弦楽曲全集

フォーレ:管弦楽曲全集

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トゥールーズ・カピトール国立管弦楽団 シュターデ(フレデリカ・フォン) トゥルーズ・カピトール国立管弦楽団 フォーレ プラッソン(ミシェル) アリックス・ブルボン・ボーカル・アンサンブル ゲッダ(ニコライ)
東芝EMI (1997/03/05)
売り上げランキング: 88908

僕はいつも第一巻を聴くことが多いので、第二巻を新鮮な気分で聴くことが出来ました。よかったのは チェロと管弦楽のためのエレジー ハ短調 作品24 ピアノと管弦楽のための幻想曲 ト長調 作品111 ですね。フランスのエスプリって感じだなあ、と。

今日も、昨日のショックから完全に立ち直れていなくて、少々憂鬱な一日だったのですが、このCDを聴いてなぐさめられた気分です。いいですね、フォーレ。


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皆様のおかげで、先ほど観たら9位になっていました。ありがとうございます。

Tsuji Kunio

先だって、JIS2004準拠のフォントをWindows Updateで入手したら、システムフォントが変わったのだが、驚くべき変化が!

辻先生の辻の字、しんにょうにてんひとつだったのが、しんにょうにてんふたつに変わっています。
ほら、こんな感じに!

Tsuji_2

これは本当に感動だよなあ。嬉しい限り。

この字の方が日本語的には正しいらしい、とされているのだそうです。

詳しくはこちらへ。
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20061122/254684/

字形がJIS2004準拠となるフォントは、VISTAに載った「MS 明朝」「MS P明朝」「MS ゴシック」「MS Pゴシック」「MS UI Gothic」「メイリオ」だそうですが、XPでも使用可能なようです。

とはいえ、てんひとつのしんにょうの方々にとってはは少々困った話になりそうです。

Tsuji Kunio

今日は午後から雨でした。お昼を回ってすぐの頃、西の空から灰色の渦巻く積乱雲が近づいていきました。途端に遠雷がきこえ始めたのですが、幾ばくかも経たないうちにコンクリートの駐車場に雨模様が現れ始めました。空は光り、雨音は激しく、雷鳴がとどろき渡るさまを、ガラス越しに眺めていたのですが、なんだか気分は晴れ晴れしてきた感じです。雷雨という非日常をガラス越しに見遣るのは気分の良いものです。それは窓の外に出ることがないと保証されているからでしょう。

 モンマルトル日記

昨日から、辻邦生師の「モンマルトル日記」を再読始めました。辻邦生師がパリでどんなに厳しい思いで思索を試みていたのか、と思うたびに、痛切なまでに感歎と畏敬を覚えずにはいられません。

ピアニストがピアノを叩き、レスラーが身体をきたえ、左官屋が壁土をこねること以外、何一つ考えなくてよく、考えないでいるのと同じく、物語作家にとってレアリテはただ一つ「強烈な感情」を自分の中につくるということである。二十四時間このことだけに集中するのである。「強烈な感情をつくること、吐きだすこと──

辻邦生『モンマルトル日記』集英社文庫、1979年、136頁

この石で固められた硬い都会(まち)に、自分をとぎに来たのである。この都会の硬さは、あらゆるにせもの、いんちき、つけ焼刃を、すべて残酷にはぎとってしまうどうしようもない真実さがある。ここでは生と死の境界のような、人生のぎりぎりの本ものがある。一人一人がそうしたもので生きている。労働者は労働者なりに、娼婦は娼婦なりに、この硬さ、この殻の不敵さで生きている。それは打ちやぶることはできない。(中略)いい加減なものは絶対にうけ入れない。甘さなど微塵もない。一流中の一流の才能がやっと残り、そしてそれでさえすぐさま滅び去ってしまう。(中略)うそはだめであり、自己満足はすぐ窒息する。ただ真に「よきもの」に達したものだけが、この硬さと同じ硬さを持って生きはじめる。

辻邦生『モンマルトル日記』集英社文庫、1979年、133頁

本当に厳しい文章です。本当に辻先生は強い方です。このときには、既に「夏の砦」や「廻廊にて」は既に世に送り出されていて、「嵯峨野名月記」で苦しんでいる時分なのですが、こういうことを考えていらしたわけですね。これを読むと、もっと強くなければならない、と思うことしきりです。 もちろんあまり自分を責めるのはよくはないのですけれど。
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Tsuji Kunio



右側においてある「辻邦生著作目録」ですが、リンク切れになっていましたので修正しました。原因はMuseum::Shushi Archives Divisionないの著作目録のページのURLが誤って設定されていたためでした。申し訳ありませんでした。
(気がついて良かったです)

Tsuji Kunio

ラジオドラマCD 西行花伝 ラジオドラマCD 西行花伝
(2006/06)
エニー

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会社の帰りにラジオドラマ版西行花伝を聞きました。原作の幽玄な雰囲気をうまく表現していると思います。
今日は最初の小一時間ほどを聞いたのですが、特に印象的だったのは待賢門院との感動的な出会いの場面。西行役の竹本住大夫さんの語りの静かな迫力にただただ舌を巻くばかり。微妙に関西方言のイントネーションが混ざっていて、ああ、これは本当に西行が語っているのだ、と思わずにはいられませんでした。
その後、西行と待賢門院が二人きりになって桜を見るところでいったん今日はヘッドホンを置きました。CD四枚組でので、まだ先は長いようです。続きは木曜日に引き続き聞く予定。

Tsuji Kunio

黄昏の古都物語 黄昏の古都物語
辻 邦生 (1992/07/31)
有学書林

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「黄昏の古都物語」を読みました。前奏曲、間奏曲、終曲と題された掌編と五つの幻想的な短篇の世界です。この短篇は、「芸術新潮1984年9月号」でアール・ヌーボー特集が組まれた際に、田原柱一氏の写真と並べて掲載されたとのことです(あとがきより)。
幻想的な作風は、「天使の鼓笛隊」を想い出させます。それにしても、「幻想特急」が牧草地の真ん中に、レマン湖畔に、セーヌの河底に停車している姿が美しすぎて言葉になりません。正直言って、ヤラレた!と心のなかで叫んでしまったほどです。全編に通底するアール・ヌーボーの愁いを帯びた気怠い美しさの表現や、揺らいだ時間の表現が実に見事です。

美に魅入られるとは、その奴隷になることです。でも、それは、官能の甘い酩酊ゆえに、すべてを売り払った疚しさに似た気持を感じさせます

辻邦生「黄昏の古都物語」有学書林、1992年、214頁

「詩人というのは二重の存在さ、生れつきね。曖昧なところがあるから、健全な人たちには煙たがられる。ところが、詩人ときたら、大人のくせに子供。知っていて、何も知らない。泣いていて、笑っている」

辻邦生「黄昏の古都物語」有学書林、1992年、258頁
それにしても、セーヌの河底に列車を沈めるとは、なんという想像力なのでしょうか! 感歎してやみません。
それから、この短編集に収められた「サラマンカの手帖から」は、何十回と読み直している短篇ですが、今日もまた読んでしまいました。いつ読んでも、思うところがあります。僕にとって理想の短篇と言ってもいいと思います。「サラマンカの手帖から」については、また書いてみたいと思います。

Tsuji Kunio


江戸切絵図貼交屏風
江戸切絵図貼交屏風

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辻 邦生
文藝春秋
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三度目の「江戸切絵図貼交屏風」に、予想以上に強い感傷を抱かざるを得ません。「江戸切絵図貼交屏風」には、藩の犠牲になった男と女の哀切な物語が収められています。藩は、人間の集合する組織なのですが、一方で非人間的な側面を持つ組織なのであり、その存立のためには犠牲をも厭わない非情な側面を持っています。そうした側面は、現代社会においては国家組織や企業において、まるで合わせ鏡のようにみることが出来ます。「江戸切絵図貼交屏風」において、組織に翻弄された男と女は、心中を図り、仇討ちを果たすがために放浪を続けます。現代社会では、仇討ちは禁止されていますし(江戸時代は国家公認の制度でしたが……)、心中などという話も、あまり聞くことはありませんが、それでも、家族を舞台にした殺人事件や、DVなどには、硬く無機質な社会や組織に弄ばされ、傷ついた人々の哀切な叫びが隠されているような気がしてならないのです。「江戸切絵図貼交屏風」で繰り広げられる哀憫な物語は、現代を写す鏡なのであって、だからこそ、一編一編を読み終わった後に訪れる憂愁な気分がアクチュアルな意味を持ってくるのです。