Japanese Literature,Tsuji Kunio


写真は、辻邦生師がかつて勤めておられた学習院大学文学部の建物です。いまの仏文の教授には夏目房之助や中条省平さんなどもいらっしゃいます。
久々に辻邦生師の本を手に取りました。
辻邦生師の本を開くと、常にその時々に応じた言葉が目に入ってくるのが不思議です。今回も同じ。

「生」というものが決して一すじ縄ではゆかぬ、生成する多様な複雑なもので、それに対してつねに、ある距離を取らなければならず、それに呑み込まれたら、どんな強靱な精神でも、ひとたまりもなく破壊するというゲーテの現実を洞察した深い知恵

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まあ、日常については、なんとも消化しきれない思いはあるんですが、まあ、そうした事実とは距離を置いて、本当の自分と向き合う時間も必要だなあ、と。
まあ、毎週やっているんですけれどね。
以前も書きましたが、辻邦生の本は、私にとっては聖書みたいなものです。あるとき、ふと手にとって、ページを開くと、、その時々の自分にぴったりな言葉が現れるという不思議さを感じることが多いです。
今回も同じでした。
最近、カプリッチョ聴いて涙を流すことが少なくなりました。「影のない女」でオペラトークで皇后の歌を聴いたら泣いたんですけれど。
ちと疲れて感情センサーが鈍くなっているのかも。だが、トラブル発生のため、今日も忙しそうだなあ。
やっぱり、辻邦生師とは一生離れることは出来ないでしょう。

Tsuji Kunio

今日は辻邦生さんの命日です。没後10年ということになりましょうか。手帳には、10年前の訃報を伝える新聞の切抜きが入っております。あれから10年がたったのか、というほとんど信じられない思いが湧き上がりました。
10年で世の中はすっかり変わりました。ITバブルがあり、9.11があり、アフガニスタンがあり、イラクがあり、リーマンショックがあり……。景気の波も2サイクル回りましたし、私も変わったのだと思います。良い方向に変わっていれば良いのですが。
10年前の秋の「お別れの会」のことも懐かしいです。雨降る高輪プリンスホテルに駆け込んで、会に参列して、辻さんの執筆姿を捉えた白黒写真をいただきましたが、その写真も時間に抗えず変色しています。
歳をとればとるほど時間の流れは累乗的に速くなりますので、次の10年はもっと速そうです。

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「霧の聖マリ」読了です。2ヶ月ぶりに辻作品の芳香に触れて感慨深いものがありました。

先にも触れましたとおり、ある生涯の七つの場所は、色の系列(7色)と数の系列(14篇)を掛け合わせて(98篇)プロローグとエピローグを加えたものですが、霧の聖マリでは、黄と赤におのおの7編を掛け合わせた14篇からなります。

黄の系列である「黄いろい場所からの挿話」は私Bが主人公の挿話群で時代は1970年代初頭のヨーロッパが舞台。「赤い場所からの挿話」は私Aが主人公の挿話群で1920から30年代にかけての日本が舞台です。

(私A、私Bはこちらを参照ください)

改めてプロローグを読み直してみると、スペイン内戦についての示唆が多く含まれていて、あとから登場するはずの人物達の名前も記されてあり、懐かしい思いです。

「黄いろい場所からの挿話」群では、おそらくはスペイン内戦に参戦した男達の影をいくつもいくつも通り抜けていきながら、私Bとエマニュエルのある意味独特な愛情関係をモティーフに、人間らしさとか、自由といった根本概念の考察が加えられていきます。

私Bとエマニュエルの関係はこの作品群に通底する大きなライトモティーフで、今後のことを知っているだけに、複雑な気分。あまり書くとネタバレですが、ともかく、この二人のある意味純化された美的な関係は実に甘美です。

「赤い場所からの挿話」群では、私A(私Bの父親なのですが)の幼少時代からの記憶をたどる物語。戦前の日本を舞台に、なかば哀切とした人間模様が語られていきます。逆境に耐え忍びながら、あるいは運命に抗おうと生きる男達や女達の物語を、幼少の私Aの視点から回想的に語られるわけで、胸を打たれるばかり。

今回も、読んでいくうちに今の自分にぴったりのことが書いてあって、空恐ろしさを感じた次第です。こういう経験は辻作品を読むたびに味わうので、最近では当たり前のように思っていますが、良く考えればとても不思議な出来事だと思います。

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 辻先生の「ある生涯の七つの場所」について、2006年から2007年に掛けて集中的に書いていた時期がありました。そのころの記事を読んでくださったのだと思うのですが、先日ある方から心のこもったメールをいただきまして、本当にうれしい経験でした。この場を借りて改めてお礼申し上げます。

さて、私がこの連作短編集「ある生涯の七つの場所」を始めて手に取ったのは1992年の2月だったと記憶しています。場所は品川プリンスホテル内の書店にて。辻先生のお住まいは高輪でしたので、きわめて近い場所でこの短編に出会って驚きうれしかったのを覚えています。そのころのことは以下のリンク先の記事もお読みください。

https://museum.projectmnh.com/2006/11/29233753.php

さて、1992年といえば、もう17年も前のことになります。当時私は受験生でしたので(年がばれますが)、いろいろと思い悩んだということもあり、各月で刊行されていった「ある生涯の七つの場所」全7冊を発売当日に買い求め、そこになにか浄化のようなものを求めていました。 当初は法学部や政治学科を志望していましたが、おそらくはこの「ある生涯の七つの場所」をはじめとした辻邦生作品を読むことで半年後にはずいぶんと人間が変わってしまい、結局文学部に進むことにしたのでした。それはそれで本当に良かったと思います。

先日高校時代の友人達と会ったのですが(富士登山の友人です)、彼らと知り合ったのが16歳ぐらいですので、そこからまた17年とか経ってしまっているわけで、あのときまでの人生時間と同じ時間がたっているのだなあ、と愕然といたしました。

「ある生涯の七つの場所」は七つの色をモティーフとしたそれぞれ14の短編(7×14=98)に、プロローグとエピローグを加えた100の短編から構成される小説群で、長編小説ととらえることもできると思います。主人公は三代にわたる男たち。すなわち、

  1. 戦前にアメリカにわたって農業関係の研究をしている「父」の挿話群
  2. その息子である「私A」が戦前の日本で織りなす人間模様のなかで成長していく姿を描く挿話群
  3. 「私A」の息子である「私B」が、フランス留学中に知り合ったエマニュエルとの出来事や、スペイン内戦に関わる出来事に出会っていく挿話群

というぐあいです。

ともあれ、もう「霧の聖マリ」を半分以上呼んでしまいました。すでに通読しているからこそ意味がわかってくる挿話などがあって、特にスペイン内戦を巡って小説の水面下で繰り広げられる人民戦線に参加した男たちの物語を浮かび上がってくるのがとても興味深いです。このあたりは本格的に研究してみたいと思っているところです。時間をとれるといいのですが。研究したいと思ってからもう15年は経っていますね。光陰矢のごとし。されど「もう遅い」という言葉はありませんので、なんとか取り組もう、という決意。

さて、今週末の日曜日は新国立劇場で「ラインの黄金」を鑑賞予定。安い指環のセット売っていないかしら……。さすがにカラヤン盤とショルティ盤ばかり聴くのも芸がないような気がしてきましたので。超久しぶりにタワレコを急襲しようか、などと思案中です。

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辻邦生師の「フーシェ革命暦」第二部を読了しました。熱に浮かされたように通勤時間に読み続けていました。

国家破綻寸前のフランスを立て直そうと、財務大臣のネッケルが貴族の免税特権を剥奪し税収を増やそうとするわけですが、当然貴族たちは黙ってはいないわけです。そこで三部会を開催し、税制を変えようとします。三部会は、僧侶階級、貴族階級、平民階級の三つの階級が合同する会議なのですが、貴族は当然議事の進行に協力するわけがありません。一方で平民階級の議員たちは、独自に議事を進めようとするわけです。

当時の平民階級、特に農民や労働者たちの置かれている状況は大変厳しかったわけです。穀物の不作にも関わらず徴税請負人の厳しい取り立てに種籾さえも供出しなければ行けない状態。食うや食わずの状況を強いられていました。もちろん都市労働者も同じです。小麦は貴族階級に買い占められており、パンの値段は上がる一方でした。 平民階級の不満は爆発寸前でした。

そんな折の三部会の開催で、平民階級はそうした状況が是正される最後の切り札として三部会を捉えていたわけです。 貴族階級、僧侶階級の不参加で、三部会の存立自体が危うくなったところで、アベ・シエースの提案により、平民階級のみで三部会を存立させることとし、議会の名称を三部会から国民議会に変更し議事を進めていきます。

一方、貴族階級も反撃を進めようと、傭兵部隊をパリ近郊に配置。治安状況の悪化していたパリに圧力を加えます。パリの民衆の不満・不安は頂点に達し、民兵が組織され、火薬を求めてバスチーユ要塞へ進撃し、これを陥落させるのでした。

民衆の理性を失い凶暴化した様相が強調されていて、「春の戴冠」のサヴォナローラ訴追の場面を思い出しました。フランス革命はテルミドール反動で幕を閉じるわけですが、フーシェ革命暦」は本来ならそこまで書かれるはずでした。つまり「改革」の破綻で幕切れとなる予定だったわけです。そういう意味では、私の持論である「性急な改革への警鐘」という、辻邦生文学の一つのスキームに合致すると考えています。

未完成に終わったのは実にもったいなくて、大枠のあらすじは、歴史が教えてくれるわけですが、魅力的すぎるミュリエルというキャラクターの誘拐事件を巡る顛末についてはわからないままです。いろいろと示唆は与えられているのですが、どこに落としどころがあるのかは謎のままかもしれません。 もちろん、未完成に終わった第三部の途中まで全集第十二巻に所収されていますので、引き続き読んでいこうと思っています。

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フーシェ革命暦で描かれるフランス革命前夜の情勢は、今の日本と共通する部分があります。

ニュースでは、2009年度の日本の予算は、歳出が88兆円、歳入が46兆円で、足りない部分は国債で補います。また歳出のうち20兆円は国債の利払いに当てられるとのことです。

一方、フランスではどうだったか。「フーシェ革命暦」においては、やはり国債の利払いに相当な割合の歳出を割いていると言うことが書かれています。原因は、貴族の免税特権による歳入不足や、干ばつによる小麦の不作で、定めらた税が納められないという点だとされています。

当時のフランスも、現代の日本も、国債に多くを負っているという点では一致しています。原因も似ているかもしれません。徴税がしっかり出来ていないという点。当時のフランスでは大貴族は免税特権を持っていたのです。

こう見ると、何とも日本も革命前夜に似ているのかもしれない、と思うようになりました。衆議院議員選挙は延期となりましたが、来秋までには実施されるに違いありませんので、そこで何が起きるか、だと思います。

違うのは、市民の温度でしょうか。フランスでは煮えたぎっていましたが、日本ではどれだけ煮えたぎっているのか。あるいはこれから煮えたぎるのか。

ともかく、「フーシェ革命暦」に、アクチュアルな意味を感じずにはおられません。

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二週間ほど前から読み始めていた未完の大作「フーシェ革命暦」の第一部を読了しました。久々の辻邦生長編の世界に身を浸しきって、実に幸福な経験でした。

感想はともかく、少し輪郭について考えてみたいと思います。

ジョゼフ・フーシェという人は、フランス革命時の政治家です。当初はオラトリオ修道会学校で教師をしているのですが、フランス革命勃発とともに政治界に入り、国民公会の議員となる。ルイ16世裁判で死刑に賛成しました。その後テルミドールの反乱に参加。ブリューメル18日のクーデターではナポレオンを助け、執政政府の警視総監に就任。その後オトラント公となりますが、タレーランとの策謀が皇帝の不興を買います。ナポレオン退位後、ルイ18世治下で警察大臣となりますが、1816年に国王殺害のかどで追放されます。実に波乱に富んだ人生です。

「フーシェ革命暦」は第一部、第二部がフランス革命200周年の1989年に単行本として出版されます。元々は「文學界」に1978年1月号から1989年4月まで11年間にわたって連載されたものです。第三部については別冊文藝春秋1991年秋号から1993年夏号まで7回連載されましたが、そこで残念ながら筆が止まり、未完に終わるわけです。

どうして未完なのでしょうか?

 月報の奥様の回想によると、同時に執筆されていた「西行花伝」の執筆が1993年夏に終了したところで、疲労のせいか、急性リュウマチにかかられたのだそうです。その時点で、「全く別の境地に達して」しまい、「二冊で完結したのだ」とおっしゃるようになったのだそうです。

とはいえ、この「別の境地」という点についてはもう少し考えてみても良いと思います。 とある方は、「われわれの時代自体が変わってしまったので、書き告げなくなったのだ」、とおっしゃっていました。私が第一部を読み終わって思ったのは、1991年のソヴィエト社会主義の崩壊がひとつの原因ではなかったかと考えています。

というのも、フランス革命の急進的な落とし子こそが、社会主義革命であったわけです。私は、辻邦生師がそうした社会主義思想にある種の共鳴を抱いていたのではないか、ということを、「ある生涯の七つの場所」を読みながら感じていました。そのことが、辻邦生全集第11巻の月報にかいてありまして(「近くの左翼集会に行こうとして」という記述、「マルクスの芸術論」など)、ようやく糸口が見つかったと思ったのです。

ただ、察するに、ソヴィエト社会主義に対しては厳しい見方をしていたのではないか、と想像するのです。それは辻邦生文学に底流するテーマだと考えている「性急な改革への警鐘」が物語っています。

この「性急な改革への警鐘」は、「ある生涯の七つの場所」においてはスペイン人民戦線の内紛劇をとって現れますし、「廻廊にて」では、マーシャの第一の転換=大地への恭順というテーマが、結局放棄されてしまう、といったところに示唆されています。あるいは、「光の大地」における新興宗教への指弾や、「背教者ユリアヌス」における、ユリアヌスの東方遠征の失敗などもそれに当たるかもしれません。また「春の戴冠」におけるサヴォナローラの改革が失敗に終わるというエピソードもそれに当たることは明白です(あそこは、文化大革命がモデルになっているように思えてなりません)。

ト社会主義の存立自体が、「性急な改革への警鐘」の対象だったわけですが、そのソヴィエト社会主義が崩壊することによって、指弾の対象が消失してしまいました。つまり、「フーシェ革命暦」に内在する「ソヴィエト社会主義」への警鐘がアクチュアルな意味を失ってしまったのではないか、ということなのです。

少々我田引水な部分もありますが、第一部を読み終わったところの感想は上記の通りです。

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今朝は5時半過ぎに起床。最近は通勤ラッシュがいやなので、早めに会社に行っています。6時15分頃に家を出て会社に着くのが7時40分ごろ。まだ誰もきていませんし、始業時間は8時ですので、20分間はネットで新聞を読んだりします。朝の電車ではほぼ確実に座ることができますので、楽なのですが、睡魔に勝てず寝てしまうことも。ですが、今日は大丈夫でした。

今朝読んだのは辻邦生師の「光の大地」です。これは毎日新聞に連載された新聞小説です。昨日の帰りの電車であったいい事というのは、この小説を読めたということでした。

この作品は辻作品の中でもいろいろな意味で際立っています。たとえば、同性愛的要素が取り入れられていること。主人公のあぐりと、日本とフランスの混血の美貌の持ち主ジュゼは友情を超えた絆を持つことになります。このあたりが、この作品に対する評価に影を落としている向きもあるようですが、私にしてみれば、多少違和感は感じるにしても、受容できるのです。これは辻邦生師の女性賛美の結晶だと思うのです。

思い返せば、こうした女性同士の友情あるいは友情を超えた絆は、「廻廊にて」、「夏の砦」、「雲の宴」でも描かれていて、私は「光の大地」のあぐりとジュゼの関係もその延長線上にあると捉えています。

一方で、辻邦生師は、男女の愛もちゃんと描いています。たとえば「ある生涯の七つの場所」では、主人公とエマニュエルの深い結びつきを、今にも壊れそうなガラス細工のような美しさで描ききっていますし、同じ新聞小説の「時の扉」もやはり男女の愛を描いています。

ちょっと変わっているのは、年上の女性への追慕のような関係も見て取ることができて、これは「背教者ユリアヌス」で見られるユリアヌスとエウセビアの関係とか、「春の戴冠」で見られるサンドロ(ボッティチェルリ)がカッターオネの奥方に抱く憧憬の念などがそれにあたります。

それにしても、「光の大地」ではちりばめられたイデアールな言葉にある種の面映さも感じます。ですが、その先にあるものを汲み取ってこそ辻邦生師の良い読者であらんすとするのに必要なものです。「生命よりも大切なものがある」 「生活に黄金の時間を取り戻す」 といった記述は、それ自体でなにかくすぐったい気分になりますが、正面から向き合うと難しい問題で、日ごろのわれわれがそこから逃げ回っているのだ、ということを改めて痛感するのです。

仮に私が小説家だとしたら、辻邦生師のように書くことはできないでしょう。その理由は二つあります。ひとつは、新たに書くものが辻邦生師の焼き直しであってはならないから、という理由に過ぎないのですが、もうひとつは、私にはまだそこまで語ることができるほど世の中に向かっていないから、という理由です。願わくば後者の理由は克服していきたいと思うのですが。

それにしても描かれるタヒチの美しさといったら言葉がありません。実際に辻邦生師はタヒチへ旅行されていますので、そのときの体験が生かされているはずです。私もいつかは行ってみたいと思いますが、まだ当分は先のことになりそうです。

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チェリビダッケ指揮でバーバーの「弦楽のためのアダージョ」を二回聞いてから、パユのフルートでバッハのブランデンブルク協奏曲第5番を聞いています。バーバーのほうは、昂ぶる気持ちをやわらげてくれますし、バッハのほうは、やわらいだ気持ちに鍬を入れて耕してくれているようなイメージ。不毛な土地に何かが生まれる予感、だといいのですけれど。

今日、久方ぶりに辻邦生師の「パリの手記」を手に取ったのですが、中に入っていけないという悲しみを覚えました。それはそうです。この三ヶ月間、文学からは少々遠ざかり気味でした。確かに読んだ本の数だけでいえば30冊以上は読んだと思いますが、すべて実践的な内容のものばかりでした。それはそれで生きるために有用な知識を得ることができましたので、プラスにはなったのですが。 「パリの手記」のような評論を読む量が絶対的に少ない。それに小説を読んだ数だって絶対的に少なすぎる。今年ベースで言えば、前半に塩野七生さんの「ローマ人の物語」をかなり読破しましたが(「ローマ人の物語」を小説に数えれば、の話ですが)、この三ヶ月は目も当てられないです。

クラシックを能動的に聞けなかったという意味でもこの三ヶ月は悔いが残ります。あるいは年始に目標に掲げた「プルーストの再開」も果たせていません。 読みたい本は山ほどあるのですが、読む時間も体力も足りていないという感じ。まあ、少々厳しい感じの目標ではあったのですが。 とはいえ、まだ残り二ヶ月ありますから、がんばるのですが。

ところがです。帰りの電車で良いことが待っていました。

続きはあした。

 

Tsuji Kunio

何かに罪の意識を感じている男と女がスペインへの列車旅行に向かいます。それも旅行案内書に載らないような旅行をするために。灼熱のスペインの大地を走る気動車。フランコ政権下にあって政治的自由を失っているスペイン人達。線路工事をする兵士。

そうしてサラマンカに到着した二人はやはり旅行案内書に載らないような場末のホテルに部屋をとる。だが旅行案内書に沿わないようにしているはずなのに、いつしか旅行案内書に近付いている。

ホテルの物静かな主人。サラマンカの市場の熱気。揚げ油の匂い。ロマの娘の舞踏の情熱的美しさ。サラマンカの風物にあてられながら、 二人には徐々に生への意志が醸成されていきます。それは男の「僕たちにだって幸せに生きる権利がある」という言葉にも見て取ることができます。しかし、二人はサラマンカを去らなければならない。女は言います。

「それ以上のことをサラマンカに負わせるべきじゃないわ」

最終幕がすばらしいのです。このブログでも何度も紹介したかも知れません。そして個人的に何度となく励まされたことか。泥棒容疑で捕まった踊り子の娘が警察署から裸足で歩いてくる。オレンジを齧りながら。その躍動的な生命感と言ったら! そして、この言葉で小説は閉まります。

「オレンジを囓るんだ。裸足でね、そして何かにむかってゆくのさ」

 

初出:1972年文學界
辻邦生全集第8巻に所収
文庫:新潮文庫「サラマンカの手帖から」、講談社文芸文庫「城・ある告別」