Tsuji Kunio

ここのところ、塩野七生さんや犬飼道子さんの本を読んでばかりで、辻先生の本をあまり読めていません。それでも、先日は「モンマルトル日記」を散漫に読んで、自分を鼓舞してみたりしていましたが。 そこで、何冊か辻先生の本を紹介してみようかな、と思い立ちました。初めて辻先生の本をお読みになろうか、という方々をターゲットにして、何冊か紹介してみようと思います。

まずは、「ランデルスにて」という短篇から。この短篇は、私が読んだ二つ目の辻作品です。一つ目は「樂興の時 桃」でしたが、学校の図書館にあった短編集の中からランデルスにて、を読んだのがはじまり。これを読んでから、すっかり辻文學の虜になってしまい、今に至るわけです。

美しい北欧の女性と知り合う主人公。女性の気の毒な身の上話を聞かされ、同じホテルの隣同士に止まるのだが、そこに現れたのは……。

まず始まりがすばらしい。列車が北欧の駅を通過していく様子が、駅名の羅列で表される。これがもうなんとも異国情緒を書き立てるだけではなく、重苦しい北欧の冬の空気が本から流れ出してくるのですね。そうして一気に物語世界に飛び込んでいくわけです。 そして最後に突きつけられる宿屋の主人の言葉。この言葉にぐさりと来たのは、主人公だけではない。読み手の我々も匕首を突きつけられたような気分になります。そして終幕部もやはり、北欧の駅名の羅列……。くぐもった声で発音される北欧語が陰鬱な空気を醸成します。

この話、読み終わってからもズシンと何かが来るのですよ。人間とは、人の間でしか生きられないというのに、とかく自分のことだけを考えるもの。それも都合の良い解釈で。

  • 初出 1975年「風景」
  • 辻邦生全集第二巻
  • 辻邦生全短篇(2)

Tsuji Kunio

春の戴冠、文庫本が出始めましたね。Amazonでも入手できます。春の戴冠は、辻邦生師の代表作であるにもかかわらずこれまで文庫化されていませんでした。一時は単行本でも入手が難しかったことも。

私が最初に手に入れたのは、大学時代に早稲田界隈の古本屋街で見つけた時。驚喜しました。しかしながら、なかなか手につかない感じだったのです。初めて読んだのは大学を卒業してからでした。結構時間をかけて読みました。

二回目に読んだのは昨年。一度読んでいますので、あらすじも大体分かっていましたし、ルネサンス期のフィレンツェ史も抑えることが出来ていたので、以前より増して興奮して読みとげることが出来ました。ネットで読んだのだと思いますが、春の戴冠は、トーマス・マンのファウスト博士に範を求めているのではないか、ということ。確かに、そうした側面は強いですね。

それにしても、春の戴冠には、考えた結果よりも、考える過程が大切なのである、と言うことを教えて貰った気がします。フィレンツェにおけるルネサンスは、ロレンツォ・イル・マニフィカートの死によって一つの区切りを迎え、ルネサンスの思想的背景となったネオ・プラトニズムも、サヴォナローラによって異端視され、廃絶されます。

主人公のロドリーゴの身内からもサヴォナローラの崇拝者が出て、ある種悲劇的な終わり方をするわけですが、それがそこはかとない余韻となって、名状しがたい読後感を産み出すのです。ボッティチェルリの芸術もやはり否定されゆくところで物語が終わるとはいえ、そこに至るまでにボッティチェルリの芸術の力強さが幾度となく繰り返されているわけですので、その価値は全く変わることはない。否定されることによって、逆にその力が強まった気がします。

決して論文を読んでいるわけではないので、プロセス、あるいは物語の総体を味わい尽すことが大切なのです。終わりが全てではなく、そこに至る道筋をこそ愉しまなければならない、ということなのです。

Tsuji Kunio

今日は一度4時頃起きたのですが、ダウン。5時半に起き上がりました。思ったより疲れているのでしょうか。昔のように早く起き上がれない日が続いています。

というわけで、通勤列車のなかでも本を読むのが難しい状態なのですが、それでも辻邦生氏「言葉の箱」を読んでいるところです。この本は非常にコンパクトで、講演の様子をおこしたものと言うこともあり、非常に読みやすいです。小説家を目指す人々に小説の作法のようなものを辻先生が語りかけるわけですが、それがまた実にわかりやすい。辻先生の小説論と言えば「小説への序章」が思い出されるのですが、哲学的とも言える議論が少々難解だったりしますが、この本ではそんなことはない。夏目漱石の有名な「F+f」の話や、大切なのは、詩、言葉、根本概念である、と喝破するあたりも見事。小説を書かない者にとっては、創作の舞台裏を垣間見る感じです。

文庫版がでたのはもう数年前のことになります。その前に単行本で刊行されたのですが、訳合って二冊も勝ってしまったのでした。文庫版はamazonではまだ入手できるようです。

Tsuji Kunio

昨日は会議だらけの一日でしたが、思ったより早く終わる会議もありまして、自分の仕事のはかどりも悪くはなく、助かりました。今日も夕方に大きい会議がありますね。会議に出るたびに、ああ、アレッサンドロ六世や、ジュリオ二世、レオーネ十世のような外交力があればなあ、と思っていた次第。

今週は週末が来るのが早いです。あと一日闘えば「軍人たち」が待っています。ところが、予習用に頼んだCDがまだ来ません。前にも書いたと思いますが、本来なら4月の上旬には手に入っているはず。ところが、発売日が4月30日に延期になり、やきもきしていたわけです。発売日を一週間過ぎた今になっても届かず……。困りましたね。

塩野七生さんの「神の代理人」を読了。最終章で紹介されたレオーネ十世は、ロレンツォ・イル・マニフィカートの息子です。ロレンツォと言えば、辻邦生先生の「春の戴冠」で活躍するあのロレンツォですよね、ということで、早速次の本を読みはじめました。

辻邦生さんのご夫人でいらっしゃる辻佐保子さんが書かれた「「たえず書く人」辻邦生と暮らして」が発売になりまして、早速と読み始めました。というより、全集の月報に連載されていたものが単行本化されたものですので、全集を買ってしまった私にしてみれば、月報を読めばいいじゃないか、という向きもあると思いますが、注釈が付記されていたりしているので、まんざら無意味というわけでもなく、単行本のほうが読みやすいということもあり、購入=コミットする、という意味合いもありますので、買って良かったと思っています。

辻先生の作品にまつわる思い出が書かれている訳ですが、創作の舞台裏を見るようでとても興味深いです。「背教者ユリアヌス」の冒頭部分に実に印象的なコンスタンティノープルの場面がありますよね。霧が徐々に晴れていって、霧の中から城砦が立ち現れてくるという場面だったと思うのですが、あの場面は、辻先生が乗っておられた飛行機が故障のため霧のイスタンブール空港に着陸したところから着想を得ている、というエピソードが印象的です。

昨日半分読み終わったところですので、今日は残り半分を読み終える予定。辻作品の舞台裏を垣間見ることが出来ますので、辻さんのファンにとってはたまらない一冊だと思います。全集をお持ちで月報を持っていらっしゃる方も記念にいかがでしょうか。

音楽で言えば、ブルックナーの9番をジュリーニの指揮で聴いていました。これについてはまた別の機会に書きたいと思います。

Tsuji Kunio

辻邦生師が著した「小説への序章」は、哲学書とは違う意味で歯ごたえがあり、初めて手に取ってから十年経ってもまだまだ楽しむ(苦しむ?)ことができます。小説を書くことを基礎づけるための粘り強い論理と、芸術家的、小説家的な直感による議論が交錯していて、容易に落ちることのない城のような堅牢さです。

ここでは、小説が普遍的な価値を持つためにはどうあるべきか、個人的所産である文学作品がどうしたら人間一般に受け入れられるのか、人々に対する力をもつことができるのかというという議論が展開されています。

個人的体験と、普遍的妥当性、客観的必然性の結節点を探る試みは、例えばルソーの内的展開などを例にとって、「苦悩」によって主観性を突き詰めたところにある意識一般、間主観性のようなものにあるものとしているのです。自省的になるのは決して客観からの逃避などではなく、むしろ主観を深化させたところで、はじめて普遍性や客観性をもちうるのだ、というアクロバティックな議論。ですが、それしか方法がない、という議論でもあり、超越論的とも言えるわけです。

辻邦生師は、若い頃から哲学に親しんでいて、この本においても哲学的な知識を総動員して展開していく議論も、決して容易に読み解けるものなのではないのですが、この本に向き合う度に新たな発見を得て、少しずつ理解が深まっていくのが楽しいわけです。

小説がどうしたら人々に対する力を持ちうるのか、という問いは、ひっくり返せば、どうすれば文学を享受する事ができるのか、という問いにもつながります。書き手の方法論だけではなく、読み手の方法論としての重要性も、この本の議論において見いだせると言えましょう。

 

Japanese Literature,Tsuji Kunio

Tsuji

辻邦生師の文庫版「サラマンカの手帖から」を読んでいます。おそらく手元にある新潮文庫版は絶版です。私も10年ほど前に状態のあまり良くないものを古書店で探し出したのですが、それがまたとても良い作品ばかり収められているのです。

  1. ある告別
  2. 旅の終り
  3. 献身
  4. 洪水の終り
  5. サラマンカの手帖から

この中で一番好きな作品は、もちろん「サラマンカの手帖から」でして、何度となく読み返して、新たな発見に驚くわけですが、今回は「ある告別」の方に取り組んでいます。この作品を以下の七つの部分に分解しながら考えてみました。

1 パリからブリンディジ港まで(51ページ)

エジプト人と出会いと死の領域についての考察

2 ギリシアの青い海(57ページ)

コルフ島のこと、若い女の子達との出会い、若さを見るときに感じる甘い苦痛、憧れ、羨望、生が滅びへと進んでいくもの

3 現代ギリシアと、パルテノン体験(63ページ)

4 デルフォイ、円形劇場での朗読、二人のギリシア人娘との出会い(66ページ)

ギリシアの美少女達の映像、生に憧れることが、流転や没落をとどめる力である。

5 デルフォイからミケーナイへ(72ページ)

光の被膜、アガメムノン、甘美な眠り

6 アテネへもどり、リュカベットスから早暁のパルテノンを望む(73ページ)

7 アクロポリスの日没(75ページ)

若者達が日没のアクロポリスに佇む。彼らもまた若さの役を終えていく。見事な充実を持って、そのときを過すこと。若さから決意を持って離れること。そのことで、若さを永遠の警鐘として造形できる。ギリシアこそが、人間の歴史の若さを表わしていて、ギリシアだけがこの<<若さ>>を完璧な形で刻みつけている。

考えたこと

辻邦生師のパルテノン体験は、三つの文学的啓示のうち第一の啓示であるわけですが、「ある告別」のテーマこそ、このパルテノン体験に基づくものです。パルテノン体験は、「パリの手記(パリ留学時代の日記を再構成した作品)」に始まり、評論、エッセイ、講演などで繰り返し語られていきますが、時代が下るに連れて熱を帯び、繰り返される毎に純化され抽象化して語られていきます。「ある告別」におけるパルテノン体験は、その原初的なものであると考えられます。

パルテノン体験は、芸術が世界を支えている、美が世界を支えている、という直観を喚起するものでしたが、「ある告別」におけるパルテノン体験は、ギリシアが人間の歴史の「若さ」を完璧な形で歴史に刻みつけたものであるのだ、と言う直観につながっていきます。そして、「若さ」を刻みつけ、そこから雄々しく離れていくことが直観され、以下の引用部分へとつながっていきます。

おそらく大切なことは、もっとも見事な充実をもって、その<<時>>を通り過ぎることだ。<<若さ>>から決定的に、しかも決意を持って、離れることだ。(中略)<<若さ>>から決定的にはなれることができた人だけが、はじめて<<若さ>>を永遠の形象として──すべての人々がそこに来り、そこをすぎてゆく<<若さ>>のイデアとして──造形することが出来るにちがいない。

<<ただ一回の生>>であることに目覚めた人だけが、<<生>>について何かを語る権利を持つ。<<生>>がたとえどのように悲惨なものであろうとも、いや、かえってそのゆえに、<<生>>を<<生>>にふさわしいものにすべく、彼らは、努めることができるにちがいない。

若さの形象(=あるいはそれは美の形象とも捉えることが出来ると思いますが)の永遠さを直覚し、コミットすることによって、一回性の<<生>>への眼差しを獲得し、悲惨なる<<生>>をも充実したものにするべく努められるようになる、ということなのでしょうす。

「若さ」が「美」と重なり、「美」があるからこそ「悲惨な生」を生き継ぐことが出来るのだと言うこと、すなわち、嵯峨野明月記的文脈における「世の背理」を哄笑するという境地が述べられているわけです。

「美」が何を指し示すのかを考えるのは面白くて、個人的には、「美」全般が含まれるように思うのですが、エッセイや講演録には「芸術が世を支えている」という具合に、「芸術」という言葉で限定されることが多いようです。そうしたことを考えていたときに、この「ある告別」においては、「美」が「若さ」と重ね合わされているという発見をしたわけで、実に面白いな、と感じています。

さらに言うなら、若さを失い、死へと進んでいく必然的な滅びの感覚こそが、たとえば「春の戴冠」でフィレンツェの未来がひたひた閉じていくような感覚で、それは辻邦生師がトーマス・マンから受けた影響なのだ、とも考えるのでした。

「ある告別」は講談社文芸文庫にも収められていますね。今ならこちらのほうが入手しやすそうです。辻邦生全集ですと第二巻に収められています。

Tsuji Kunio

春の風駆けて―パリの時
  • 発売元: 中央公論社
  • 発売日: 1986/02
  • 売上ランキング: 1013849

昨年読んだ「春の風 駆けて」のメモがはらりと出てきた。今回で最終回。

辻邦生さんが、小説を書いているときのこと。とにかく、小説を書くこと。それも、いつまでに何枚書く、と言うような功利主義的な書き方ではなく、毎日少しずつ時間を気にせずに書いていき、気づいたらできあがっている、と言うのが理想的なのである、という。

思ったこと。現代は、何でもスケジュール化、タスク化されていて、時間やノルマに追われて仕事をするのだけれど、そうじゃない視点もある。ともかく、作品(仕事でも、小説でも、プログラムでも、ウェブもそうだが)を完成させること。形にすることが第一義的に重要なのだ。才能がある、才能がない、というのは関係ない。ただ、継続して何かを作り続け、完成に導き続けること。これしかない。

Tsuji Kunio

辻邦生全集〈1〉
辻邦生全集〈1〉
  • 発売元: 新潮社
  • 価格: ¥ 7,350
  • 発売日: 2004/06

昨日に引き続き今年のまとめ。今回は、今年読んだ辻邦生師の本です。

  • 嵯峨野明月記
  • モンマルトル日記
  • 詩と永遠
  • 小説への序章
  • 江戸切絵図貼交屏風
  • 黄昏の古都物語
  • 言葉の箱
  • 小説への序章
  • サラマンカの手帖から
  • 春の戴冠(上)
  • 春の戴冠(下)
  • 美しい夏の行方
  • サラマンカの手帖から
  • 春の風 駆けて
  • 言葉の箱
  • 夏の光 満ちて
  • 雲の宴(上)
  • 雲の宴(下)
  • 夏の砦(再読中)
  • 樂興の時(再読中)

初めて読んだ本は「黄昏の古都物語」、「春の風駆けて」「夏の光満ちて」の三冊で、それ以外は全て再読ですが、読む度に新しい発見があって刺激的です。辻邦生さんの文学の大きなテーマに、イデアールとリアルの狭間をいかに埋めるか、というものがあると思うのですが、もちろん答えが出る問題ではなく、考え続けることが重要なわけで、そうした契機や示唆を特に数多く受けた一年間だったと思います。

特に、今年はフィレンツェに旅行に行けたと言うこともあり、「春の戴冠」が最も印象的でした。サンドロ・ボッティチェッリの美を求める飽くなき追求と、ロレンツォ・ディ・メディチの理想と現実の狭間に立つ苦悩に満ちた生涯は、フィクションとノンフィクションの溶け合った歴史小説の中の物語の構成要素と言うだけではなく、アクチュアルな意味を持って立上がってきているのだと思います。

辻邦生さんが亡くなったのは1999年7月29日ですので、亡くなられてもう9年も経つのですね。その間に社会は様々な変化を遂げてきました。9.11以降においては、世界はガラリとその様相を加え、温暖化の影響と思われる天変地異もますます増えてきて、日本の社会も厳しさを増しています。

ただ、いつの時代、どんな時代にあっても、この先、事態を解決するのだ、という強い意志をもって生きる必要があるのは同じです。「春の戴冠」のロレンツォ・ディ・メディチを見習わなければなりません。そう言うことも辻邦生師の文学の中でのテーマの一つであると思います。それを辻邦生師は「戦闘的オプティミズム」と言っておられたと思います。

来年もまた難しい年になりそうですが、「戦闘的オプティミズム」を実践しながら、いろいろ取り組んでいきたいと思っています。

以下のリンク先に、今年読んだ本をまとめておきました。機会があれば是非どうぞ。
辻邦生師の文学

Tsuji Kunio

雲の宴〈上〉
  • 発売元: 朝日新聞社
  • レーベル: 朝日新聞社
  • スタジオ: 朝日新聞社
  • メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 1990/01
  • 売上ランキング: 565691
雲の宴〈下〉
  • 発売元: 朝日新聞社
  • レーベル: 朝日新聞社
  • スタジオ: 朝日新聞社
  • メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 1990/02
  • 売上ランキング: 671447

かねがね、バルザック、ディケンズ、ドストエフスキーといった小説全盛時代の、作家と読者の熱い関係を、このジャンルの本来的な在り方ではなかろうか、と考えていた。この時期、小説は知的に読まれるものではなく、一喜一憂しながら、主人公と運命を共にしてゆくものだった。小説がこうした本来の一喜一憂性を失ったために、それはいつか認識の道具になり、また文体意識の自閉的存在となっていった。

「『雲の宴』を書き終えて」『永遠の書架にたちて』、新潮社、1990年、195ページ

昨週末に「雲の宴」を読了しました。久々に「おもしろい」冒険小説を読んだな、ということもありますし、より根源的な「生きること」を考える契機にもなりました。

すべて心なのよね、この世の幸不幸を決めるのは。物がいくらあったって、心が不満なら、ぜったいに人間て幸福にならないもの

『雲の宴(上)』、朝日文庫、1990年、177ページ

いくら、CD持っていても、本を抱え込んでいても、なけなしの預金があっても、心が不満じゃあ、幸福にはなれないなあ、と。今の境遇を強制的に満足なものである、と認識を変えていくか、あるいは、今の境遇を捨て去って、思うがままに生きていくか、どちらかしかないなあ、と思うのでした。おそらくは前者の道を取ることになるのでしょうけれど。全ての事象は人間の認識であるが故に、認識を変えれば、境遇も変わるという感じでしょうか。

それにしても、この小説は、辻文学の中にあっては異質な光を放っていると思います。そのあたりのことも「永遠の書架にたちて」に所収されている「『雲の宴』を書き終えて」のなかにヒントが書いてありました。辻邦生さんは、いつもは事前にあらすじが決まっていて、そこに向かって書いていくから、だいたいは事前の意図通りに仕上がることが多いのだそうですが、「雲の宴」に関して言えば、そうではなく、登場人物が勝手に動いていったのだそうです。最初は意図通りに戻そうとしたのですが、途中であきらめて、なすがままに書いていったのだそうです(「『雲の宴』を書き終えて」『永遠の書架にたちて』、新潮社、1990年、194ページ)。そう言うことを、高橋克彦さんのエッセイでも読んだことがあります。高橋克彦さんは、まず登場人物の身上書を書き上げるのだそうです。そうすると自然に登場人物が行動をはじめるのだとか。そういう憑依的な小説の書かれ方というのも、部外者から見ればとても不思議に見えますが、そうそうあり得ないことでもなさそうです。

確かに、他の辻文学のような堅牢強固な石造りの建造物のような堅さはありませんが、奔放に動き回る登場人物と一緒にパリからルーマニアへいたり、地中海を縦断して西アフリカへと向かう喜びを味わうことができるのです。

Tsuji Kunio

雲の宴〈上〉
  • 発売元: 朝日新聞社
  • レーベル: 朝日新聞社
  • スタジオ: 朝日新聞社
  • メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 1990/01
  • 売上ランキング: 565691

辻邦生師「雲の宴」は下巻に突入しています。この本は、ミッテラン当選の夜のパリの狂騒から話が始まりますが、辻先生がインスピレーションを受けられたのは、その夜にマリ共和国の黒人の男を見かけたことが契機になっているのだそうです。アフリカの描写がすばらしく、実際に取材にいらっしゃったのかと思い、全集についている年譜を見てみたのですが、どうやら西アフリカへの取材旅行は行っていらっしゃらないのです。そうか、あのアフリカの描写は全て現地での印象ではなく、想像力と調査のたまものなのか、と驚いてしまいます。歴史小説のように自分では行けない場所について書くことの難しさは相当なものではないかと思うのです。

下巻も中盤にさしかかると、物語も俄然緊迫してきます。この本でもやはり性急な改革は失敗するのだ、という鉛のような諦観が感じられ、そうは言っても世の中は「背理」なのであって、それを笑い飛ばさねばならぬ、という「嵯峨野明月記」の主題に戻っていくのでした。ちなみに、この「背理である世の中を笑い飛ばす」というのは、シラーが着想になっている(「人間の背理を笑う高みに立つ」『辻邦生全集第20巻』新潮社、2006年)のだ、ということを全集第20巻の年譜を読んでいて気づきました