Opera,Richard Strauss

先だって購入した、シュトラウス「インテルメッツォ」DVD、前半部分を観ました。先だってNHKホールで上品で高貴な伯爵夫人マドレーヌを演じたロットが、「インテルメッツォ」でどんなパウリーネ、いやいや、クリスティーネを演じてくださるのか、どきどきしていましたが、いやあ、ロット、コケティッシュな風を演じていますが、上品さは失わないませんね。

それにしてもこのパフォーマンスを再生したとたんに、また感動しました。シュトラウスの音楽のすばらしさによるのはもちろんのこと。このオペラはたしか2004年の夏に新国中劇場で観たのですよ。釜洞さんのソプラノ、多田羅さんのバリトン、そして指揮は若杉さん。あのときの「インテルメッツォ」の楽しさを思い出して、なおいっそうのロットのクオリティの高さに驚き感動したわけです。冒頭の朝の場面でロベルトとクリスティーネがちょっとした諍いをする場面にでさえ、なぜか涙ぐみそうになるという状態でした。

このオペラは、サヴァリッシュ盤があって、そこではルチア・ポップとディースカウが歌うというすばらしいキャスティングが聞けるのですが、それに負けず劣らずのすばらしさ。

それからもう一つ驚きが。このDVDのパフォーマンスはグラインドボーンの映像(おそらく1983年)なのですが、歌詞が英語なのですよ。私は数分間気づきませんでした。それほど、英語の訳詞が音楽にマッチしていた驚き。英語だと気づいたのは、サブタイトルを表示させたからわかったという有様でした。ですが、どうしてこんなに音楽とマッチするのか。やはり英語の祖先はドイツ語ですからね。おそらくは単語の発音の長さなどが似ているのではないか、などと思いました。

「インテルメッツォ」の音源で簡単に入手できるのがサヴァリッシュ盤だけだっただけに、このフェリシティ・ロットのDVD(指揮はグスタフ・キューンです)は貴重です。

Opera,Richard Strauss

今日から久方ぶりに仕事。三連休もあるとなまってしまいますが、がんばります。

今日は朝から、「カプリッチョ」終幕の場面ばかり聞いています。とりあえず通勤中はシュヴァルツコップ、昼休みはキリ・テ・カナワ。

実は、今までカナワのよさが巧く理解できていないところがあったのです。マノン・レスコーをドミンゴと歌ったDVDとか、ティーレマンが振った「アラベラ」でおなじみのはずなのですが。ところが、このウルフ・シルマーが振った「カプリッチョ」のカナワはとても良いです。柔らかく包容力があって、豊かな倍音を含んだ慈愛に満ちた声でしょう。それから、"Bruder" を「ブルーデル」、"Oper"を、「オーペル」と発音されたり、"Der"を「デル」と発音される感じが、ちょっと面白い。ヤノヴィッツはそれぞれ、「ブルーダー」、「オーパー」、「デア」と発音しているように聞こえます。ヤノヴィッツの発音のほうが学校で習った発音に近いです。

ウルフ・シルマーは、思い出深い指揮者です。これまで新国に何度も登場していらっしゃいますが、一番すばらしかったのはエレクトラでした。あれはもう欧州級のパフォーマンスだと確信できた演奏でした。それから、2001年のブレゲンツ音楽祭で「ボーエム」を振っておられるはず。あのときの映像、VTRに撮ったのですが、演出も刺激的で若手歌手もみなすばらしく、感動したのを覚えています。

それから、これも何度も書いたかもしれませんが、また書いちゃいますと、私が生まれて二回目に観たオペラは「影のない女」でして、見た場所はなんとバスティーユです。そして指揮はウルフ・シルマー。今から思えば贅沢極まりない光り輝く演奏だったはず。ですが、仕事疲れに時差ぼけが重なり、昼間の間お土産探しに走り回った所為で、陥落してしまいました。意識を失う三幕の間。。。なんてもったいない。穴があったら入りたい。まあ、当時は「影のない女」なんていう難しいオペラを理解できていたとは全くいえませんでしたし。なにより、幕が下りてから、バスティーユから、夜中のバスティーユ広場をつっきって安宿屋へ無事に帰れるか、ということのほうが心配で心配で仕方がありませんでした。

話がそれました。ともかく、ウルフ・シルマーの隙のないスタイリッシュで雄弁な音楽は大好きですので、このCDもたちまち気にいってしまいました。まず最初にチェックするのは月光の音楽なのですが、結構ゆったりとしたテンポでホルンを歌わせています。感動。溶けてしまいたい。

シルマーは、来春「パルジファル」を振りますが、いまからとても楽しみです。

それにしても月光の音楽て、なぜあんなに美しいのでしょうか。僕はそのひとつの理由は頻繁な転調にあると思います。短三度ごとにフレーズが転調しながら高揚へと向かう部分。あそこはこの曲の白眉だと思います。以前のように譜面を書いて考えてみたり、MIDIファイルをおけるといいのですが。

Opera,Richard Strauss

行って参りました、二期会の「カプリッチョ」。

結論。泣けます。泣けました。演出の読み替えには白旗をあげましょう。やられましたよ。

日生劇場に行ったのは恥ずかしながら初めてでした。本当は「ルル」や「エジプトのヘレナ」など、行くべき公演はあったのですが、いけずじまいでしたので。60年代の日本がまだまだ成長するという進歩史観が有効だった時代で、建築も実にやる気に満ちあふれています。劇場内部は様々な曲線が織りなす不思議な空間で、俄然雰囲気を盛り上げてくれます。

「カプリッチョ」の実演は二回目でして、一回目はなんとドレスデンのゼンパーオーパーにてペーター・シュナイダーの指揮でみるという幸運。何度も書いたと思います。しかし、あのときはその凄さを十全に理解しているとはいえませんでした。繰り返しになりますが、「カプリッチョ」はいまや僕の宝物のような作品ですので、楽しみでならなかったのです。

今回の公演、演出の読み替えがすごかったのです。もういろいろなブログでも取り上げられていると思います。時代設定は作品が実際に作られた1942年当時でして、舞台は不明ですが、おそらくはドイツ占領地域でしょう。

冒頭の六重奏では、ダビデの星を胸につけたフラマンとオリヴィエが登場します。この二人がユダヤ人であるという強烈な読み替え。ダイニングホールとおぼしき部屋は椅子やテーブルが倒れ、シャンデリアが床に転がっています。二人はそこでソネットの楽譜を見つけ、女性の肖像画、おそらくは伯爵夫人マドレーヌの肖像だと思います。すると窓の外から自動車のヘッドライトが差し込んでくる。入ってきたのはナチスの兵士たち。おそらくは親衛隊でしょう。フラマンとオリヴィエは逃げていきます。親衛隊は、テーブルを起こし、シャンデリアを天井に上げ、椅子を片づけます。ここで時間が遡行したのに気づくわけですね。

整えられた部屋では、フラマンとオリヴィエがチェスを打ち、演出家のラ・ローシュはソファで眠りこけている。ここからは、特別な読み替えはなく舞台は進んでいきます。演出面で面白いのは、幼い女の子のバレリーナたちが現れるところ。彼女たち、切り分けられたチョコレートケーキを本当に食べていたのは微笑ましかったです。

後半の最後が圧巻でして、みんなでオペラの題材を決めて、じゃあ帰ろうか、みたいな雰囲気になったところで、さっきまで執事だった男や召使いたちが親衛隊に成り代わって登場する。さっきまで床をはいたり窓を磨いたりしていた年老いた老人が黄色いダビデの星をつけたコートを着せられて連行されようとしている。ラ・ローシュは親衛隊に渡された黒い革コートを来ていて、鈎十字の腕章をつけている。ラ・ローシュは、まさに親衛隊かゲシュタポの一味だったという読み替え。

親衛隊達は、フラマンとオリヴィエにも、ダビデの星のついたコートを着せる。互いに、詩の方がすごい、とか、音楽の方がすごいとか言うシーン、普通の演出だと、予定調和的な平和なところなのに、ここではあまりに切迫している。伯爵夫人は、フラマンとオリヴィエにかけよろうとするのだが、伯爵がそれを止める。泣きながら階段を昇って行く伯爵と伯爵夫人の兄妹。ラ・ローシュは、それでも、フラマンとオリヴィエを逃がしてやるのだが、その後は……、おそらくは冒頭のシーンに戻り、そのうちにナチスに捉えられ死に至るはず。

 それからがすごいですよ。月光の音楽で、舞台には群青色の光が差し込む。昼間部に登場するバレリーナが再登場。ドイツ軍兵士(男性バレエダンサー、もしかしたらドイツ軍兵士ではなくワルシャワ条約機構軍の兵士かもしれない)に銃を突きつけられるのだが、そのうち一緒に踊り出す。すると、テラスに杖をつく老婆が。これが、年老いた伯爵夫人マドレーヌなのでした。つまり、あれからもう何十年も経った戦後に舞台は移っている。

伯爵夫人は床に落ちていたフラマンとオリヴィエのソネットを取り上げるんだけれど、埃が積もっているので、手で払い息で吹き飛ばしたりする。このトランスクリプションがすばらしい。執事の歌は舞台裏で歌われている。これはあたかも伯爵夫人マドレーヌの幻聴である。伯爵夫人がフラマンか、オリヴィエか、と迷い歌うのだが、このトランスクリプションの中にあっては、悔恨の思いで歌っているとしか思えない。あのとき、なぜ決断しなかったのか、なぜ救えなかったのか、という思い。なぜか、歌詞を読むとそういう心情にフィットしていて、驚きました。

これはですね、もう20代の若者にはわからないだろうなあ、と思います。「ばらの騎士」の最終部で、マルシャリンが時のはかなさを歌うけれど、それよりももっと残酷で過酷で厳然とした時間の非遡行性への嘆息。これは30代過ぎないとわからない。歳をとればとるほど切実なはずで、だからこそ、年配の観客が比較的多かった場内で涙の音が聞こえたといえましょうか。私も涙が出ましたですよ。年をとればとるほど涙腺ゆるみます。涙を流すというカタルシスはある意味心地よくもありますので。

一緒に行ったカミさんは厳しくて、そんなに評価してくれなかったけれど、僕の心にはかなり響きました。

ただ、最後に舞台装置を壊してしまったのは残念。伯爵夫人マドレーヌのシルエットを強調したいために、セットを取り払ったのだけれど、なんだかちぐはぐに思えてしまいました。演出面で言うとそこだけです。

指揮とオケもすばらしかったですよ。指揮は沼尻竜典さんで、演奏は東京シティフィルハーモニック管弦楽団。ちょっとした疵はいくつかありましたが、うねるような波がいくつも押し寄せるような演奏で、弦楽器の音も豊かで暖かく、演奏だけでも涙したシーンがありましたし。特に第七場最終部の間奏曲的部分はすばらしかった。月光の音楽ももちろん、です。ただ、月光の音楽のところ、演出に気をとられ驚いていたもので、少々上の空だったかもしれません。

すばらしかったのは、ラ・ローシュを歌われた山下浩司さんでして、声は鋭く張りがある感じで、ピッチも終始安定しておられまして大変安心して聴くことができました。あのラ・ローシュの大演説の部分もすばらしかった。歌だけではなく演技もそれらしくて、大変良かったです。この方、新国の「ムツェンスク郡のマクベス夫人」にも出ておられたのですね。

ともかく、またカプリッチョの実演に居合わせることができたのは大変幸福でした。これも一生の思い出になるのでしょうね。

次は、12月の新国メニューの「トスカ」です。トスカは久しく聴いていないですね。ま

Opera,Richard Strauss

ハイティンクの「ばらの騎士」。タワレコで4000円強で売っていて、買おうかどうか迷った末に、あきらめて帰宅。アマゾンを覗いたら、なんと2000円弱で売っている!(マーケットプレイスですが)即購入しました。なんとアルゼンチンからの国際郵便で送られてきました。あけてみると新品でした!

マルシャリンはキリテ・カナワ、オクタヴィアンはアンネ・ゾフィー・オッター、ゾフィーはバーバラ・ヘンドリクス、オックスはクルト・リドル。オケはSKD(シュターツカペレ・ドレスデン)で、ルカ教会での録音ですよ! これはもう期待するしか。

第一幕を再生した途端に驚愕しました。ホルンがすごい。それから、SKDの弦楽器の音がまた良いですねえ。ルカ教会の残響と巧く融合した、少しざらつきのある高音域の倍音が豊かで、きっとこれは来世の音です。夢心地です。

クルト・リドルのオックスは、2007年のザクセン州立歌劇場引っ越し公演の「ばらの騎士」で聴いて、今年の新国「ヴァルキューレ」のフンディングのすばらしい歌を聴いたのですが、やっぱりこの音源でも確固とした存在感を示しています。クルト・モルのオックスも大好きですが、クルト・リドルのオックスもいいなあ。キリ・テ・カナワは、ティーレマンのDVD「アラベラ」で聴いたり、シルマーの「カプリッチョ」でもお目にかかっていますが、最近つとに気に入ってきています。柔らかさにうっとりします。

さしあたり、冒頭部、ばらの献呈の場面、最後の三重唱をきいてみましたが、ハイティンクってすごいのですね。テンポは割りと抑え気味で、じっくりと歌わせているわけですが、それがこの輝き煌くSKD+ルカ教会ですので、浄福の境地でございます。第二幕のオックスのワルツも、入りのテンポが遅くて、それが徐々にスピードを増していくなだらかな稜線が見え始めるという具合で、実に面白いのです。ハイティンクのセンスのすばらしさ、というところでしょうか。 とはいえ、若干ピッチに不安を覚える場面もあるのですが、それは目を瞑ることが出来ます。全体にすばらしいので。

今日は1幕から聴き始めています。またお気に入りの「ばらの騎士」が増えました。

 

Concert,Richard Strauss

昨日は少々酔っ払いながら書いたので、なんだか変な文章になりました。どうも最近こっそり夜に飲む癖がついてしまいました。最後のほうの記憶はほとんどなく。私、最近飲むと記憶が飛ぶことが多いのですよ。。飲んじゃダメ、ということなんでしょう。この癖、直さないといけないのですが、まあ色々ありますので。

さて、昨日の続き。今日はプレヴィンの家庭交響曲についてです。テンポを過剰に動かすことなく、またひとつのテンポに安住することもなく。お年を召されると、テンポが緩くなったりするものだと思うのですが、そういう意味では実にアグレッシブな演奏といえると思いました。Twitterにも書きましたが、老成という言葉は当たらないと書きました。なんだか充実した壮年の覇気のようなものを感じました。

しかし、家庭交響曲は、聴くだけではなく、見ることによっても理解が深まりました。ヴァイオリンはおそらくはパウリーネで、チェロがおそらくはシュトラウス自身を示しているわけですが、そのあたりの掛け合いの様子を視覚的にみることが出来て、曲の理解が深まった気がします。この対応関係は「英雄の生涯」と同じでしょう。それから、息子フランツが登場してシッチャカメッチャカにするあたりの描写も実に楽しいです。

それから、第三部の夫婦愛的なところの高揚感はすばらしいです。これぞオーケストラ音楽の醍醐味というところ。迫力、重厚、壮大。夫婦愛の高尚さ、神秘性、神聖性。ここまで高らかに歌い上げられると、圧倒されるばかり。相当感動的な高揚感で、聴いているときは、これはあまりに幸福で贅沢な瞬間だ、と感謝の気持ちで一杯。幸せというのはこういうものを指すんだろうなあ。

終幕部、ティンパニが音階を駆け上がる例の場面近辺も凄い迫力で、私は舌を巻きました。wikiによると、あの音階はウィーンフィルのティンパニ奏者が提案して、シュトラウスの追認があったらしい。ひらめいたんでしょうねえ。ウィーンフィルの奏者ともなれば耳も良ければひらめきもずば抜けているんだなあ。あの場面は、聴いているほうもアドレナリン全開で興奮渦に巻き込まれてしまいます。

そうそう、そういえば、日曜日の演奏にサクソフォーン奏者がいましたでしょうか? どうにも見あたらなかったような。あとでスコア見て確認してみます。

曲が終わると圧倒的な拍手で、プレヴィン氏はやはり足が思うように動かないらしく、楽団員の助けをもらいながら、指揮台を降りて客席に顔を向けてくる。好々爺だなあ。背中もまがって小さくなってしまったイメージ。でもね、ミケランジェロが、大理石から彫刻を救い出したように、オケという無限の可能性の中からこの小柄なご老人が、あの圧倒的な演奏を引き出していると言う事実。

プレヴィン氏の録音盤を聴いていますが、感動はN響のほうが数段上。演奏的にも私は今回の演奏の方が重みがあって好きです。

ともかく、今回も本当に恵まれました。ありがとうございました。

次回は、11月1日に新国で魔笛を見る予定。っつか、11月はオペラ目白押しだなあ。魔笛@新国、ヴォツェック@新国、カプリッチョ@二期会。やばい、また予習しなくちゃ。ヴォツェックのオペラトークにも行きますよ。

 

 

Concert,Richard Strauss

昨日は満を持してNHKホールへ向かいました。N響定期公演、アンドレ・プレヴィン指揮で、ヴォルフガング・リームとリヒャルト・シュトラウスの作品を。すばらしいひとときで、私は我を忘れ続けました。

まずは、ヴォルフガング・リームの「厳粛な歌」。ベルクの「ヴォツェック」や「ルル」を思い出した私は単純でしょうか。ティンパニの打点がどうにも似ていまして。NHKホールの微妙なリヴァーヴ感とあいまってです。今から思えば、アバドの「ルル組曲」を感じていたみたい。ともあれ、奏者の配置も面白くて、弦楽器が右前方、木管楽器群が左前方に向かい合って並んでいました。意外と旋律的でしたが、プロの方はあのテンポ取りでどうやったらあんなにきちんと演奏できるのでしょうか。。私も昔似たようなことをやった記憶がありましたが、相当辛かったですので。 それにしても、イングリッシュホルンのあの方、本当にいい音だすなあ。

さて、二曲目はシュトラウスのオペラ「カプリッチョ」終幕の場面。私は、この曲の演奏をお目当てにチケットをとりました。しかも伯爵夫人マドレーヌは、フェリシティ・ロットとくればなおさら。

月光の音楽が始まりますと、とろけるような甘いホルンのソロから。多少瑕はあったかもしれないのですが、私はもうここでこみ上げてくるものを押さえられなかったです。涙が溢れ、嗚咽に似たものが上へ下へと行きかうのに必至にこらえる感じ。隣に座っていたカミさんに気づかれたのでしょうか? 

ロットの歌いだし、オケがずいぶんとなっていましたので、バランス的に少し声が小さく感じましたが、その後お互いに調整してかなりいいバランスになりました。そして、あのソネットの部分!

Kein andres, das mir so im herzen loht,
Nein schoene, nichs auf diser ganzen Erde,
Kein andres, das ich so wie dich begehrte,
Und Kaem’ von Venus mir ein Angebot.

わが心を 燃え立たせるものなど麗しき人よ
この世にまたとあろうかそなたほど 
恋い焦がれるものは他になしたとえ 
美の神ヴィーナスがきたるとも……

もう何百回(言いすぎですか? でも100回は聴いたと思います)と聴いたカプリッチョ終幕の部分。ヤノヴィッツ、フレミング、シュヴァルツコップ、キリ・テ・カナワ、シントウ……。今日もやっぱり完全に陥落してしまい、涙が頬を伝っていって止まらない。私はこの一瞬のためにも、日々仕事をしている、といっても過言ではありません。

フェリシティ・ロットの歌は、恋焦がれる伯爵夫人というより、慈愛を注ぐ母性的存在であるかのように感じました。これは、もちろん、私がクライバーの「ばらの騎士」でフェリシティ・ロットがマルシャリンを歌い、オクタヴィアンへとゾフィーに注ぐ慈しみの歌を知っているからでしょうか。あるいはロットの今の心情を反映しているのでしょうか。

実は、私はこの曲を2006年の秋にドレスデンのゼンパー・オーパーでペーター・シュナイダーの指揮で聴くという今から思えば信じられないような幸運に恵まれました。ですが、あの時、私はここまでカプリッチョを理解できていたのか? 答えはNeinです。 あの時はサヴァリッシュ盤で予習をするだけでして、しかもモノラル音源でした。そして、旅行の寸前にクラシックロイヤルシートで放送された「カプリッチョ」。ウルフ・シルマー指揮で、伯爵夫人はルネ・フレミングで、クレロンがアンネ・ゾフィー・フォン・オッターという大僥倖。日本語訳が手に入らなかったので、このオペラを観ながら字幕を全部テキストに起こしました。それを持ってドレスデンに乗り込んだのでした。

あの時、やはり月光の音楽で静謐な美しさに心を打たれましたが、ここまでではなかった。でも、シュナイダーの指揮のうねりとか、演出の美しさ、つまり、白を基調とした舞台の背景が群青色に染め上げられて月光が淡く照らし出す光のイメージが生み出すあまりにあまりに濃縮された美意識、そういったものが複雑に織り込まれていき、このオペラの最終部への理解が深まった気がしています。まあ、ここでいう理解とは何か、という問題はあるのですが。

昨日の演奏のプレヴィンの指揮もすばらしかったです。テンポは少し抑え目に感じましたが、徐々に迫る高揚感への円弧のラインがすばらしかったはずです。「はず」とは何事か、といいますと、正直申し上げて、私はある意味我を忘れておりましたので、反省的な聴き方をあまり出来なかったようだからです。 たしか、月光の音楽はプレヴィンも録音しているはず。いまその演奏を聴いているのですが、これもすばらしい。うねりと高揚感。 ちなみに、隣に座っておられた方は、眠っておられた様子。入り口に待機している係員の女性もやっぱり眠っておられたようです。ある種、それは宝の山を前にしてその価値をわからないという状態。でも、あの方々を責めることはできません。それは、ある種私のかつての姿と同じだからです。

徐々に終幕へと導かれていく音楽。答えのでない問題。それがあるから人生である。フラマンもオリヴィエもきっと伯爵夫人マドレーヌにふられる気がするのは私だけでしょうか。

曲が終わると万雷の拍手で、何度も何度もロットとプレヴィンが舞台に呼び出される。さすがに80歳のプレヴィンは歩くのも少々つらそうですが、あそこまで大きな作品を形作ることができるなんて。

そして、休憩を挟んで次は家庭交響曲。こちらは明日書くことにいたします。

Richard Strauss

Twitterにも書きましたが、これから渋谷へ。プレヴィンをききます。オペラではありませんが、双眼鏡も配備。シュトラウス漬けの時間になる予定です。
ちなみに、このエントリは携帯から投稿しています。BGMはもちろんプレヴィンの家庭交響曲。この2週間は家庭交響曲ばかり聴いていまして、忙しいながらも癒されていました。これだけ聴けばスコアを読めなくても曲を 覚えますね。
しかし、シュトラウスの「誇大妄想」的に創作センスはすごいです。日常生活を芸術に昇華させる驚異的牽引力。オペラ「インテルメッツォ」や交響詩「英雄の生涯」などもそうですが。
しかし、もうちょっとシュトラウスを勉強しないとなあ。頑張らないと。
それではまたのちほど。

Philharmony,Richard Strauss

やることが多くて、逆にわくわくする感じ。そういう感じで、なんとかくらいついていかないといけないですね。山登りと一緒です。辛くても登り続ければいつかは頂上にたどり着きますので。途中に山小屋もあれば渓流や滝もありましょう。頂上からの景色はきっとすばらしいはず。

さて、カラヤン盤「家庭交響曲」を聴きました。EMIの録音で、少々録音が古く思えます。1973年録音なのですけれど。やっぱりカラヤンらしい流麗さとか、ポルタメントとか楽しめました。最終部の圧倒的な盛り上がりへの牽引力はすばらしいです。テンポを少し緩めながらも、制御を失わずに、飛び続ける大型旅客機的な感じ。カラヤンもパイロットでしたので(あまり巧くなかったようですが)、そうした感覚があるのかも知れません。

そしてカラヤン盤を聴くとなにか安心感を感じるのです。私が最初にクラシックを聞き始めたのは、カラヤンづくしでしたので、カラヤンを聞くと安心しきってしまうのかもしれません。あるいは、カラヤンほどの大家であれば、その後の演奏に大きな影響を及ぼしているでしょうし。

ただ、マゼール盤の個性的な演奏を聴いた直後ですと、なにかオーソドックスな演奏だと感じてしまうのは、贅沢でしょうか。

これで、家庭交響曲は、ケンペ盤、プレヴィン盤、マゼール盤、カラヤン盤で予習しました。今週末の日曜日はNHKホールでプレヴィン指揮のN響で家庭交響曲を聴きます。もう少し予習をしたいですし、ここに書かなければならないこともありますので、土曜日にがんばろうと思います。

Philharmony,Richard Strauss

昨夜は、大学時代からの先輩を自宅にお招きして食事会でした。 いろいろご苦労されながらも教壇に立っておられる学者でいらして、私なんて大学時代からお世話になりっぱなしです。まあ、私も頑張らないと、と思います。

さて、今日もマゼールのシュトラウスを聴くシリーズの第三回目です。今日は「ツァラトゥストラはかく語りき」。この曲、私が最初に心弾かれた曲らしい。私の記憶にはありませんが、2歳だが3歳の頃、この曲をかけてくれ、と両親にねだっていたそうです。誰の指揮だったんでしょうね。古いLPはもう残っていないでしょうから、探すこともあたわないでしょうけれど。

マゼールの指揮は、やっぱり堂堂としたものです。テンポはそうそう早くはない。もちろんギアは動かしますけれど。やっぱりうねる官能性のようなものが垣間見えますし、わき上がる高揚感も。本当に分厚くて大きい。カラヤンの流麗な感じに比べると、本当に巨躯をのっしりと動かしながら歩いている感じ。真面目一徹とも思えます。良い意味で不器用な感じ。つまり自分の意志を隅々まで浸透させようとしている。そう言う意味では、すこし癖のある演奏とも言えましょうか。八方美人的演奏じゃない、ということです。

この曲、シュトラウスが32歳の時の曲なのですが、10年後に作曲しているサロメやエレクトラが随所に聞こえてきます。シュトラウスの生真面目な方面ですね。それからばらの騎士に見られる戯けたシニカルな面も聴いてとれますし、なんだかニーチェを揶揄するようにも思える部分も。ともかく、シュトラウスは本当にすてきです。

ちなみに、このCDには「ばらの騎士」組曲も入っていますが、洒脱な感じと言うよりは堂堂とした、という感じの演奏ですよ。こういう「ばらの騎士」もありですね。

Richard Strauss,Symphony

いやはや、ご無沙汰しております。色々ありまして、Twitterしか書けなかったのですが、なんだかやはり何か書いていないと落ち着かないようです。

今週はYellowjacketsばかり。今日になってようやく、マゼールのシュトラウスに戻ってきました。

アルプス交響曲は、マゼールのボックスセットに入っていたものです。マゼールって、こんなに大きな演奏をするのですね。 確かに単純に言えばテンポが緩いということもいえましょうが、緩いだけではなく、やっぱりきちんと制御された緩行性なわけでして、ちゃんとギアは入れ替えてます。カラヤン盤でもハイティンク盤よりも、聞いていく中で大きさに意識が向きます。テヌート感とかフェルマータ感が良く伝わってきますです。

それから、なんというか官能性のようなものも感じますね。弦楽器のうねりに加えられたしなだれかかるような感じ。ばらの騎士的とも思えますが、なぜかマーラーに感じられる女性的なものへの憧憬にも似た感情を感じます。

しかし登り道(トラック3)のところの舞台裏金管群はすごいです。舞台裏の金管の味をはじめて知ったのはマーラーの復活でした。あとはトリスタンの二幕にもありますね。私はこの三つがつながっているような気がしてならないです。 マゼールのボックスセット、少々お高めでしたが、買ってよかったです。マゼールのことも見直すことが出来ましたし。