Opera,Richard Strauss

Photo

こちらを引き続き。さすがに手強い。だが美しい音楽。本当に終わることのない甘美な音楽の連続ですが、全体をつかむにはまだまだ時間がかかりそうです。感想を書くのはもう少し先かも。

《ダナエの愛》ですが、初演は1952年とされていて、シュトラウス存命中の公演はかなわなかったようですが、実際には、1944年にゲネプロだけは行われていたのですね。ハンス・ホッターがユピテルを歌い、指揮はクレメンス・クラウスだったようです。

https://en.wikipedia.org/wiki/Die_Liebe_der_Danae

ザルツブルク音楽祭での公演の予定だったようですが、ヒトラー暗殺未遂、戦局の悪化やシュトラウスがナチスに不興を買っていたなどが原因のようです。

ヒトラー暗殺計画は、7000人が逮捕、200人処刑、ロンメル元帥に自殺を強いる、という過酷な結果に終わったようです。

そんな時代に《ダナエの愛》が演奏されようとしていたとは。なんとも皮肉というかなんというか。もちろんオペラなので政治的な意味も隠されているはずですが。

こちらにいくらか当時の事情が書かれていました。ただそれが真実かどうかは知る良しもありません。

大作曲家 R.シュトラウス

Photo

それでは、おやすみなさい。グーテナハトです。

Opera

オペラの学校
オペラの学校

posted with amazlet at 15.09.26
ミヒャエル・ハンペ
水曜社
売り上げランキング: 91,217

昨日から紹介している「オペラの学校」ですが、面白いエピソードが紹介されていました。ヨーゼフ二世がモーツァルトに《後宮からの誘拐》の感想として「音が多すぎる」と指摘したのだそうです。これは、ヨーゼフ二世が音楽に無知だったということを評判をもたらしたものだったそうです。

ですが、実際には、ヨーゼフ二世は慧眼だったようです。それまでのオペラにおいては、歌手が歌唱と演技における大きな裁量よってオペラを牽引していて、オーケストラは単なる伴奏のようなものだったのです。

ですがモーツァルトはオーケストラが表現する要素を増やしたのでした。オペラ歌手の自由度は減ったということになります。

が故に、ヨーゼフ二世はそうしたことを指摘するという意味で「音が多すぎる」と評価したということです。

その後、オペラにおいて音楽性がどんどん優位になっていくわけで、その最たるものが、ワーグナーのライトモティーフであった、というストーリということです。

シュトラウスの《カプリッチョ》において、音楽と台本の優位性についての議論が、作曲家と詩人と伯爵夫人をめぐる三角関係で議論されていました。

2009年の二期会《カプリッチョ》のパンフレットで、評論家の広瀬大介さんが、どうみても作曲家のほうに分があるという私的をしていたのを思い出しました。

たしかに、作曲家フラマンは、伯爵夫人マドレーヌと翌日11時に図書室で会う約束をしてしまいましたし、二人のやり取りはかなり切迫したものがありましたし。

「オペラの学校」のミヒャエル・ハンペは、オペラはスコアが全て、と言っています。これを音楽至上と本当に捉えていいのかは慎重に考えないといけないのですが、少なくとも、演出における解釈は、音楽に依存するということは言っているはずですので、やはりオペラは音楽のほうが優勢なのでしょう。

さて、今日も色々聴いてしまいました。

《フィガロの結婚》は、アバド盤の洒脱さがいいなあ、とあらためて。心が洗われました。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Opera

オペラの学校
オペラの学校

posted with amazlet at 15.09.25
ミヒャエル・ハンペ
水曜社
売り上げランキング: 89,666

ミヒャエル・ハンペの「オペラの学校」を読んでいます。本当に興味深い一冊なのですが、その中で最も大事なのがこの部分かなあ、などと。

舞台芸術には心を射抜かれる瞬間があって、それは、舞台に関わるすべての人々、それには観客自身も含まれますが、それらが良い条件だった時に訪れるものなのだ、ということ。

この「心の真ん中を射抜きなさい」と言われても、その方法は誰にも教えられないですし、分からないでしょう。

実際の体験において「心の真ん中を射抜かれた」ことがある聴き手は本当に幸福なのだと思います。

私も何回かあるなあ、と思いました。

例えば、以下です。全部新国立劇場だなあ。

  • 初めて新国に足を踏み入れた時、《セヴィリアの理髪師》で、使用人が幕を開ける瞬間に感激。
  • 《ボエーム》第一幕のロドルフォのソロのところで落涙。初めての落涙。
  • 若杉さん指揮の《蝶々夫人》で、蝶々夫人登場シーンで滂沱。
  • ペーター・シュナイダーの《ばらの騎士》で泣きっぱなし。
  • フラッカーロとババジャニアンの《オテロ》で開いた口がふさがらない。
  • 《ヴォツェック》の舞台になぜかときめく。
  • 《パルジファル》クンドリを歌ったエヴェリン・ヘルリツィウスの第三幕での悟りきった横顔が忘れられない。

もっとあるのかもしれませんが、私にとってはこれらです。少ないような多いような。

ハンペの体験は、ゴルドーニ《キオッジャ騒動》の最終場面の演出なんだそうです。登場人物の若い判事見習いが、赤ワイン色のマントを着てゆっくりと幕を閉める場面なんだそうです。

こういうのが、ハンペが「オペラの学校」のなかでいう「心の真実」なんだと思います。

こうした経験は、劇場側だけではなく、聴き手自身のコンディションや感受性などにも左右されますので、だれかひとりが頑張れば良いというものではありません。真実を認識したということだけで、それ以上の証拠は不必要だと言います。非論理的な事態であり、説明することはできないものなのです。だからハンペはこれを「聖体の秘跡」とまで言います。

そういう意味では、これだけあるというのは、真実にそれだけ触れられたということだから、本当に感謝の気持ちしかないです。

来週末の《ダナエの愛》、行くことができるかもしれないのですが、そこでもなにか奇跡が起きるといいなあ、と思いました。

それではみなさまおやすみなさい。

Opera,Richard Strauss

Photo

驟雨のあと。空気も秋めいてきて涼しくなってきた気が。

いよいよ、夏もおわりつつありますね。早いものです。

それにしても、なんなんすかね、この忙しさは、みたいな。

今週やっと3時間だけ自分の時間が取れそうで、それもあと30分でおわってしまいます、みたいな。

今年は、ワークライフ・バランス推進の役割を仕事場で担っているんですが、どうやら、仕事人間だったみたいで、まだまだ頭を切り替えられません。ムダに深読みするクセもあるみたいでして、本当にワークライフ・バランスしていいのか分からないのです。

「効率あげて、仕事の成果を変えずに早く帰ろう!」が趣旨なはずですが、「効率上げて、仕事の成果を増やそう!」が趣旨のダブルスピークではないか、と深読みしてしまうのです。趣旨を腹で理解できていないということですので、意識を変える意味でももっと勉強しないと。

今日はこちら。

コヴェントガーデンでの《ばらの騎士》。ライブ録音なので、子役の子どもたちの声なども入っています。トモワ=シントウ、クルト・モル、バーバラ・ボニーなどおなじみのメンバーが集っております。1995年の録音です。あのクライバーの録画の数年後ですね。Apple Musicのせいか、なにか音作りがライトな感じで、室内楽的に聴こえます。トモワ=シントウは円熟といえば円熟です。カラヤン盤《ばらの騎士》でのトモワ=シントウの素晴らしさとは違う円熟でした。蔵出しな音源という感じです。

詳細はこちら。

http://www.opusarte.com/details/OACD9006D#.Vdnjk3hxE69

明日は涼しい一日になりそうです。皆様お身体にお気をつけて。おやすみなさい。グーテナハトです。

2014/2015シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

Photo

雨が続く毎日。東京地方はこの数日ずっと雨ですね。というより、私の記憶の中ではこの一年ほどで、こんなに雨が続いたという記憶がありません。

昨今なんだか週末にだけしか書けていないですね。最近、仕事のほうがなかなか忙しいのです。忙しさというのは、波のように周期を持って忙しかったりそうでなかったりするもので、最近は忙しい波にあえて乗っているという感じもあります。

まあ、止まない雨はありません。

IMG_1004.JPG

先日の新国立劇場の《沈黙》ですが、本当に考えさせられる内容でした。同じプロダクションで二回目ということもあり、どんな感じで観られるのか不安でしたが、思った以上に学びが多かったのです。

「日本には、日本のやり方がある。西欧の神を持ってくるのはありがた迷惑」

「日本人は、結局は神などは理解できず、神も大日如来も、同じものとしてしまう」

このような、西欧の日本化というテーマは、キリスト教だけではなく、随所にあるのでは、とも思うのです。具体的にここに書くことはしません。私の大学時代の先生は、日本の西欧文化受容の非徹底を嘆いておられたのですが、そうしたこととつながるのだ、と思います。

「グローバル」な昨今にあって、何がいいのか悪いのか、全くわからない世界になりつつある中で、この問題は現代的だなあ、と思いました。

今後の世界に不安が多い中、あまりに重いテーマを感じて、数日間は考えこんでしまって、書くに書けなかった、ということだと思います。

2014/2015シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera,Richard Strauss

すべての写真-1753

新国中庭のパノラマ写真を撮ってみました。首都高速の騒音をブロックするための外壁に囲まれた水庭は本当に素敵です。

《ばらの騎士》に政治的意図はあるでしょうか? ヴェルディオペラだと、そこに政治的な意図がたくさん仕込まれていますので、いろいろと面白いのですが、シュトラウス=ホフマンスタールでそうしたことを考えたことがありませんでした。

もちろん、第一次世界大戦前の時代が変わりゆくことへの漠然とした不安のようなものがながれているのはたしかでしょう。爛熟の次に来る破局への予感のようなものでもあります。18世紀のフランス革命に向けたフランスの状況などを想像していたのかもしれません。

あるいは、現代においてもやはり、バブルの次に来る崩壊をなにかそこはかとなく感じていて、例えば、今のアベノミクス相場はもちろんのこと15年前のITバブルも、なにかそうした威勢の良さのあとに来る破局への漠然とした不安を感じるような気がします。

現実と乖離しているような株価の高騰が、日銀や年金機構が政策に基づき株を買い続けているという状況で、創られた株高状況とも言われているようです。

インフレ・ターゲットが設定されてはいますが、それに連動して、給与が上がっている実感がない、という話はよく聞きます。

(ですが、こちらのデータでは、2013年度においては、平均給与は2%とはいえませんが、それでも上がっている、とされていますので、面白いですね)

なにか、こういう爛熟の美と、次に来る破局の感覚、というのは、日本的とも言えるのでしょうかね。というか、辻邦生の「美と滅び」とか、太宰とか、三島の感覚とよく似ているなあ、と思います。それは、実はマンなのかもしれないですね。

ホフマンスタールの《チャンドス卿の手紙》は、なにか大人の諦念のようなものを感じるのですが、それがこのオペラの魅力だとおもいます。

というのは、ある程度人生経験を積んだ人の意見になると思いますが、きっと若い方々にはオクタヴィアンとゾフィーの恋愛成就ハッピーエンド物語になるのでしょうね。第二幕でさっそうと登場するオクタヴィアンは、きっと若い方にとっては、卒倒するほどのかっこよさです。

年代ごとにその魅力が発揮できるようになっているのかも、なんてことを思いながら観ておりました。

それでは取り急ぎ。グーテナハトです。

2014/2015シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera,Richard Strauss

Photo

いや、すいません。今日も、ちゃんと書けなくて。

でも、《ばらの騎士》については、今回はパフォーマンスも素敵すぎたのですが、それ以上に、劇についていろいろ気づきがありました。

前から思っていたのですが、とあるあのオペラ(あるいはオペレッタ?)と実に似ているのではないか、とか。

あとは元帥夫人のモノローグがことのほか味わい深く、8年前に比べてずいぶんと感じ方が変わっていたり、とか。まあこちらも歳をとっていますので当たり前です。もしかすると、元帥夫人の週末感のようなものはすでに超えてしまったような気がします。

ホフマンスタールが《ばらの騎士》を書いたのは30歳台後半です。確かに《ばらの騎士》を初めて観た時は、元帥夫人と同じぐらいの年齢でした。

ですが、私はすでにそこを超えましたので、ホフマンスタールの感じる終末感を超えていてもおかしくありません。この感覚、昔、少し上の世代のかたと《ばらの騎士》について語った時に、その方がおっしゃっていたことなのかあ、などと思いました。

ということは《ばらの騎士》については、別の見方ができるようになってきてもいいんだろうなあ、と思います。それが今回の課題かもなあ、などと。

で、夏が来てしまいます。今年の立夏は5月6日ですが、小学生の時にならった目安でいうと、5月までは春で、6月からは夏、ということに成りますので、とうとう夏がきました、ということになりますね。

冒頭の写真は、近所の桜の木とかえでのコラボ。

近所の桜。江戸彼岸で、染井吉野よりも早く満開を迎えています。

4月に撮影したあの桜の木、つまりエドヒガンは、冒頭の写真のように青々と生い茂っているわけです。

時のうつりゆくのはやはり早いものですね。もちろん、歳をとればとるほど早くなるわけですが、その早くなる加速度は歳をとればとるほど小さくなります。

それではまた明日。グーテナハトです。

2014/2015シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

すべての写真-1748

なんとか行ってまいりました。新国立劇場《ばらの騎士》。

このプロダクションは、2007年、2011年につづいて3回目でしたが、3回見ても飽きない、本当に上品で洗練された演出です。

今日は時間がないのであまり書けませんが、取り急ぎ、標題に書いたこちら。

なぜ腹が立つの? これが世の中だというのに。

第一幕でおしかけてきたオックス男爵を追い払った後に嘆息するように呟く言葉です。

この言葉を日々眺めてみるといいかも、などと。

元帥府人は、これ以降ずっと機嫌が悪いですね。第三幕の登場時点でもやはり機嫌がわるいですね。観ているこちらも怒られている気分になります。元帥夫人は男性全員を怒っているのですから…。

今日は取り急ぎです。また明日。おやすみなさい。

Book,NNTT:新国立劇場

これも、私のタスク台帳にずっと残っていたのが、こちらの本について。

オペラ座のお仕事――世界最高の舞台をつくる
三澤洋史
早川書房
売り上げランキング: 186,811

新国立劇場の合唱指揮をしておられる三澤さんの本です。

オペラの舞台裏が分かる最高な一冊なのですが、私の積年の謎が解けた、と思った部分がありました。

今手元に本がないのですが、たしか「バイロイトの合唱ではなく、ベルカントをめざすことにした。日本人にはそちらのほうがあっている」といった趣旨のことを書いておられたと思います。それが、2011年の夏以降だされていた、と記憶しています。
どうもその辺りに、新国立劇場合唱団のレベルアップの秘密があるのではないか。そう思いました。

一方、私が「新国立劇場の合唱が変わった!」と思ったのが2012年3月の《さまよえるオランダ人》公演でした。あの時の男声合唱の迫力、力強さには身を乗り出して聴き入った記憶があります。

それ以降の合唱の力強さにはいつも感服しています。演技もきっちりやられますし、声もすごく出ていて、スゴイなあ、といつも思っています。

ここ数年、合唱指揮の三澤さんが、指揮者に乞われてカーテンコールに呼ばれるシーンを良く目にするような気がします。それほど素晴らしいということなんだと思います。

明日は運が良ければ《ばらの騎士》です。ハイティンク、ショルティ、ウェルザー=メストで予習しました。どんなパフォーマンスなのか。期待大です。

ではグーテナハトです。

2014/2015シーズン,Giuseppe Verdi,Miscellaneous,NNTT:新国立劇場

IMG_0716.JPG

先日の新国立劇場《椿姫》について。書きたいことがタスク台帳に残っていましたので、忘れないうちに書かないと。。

ヴェルディらしい楽しさがありましたが、やはり、台本はかなり無理をして刈り込んでいるのですね。第二幕の最初のところ、ヴィオレッタが宝飾品を売り払っている、ということに気づいたアルフレードは、張り裂けるように自分の未熟さを恥じ入り、パリへと向かいます。

この部分の劇の長さがバランスがおかしいほどに短いのです。

特に今回の新国立劇場の演出だと、あれあれあれ、という間にアルフレードが激昂して去っていき、そのあと、ヴィオレッタがすかさず登場、という感じで、なんだか紙芝居のような展開の早さでした。

オペラ化するにあたっては、台本を大きく省略することは多いですので、まあ、当たり前といえば当たり前なのです。

あとは、今回の演出ですと、ジェルモンの登場もかなりスピード感がありました。

それにしても、最近の新国立劇場の歌手の皆さんは安定しています。昔は、なんだかこのあとはずさないか、と心配になってしまうようなこともあったのですが、この数年は、そうした不安のようなものもなく、自然体で集中して見ることができるように思います。本当にすばらしい劇場になってきたんだなあ、と思います。

開場して17年。私が初めて観に行ったのが2002年ですので、あれから13年がたちますが、どんどん成熟しているような気がしてなりません。

今週末の《ばらの騎士》も期待ばかり、です。

では、とりいそぎおやすみなさい。グーテナハトです。