2014/2015シーズン,Giuseppe Verdi,NNTT:新国立劇場,Opera


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久々の新国立劇場でした。今回の《椿姫》は新しい演出でした。これまでのオーソッドックスな演出から、時代を意識しながらも新しい要素を取り入れた演出でした。

演出について印象にのこっていることをいくつかかいてみます。

舞台

舞台には、左側の袖から舞台中央に向かって巨大な鏡面の壁となっており、右側の袖から中央に向けて、舞台背景が描かれた壁面が設えられていました。ですので、舞台はV字型になっているような状況です。

鏡がありますので、奥行きがあるようにおもえます。合唱が入ってくる場面だと、実際の人数よりも多く見えますし、照明の反射光がさまざまな模様を壁に投げかけていて、たとえば合唱が歌っているシーンでは、壁に合唱の方々の影がうつりこんで、幻想的な雰囲気を醸し出していたように思います。

第二幕の背景

特に、第二幕では、パラソルが虚空に浮かんでいて、壁の模様は鳥が列になって飛んでいるシーンが描かれていたところは幻想的でした。列に鳴って飛ぶ鳥は、まるで乱視でみたかのように、ダブって見えるような描かれ方がされていて、それがなにか立体感を持つように見えたのもなかなか興味深いものでした。

グランドピアノ、衣装

全ての幕において、茶色い古いグランドピアノが使われていて、あるときはテーブルであり、あるときはヴィオレッタが横たわるベッドだったり、と活躍していました。

衣装はオーソドクスな19世紀風なものでした。女性の衣装はずいぶんと美しく、特に第二幕第二場のフローラの衣装は、レース編みのような細かい花の飾りが美しく、ないかアール・ヌーヴォー風でもあり、アートアンドクラフト的でもあり、という風に思いました。

幕?膜?

それからもっとも効果的だったのは、膜というか幕というか、薄地のカーテンが第一幕の冒頭と、ヴィオレッタ病床の場面で使われていたことです。

特に病床の場面では、ヴィオレッタの横たわるピアノと、アルフレードやジェルモンの間に、天井から垂れ下がる薄地のカーテンがあって、手を触れたり、手を握ろうとしても、その薄地のカーテン越しになってしまうわけです。

すでに、ヴィオレッタとアルフレード達の間にはなにかしらの壁がある、ということを示しているもので、その壁というのが、たとえば、ヴィオレッタの朦朧とした意識が創り出すもの、ということも言えるでしょうし、ヴィオレッタが臨死体験に際して現実と乖離している、ともとれますし、あるいは死を前にしたヴィオレッタの人間性と、世間一般の人間性の壁、というようにもとれるわけで、なかなか興味深い仕掛けだったと思います。

自由の女神

第三幕の最後のシーン、舞台と客席の間には、巨大な円形の穴があいた壁があって、上部だけ劇場の赤いカーテンのような絵が描かれています。第三幕の演技は円形の穴ごしに見えるようになっています。

ヴィオレッタの最期のシーンで、一瞬、病気が回復したかのような錯覚を覚えてから、息を引き取るシーンで、ヴィオレッタは円形の枠を乗り越えて客席側に来て、赤い布地を右手に掲げて立ったまま幕切れ、となります。

このポーズが、私には自由の女神のようにみえて、ああ、ヴィオレッタは死んでやっと自由になったのか、などと思いました。

枠を乗り越えて客席側に来るというのも、なにか死に際して三途の川のような境界をこえた、とも思えますし、あるいは当時の抑圧された状況から、比較的自由になった現代へヴィオレッタが到達した、というふうにもとれ、いわゆる「第四の壁」のようなものを意識させる演出だったように思います。

おわりに

写真なく書くのはなかなか難しいです。ご覧になった方にはわかっていただけるのかもしれませんのであえて書いてみます。

オペラの楽しみのひとつは、現代においては演出家の意図をあれやこれやと想像することにあると思います。これまでもいろいろと妄想しましたが、今回もずいぶんと頭の体操になりました。

それでは取り急ぎグーテナハトです。

2014/2015シーズン,Giacomo Puccini,NNTT:新国立劇場,Opera

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はじめに

幕がひけた後の新宿です。もうちょっと引くと面白かったのですが、iPhoneの単焦点レンズですと、こんなかんじにしかなりません。まあ、限定されたものの面白みというものがあるのだと思います。

マノン・レスコー、引き続き

歌手勢では、マノンを歌ったスヴェトラ・ヴァッシレヴァがとりわけ印象的です。舞台がキリッとしまりました。

特に、二幕のマノンの悪魔っぷりがいい感じです。あそこは、マノン役の見せ場だと思いますが、本当に濃密で集中したパフォーマンスでした。時を忘れた感じです。

さすがにそれらしい演技です。でも本当の悪魔はそうではないのかも、とも。とにかく、男はアホですな、というのが結論か。経済学は女性のほうが得意なのでしょう。

ヴァッシレッバは低音域も豊かで、重みのあるソプラノです。プッチーニ役が得意とのことですが、ヴェルディの主役級はいけそうです。ヴィオレッタは当然ですが、この方のデズデーモナとか聴いてみたいです。なんか、《ばらの騎士》の元帥夫人とか《カプリッチョ》の伯爵夫人もいけるのでは、とか思ったり。あるいはジークリンデ、とか。本当に綺麗な方です。

第二幕の途中登場のダンサー。男性ダンサーが女性的バレエを踊るという、フランスの頽廃を皮肉ったもの。男性が白粉で顔を真っ白にしているというのもなにか示唆的です。中性化が革命につながる? そういうものなのでしょうか。

終わりに

今日、一緒に飲んだ高校時代の友人。幼稚園に通う娘さんがいるのですが、一言こうおっしゃっていました。

「女の子は女だよ!」

ありがとうございました。今日一番の名言をいただきました。

ではグーテナハトです。

Giacomo Puccini,NNTT:新国立劇場,Opera

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はじめに

今日の新国立劇場の水庭。静謐な水面です。

今日は《マノン・レスコー》。2011年3月にプレミエが予定されていましたが、震災のためゲネプロをやったところで中止となった、という事情のあるプロダクションです。

4年前のブログにもいくつか書いておりました。

https://museum.projectmnh.com/2011/03/14214016.php

https://museum.projectmnh.com/2011/03/20193219.php

日本人にとっては、このプロダクションはなにか感じるものとなります。当時のブログ記事には先行きの見えない不安や悲観が書いてありました。実際には、震災当時八千円だった日経平均は二万円目前まで上がっています。2020年のオリンピック開催も決まりました。しかし、福島第一は引き続き先に見えない修復作業をおこなっており、復興も道半ばです。

そうした中にあって、中止されたこのプロダクションが復活するということは、当時失ったものを一つ取り戻した形になる、ともいえるでしょう。

今日の演奏

それにしても、ピエール・ジョルジョ・モランディの指揮が素晴らしかったです。

この方、元はオーボエ奏者でいらっしゃいます。その後、ムーティのアシスタントになり、バーンスタインや小澤征爾に師事し、 1989年にローマ歌劇場の首席指揮者という経歴を作ったようです。

先日、シノポリの画期性とは? という記事を書きましたが、カラヤン後にあってテンポをうごかした、というところにあるのでは、と思いました。80年代にあの様な演奏はに「戻した」というのが画期的だったのでしょう。

今日ではめずらしくはありませんが、今日の指揮もやはりそうしたテンポを動かしてドラマを際立たせるものでした。特に二幕の最後の駆け上がるような加速とか、極端にテンポを落としてみせるところは、なかなか圧巻でした。

ドラマをきちんと成立させる指揮という意味で、完全な指揮でした。まずはそこがあって、その上で、です。今回はその上もできていましたから。間奏曲の弦の厚みとか、うねるグルーブとか、絶妙なダイナミズムなどは、緻密に行き届いた名画を見るようでした。

さしあたり

今日は一旦ここまで。明日に続きます。

それではおやすみなさい。グーテナハトです。

Book,NNTT:新国立劇場

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先日行ったレストランにて。鮮やかな生ハム。

それにしても、才能って、羨ましいです。センスがある方というのは、こんなにトントン拍子に物事が進むものなんですね。

新国立劇場合唱団の指揮をされている三澤洋史さん本を読んでます。音楽できる方って、本当にこういう方なんですよね、という感じ。まあ、こうでなければ、クラシックの道に入ってはいけないのかなあ、なんて思います。

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詳しくは読了する予定の明日まで。本日は予告編。かなり面白いですよ。

では取り急ぎグーテナハト。

2014/2015シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

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先日の公演がおわり、オペラシティに入っている書店に行こうとおもったのですが、なんとオペラシティは全館休館日でした。まったく、どういうことなのでしょうか。

で、巨大なオペラシティのアーケードをポチポチ写真にとっていまして、その一枚がこちら。ここ、私が東京でもっとも好きな場所の一つです。

それにしても、《こうもり》第三幕は厳しい役人批判でした。それは看守のフロッシュのことです。

どうも実際の台本にでは見つけられなかったのですが、第三幕に以下の様なセリフがあったように思います。

「酔っぱらいのバカ役人!」とアルフレートがフロッシュを揶揄するのですが、それに対してフロッシュは「酔っぱらいは余計だ!」といいます。つまり、バカ役人ということは認めているわけです。
(バカと言う言葉は、別の言葉だったかもしれません。)

また、フロッシュは確かになにか間抜けな看守という役柄ですので、「バカ」といった類の言葉で笑い飛ばすのは一向に問題ないのです。ですが、シュトラウス二世が革命にとらわれていたということを思うと、なにかしらの意味があるように思えてならなかったりします。

ちなみに、フロッシュのことを「ラクダ!」といって揶揄する場面があります。字幕ではラクダの横に「馬鹿者」といったたぐいの言葉が添えられていて、同義だということが示されていたと思います。これももとの台本にはないもののようです。

この駱駝、という言葉。ニーチェなんでしょうね、きっと。

それにしても、徐々に年度末が近づき慌ただしくなってきました。寒さも少し和らぎつつあるのでしょうか。今日の昼間は、コートなしで過ごせました。

みなさまの明日も良い一日でありますように。グーテナハトです。

2014/2015シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

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閉幕後の風景。日が長くなってきましたね。閉幕後も明るいとなにか嬉しさを覚えます。

先日に続き《こうもり》の中に垣間見える政治的要素について、です。


第二幕の最終部分で、ファルケ博士が唐突にこういうことを言います。

見たところ ここにはたくさんのカップルがいて
たくさんの心が愛の中で結ばれています そこで
私たち皆でひとつの大きな絆を作ってはいかがでしょうか
姉妹や 兄弟となって!

(中略)

親しげな「君(ドゥー)」という呼び名を贈りましょう
いつまでもずっと 今日の日のように
明日もまたそう思い続けましょう!
まずキスを 続いて君(ドゥー)を 君 君 君といつまでも!

訳はオペラ対訳プロジェクトから引用いただきました。
http://www31.atwiki.jp/oper/pages/287.html

他愛もないようなシャンパンの歌で世界市民主義を表明するかのような部分で、劇の本筋とは関係のない唐突感を感じます。シャンパンによって浮かれている参加者の感傷に訴えているような感もあります。ですが、なにか永遠に得ることのできない革命の理想が差し込まれているような部分だと感じたのです。

これは、友愛の理念なのではないか、と思うのです。これは、18世紀啓蒙思想の結果で、フランス革命における三つの理念の一つですが、もともとはフリーメイソンの思想から繋がるものでもあります。

(友愛とは→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8B%E6%84%9B

今回の演出では、オルロフスキーが従者の肩に頭をあずけるシーンが象徴的でした。階級を超えた友愛が示されていたように思えました。

(つづく)


今日の午後は家族で近所をぶらぶらと散歩しました。

太陽の光も随分と明るくなってきました。昼の長さは晩秋のそれと同じぐらいになっているはずです。おそらくは10月から11月と同じほどでしょう。

太陽の光が少しずつ赤みを失い、白く透き通ってきているように思います。同じ場所、同じ時間であっても季節によっては全く別の場所にいるようです。

いや、それは「別の場所にいるようです」ではなく、実際に「別の場所」なのです。

同じ日本にいると思っても、地球は公転していますので実際には太陽との位置関係においては別の場所にいるわけです。視点を変えるとあらゆるものの意味が変わってきます。

ではおやすみなさい。グーテナハトです。

2014/2015シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

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新国立劇場の隣にそびえるオペラシティ。もう竣工から18年ですか。

今日も《こうもり》について。

オペラ《こうもり》は、ウィーンのどんちゃん騒ぎを描いたくったくのない娯楽オペラだと思っていました。際にはヨハン・シュトラウス二世の政治的主張が色濃く織り込まれているオペラなのではないか、といまさらながら気づいてしまいました。

それは、今回の公演パンフレットの中で、西原稔さんが書いておられた「ヨハン・シュトラウス──ワルツの父とワルツ王との親子の確執」のなかで、ヨハン・シュトラウス二世が三月革命を支持していたことが書かれていて、確かに当時のシュトラウス二世ぐらいの世代だとそうだろうなあ、と思ったのです。シュトラウス二世は1825年生まれ。1848年の三月革命当時は、23歳です。若いシュトラウス二世がそうした新しい思想に感化されることに不思議はありません。

そうしてみると、いろいろなことがわかります。

たとえば、小間使いアデーレのおかれている境遇が描かれています。それが嘘だとしても、病気の叔母を見舞うのも雇い主の許可無くしてはなりません。また、アイゼンシュタインが、女優としてパーティに出ていたアデーレを「うちの小間使い」というと、「そんな侮辱をよくも!」とパーティの参加者に糾弾されます。つまり、小間使いというのは実に低い地位に置かれていた存在というわけです。こうした使用人の地位の低さは、たとえばカズオ・イシグロの「日の名残り」や、ロバート・アルトマン監督の「ゴスフォード・パーク」などに見られるものです。その小間使いが、女優に化けて、階級を超えていこうとする姿が描かれている、ということになります。

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特に、第三幕は圧巻です。女優の才能を見せる場面で、女王を演じるまでになります。これは小間使いが女王にもなりうる、という階級の崩壊をも描いているものと捉えられるのではないでしょうか。このオペラ、全てはシャンパンがもたらす幻であるというものです。つまりは、こうした階級ですら、幻である、ということになります。これは、実に革命的であり、当時においては反体制思想です。

そういう意味において、まるで《フィガロの結婚》のような政治的オペラといえるわけです。

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今日も寒い一日。毎日お昼に散歩することにしています。いつものようにコートを着ないで外に出ましたが、さすがに寒いですね。寒さが鋭く突き刺さってきました。周りにはコートを着ないで歩いている方々がいましたが、みなポケットに手を入れて前かがみになって足早に歩いていたようです。

鉛色の空は無慈悲に太陽の暖かさを阻んでいました。

ではグーテナハトです。

2014/2015シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

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今日は新国立劇場《こうもり》に行ってまいりました。

東京地方は冷たい雨が降るあいにくの天気ではありましたが、3時間にわたっていろいろと考える機会をもらった感じです。

まずは素晴らしかったのはアルフレート・エシュヴェの指揮でした。すいません、3年経ったので書きますが、前回2011年のダン・エッティーンガーの指揮のこうもり》に馴染めなかったという記憶がありました。軍楽隊のようで、ガチガチだったものですから。

前回の公演の感想は以下の様なものでした。

驚いたのは、エッティンガーの指揮ぶり。これは賛否両論あるに違いありません。まずは鋼のような統率力が凄いです。序曲のスネアが軍楽隊に聴こえるほどの精緻な指揮ぶりでした。いつもより、東京フィルも気合が入っていたとおもいます。エッティンガーにかかると、ウィナーワルツの微妙なもたり感もすべて数値化され計算されているかのようです。
それから、音楽の力強さが半端ないです。テンポもすごく落とすところがあり、重い感じに仕上がっていました。ワーグナーばりかも、などと。。。
やはり、題材が洒脱な「こうもり」ですので、もうすこしゆるくかるくオケを動かしてもよい、という意見もあるかもしれません。
あとは、統率力のほう。この統率力で、東京フィルの音が先週と全く違って聞こえました。金曜日に聞いた日本フィル定期演奏会の山田和樹氏とは全く正反対です。指先の動きまで使って細かく指示を出している感じで、クリックも完全に全部統御している感じです。

ですが、今回のエシュヴェは違います。

私は序曲で落涙しました。なんというか、枯淡の境地という言葉を思い出していたのです。奇をてらうことなく、無理やりなウィーン的情緒を出すこともなく、淡い色合いの音楽を作り出していたからです。

ワルツのもたった感覚は、予習に使っていたクライバー盤よりも淡白です。透き通った白磁のようなワルツの感覚だったと思います。

日本のオケをこんな風に歌わせるとは、と驚きました。

抑制され過度などぎつさのようなものもないなかで、色彩感とかダイナミズムを出していて、ああ、これが伝統で、それをよくぞ日本で再現してくださった、と思ったのです。

もちろん、そうした指揮ですから、舞台上のナラティブを阻害することはありません。こうしたオペラの下地をきちんとつくる音作りは、オペラのパフォーマンス全体を支えるものとなります。

それはまるで企業活動を支えるITインフラのようなものなのかもしれないですね。あって当たり前のようなものなのです。それがあるからこそ、演出が活き、歌手が歌い演じる事ができる、ということだと思います。

しばらく《こうもり》については続けて書くことになりそうです。エシュヴェの指揮のおかげで、なにかブレークスルーを感じたり、このオペラの真の意図を感じたり。。

では、また明日。グーテナハトです。

2014/2015シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera

引き続き《こうもり》のこと。今日もクライバーの《こうもり》を聴きました。なんというか、古き良き時代。このような時代が100年以上前にヨーロッパにあったということなんですね。

新国立劇場の《こうもり》は、2006年にプルミエを迎えたハインツ・ツェドニクの演出を使います。今回が4度目です。なかなか息がながいですね

私は2009年と2011年の二回観にっています。

2009年はなかなか楽しい思い出でした。

https://museum.projectmnh.com/2009/02/02235843.php

が、2011年は、エッティンガーの指揮が軍楽隊のようで、という感想でした。(リンク先、WordPress移行で情報が乱れている模様)

https://museum.projectmnh.com/2011/12/11225001.php

では、今回はどうでしょうか。

今回の式は、アルフレッド・エシュヴェです。フォルクスオーパーで指揮をしているアルフレッド・エシュヴェはみずから「ウィーン気質」と言っています。《こうもり》の経験も多そうですね。洒脱な《こうもり》が聞けると良いのですが。

こちらがインタビュー記事です。

http://www.nntt.jac.go.jp/opera/news/detail/150122_006234.html

いろいろ画像をみていると、前回2011年もアイゼンシュタインを歌ったアドリアン・エレートは、どうやら口ひげをつけて登場のようです。また、2009年、2011年とは違うキャストの方も入っていますので、今回は随分印象が変わるのではないか、と思っています。

そしてこちらが予告編。2011年の模様となっています。

すでに全5回のうち2回がおわり、金曜日と日曜日二回公演が残っているのみです。

こんな時だからこそ、見に行かないと、と思います。いわゆる、辻邦生のいう「戦闘的オプティミズム」です。

ではおやすみなさい。

Béla Bartók,Opera

J.シュトラウス:喜歌劇「こうもり」全曲
クライバー(カルロス) クシェ(ベンノ) プライ(ヘルマン) ヴァラディ(ユリア) レブロフ(イヴァン) コロ(ルネ) ヴァイクル(ベルント) バイエルン国立歌劇場合唱団
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今週末、新国立劇場で《こうもり》を見る予定です。色いろある世の中ですが、こういう時に違うことをすると、かえってよくありませんのであえて行くことにします。

戦闘的オプティミズムという感じ。それも贅沢かもしれませんが、保つためには必要なことではないか、と。

で、やっぱりクライバーはすごいのですね。クラシックの楽しみ方はいろいろありますが、指揮を愉しむ一つの方法は一拍一拍の音の長さを意識してみるということがあります。微細な長さの違いが絶妙な味わいを出しているということがよくわかります。

しかし、《こうもり》もなにか《アラベラ》と似ているところが。。前座→パーティー→結論、という流れは同じですね。新国立劇場の演出でも、二つは似ているような気がします。

最近は随分と日が長くなりました。ようやく朝起きる時間が明るくなってきました。さすがに暗い時間に起きだすのは辛いものがありましたので、少し楽になったかなあ、などと。

ではおやすみなさい。