アラベッラ、行ってきました。ベルトラン・ド・ビリーの爽快で洒脱な音作りを堪能しました、アンナ・ガブラー、アニヤ=ニーナ・バーマン、ヴォルフガング・コッホ、マルティン・ニーヴァル、安井陽子さん、みなさん本当に素晴らしかったです。
なんだか、フィアッカミリの安井陽子さんが素晴らしかったですね。なんだかどんどんパワーアップしている気がします。
あとは、東フィルのオーボエの音が素晴らしかったです。張りはあるけれど優しくかつ繊細。かなり感動。多分、荒川文吉さん。昨年の第82回日本音楽コンクールオーボエ部門で二位になった方。
終幕後、バックステージツアーで4年ぶりに舞台に上がり、その後新宿で所用をこなしたため、遅くなってしまいました。明日以降引き続き書きます。宿題ばかり。
ではグーテナハト。
※ こちらの写真は今年の冬のものです。
《短信》アラベッラ、素敵でしたよ。
新国立劇場《カヴァレリア・ルスティカーナ》&《道化師》その2
早いもので五月も後半です。月日は高速で過ぎ去ります。
週末にみた《カヴァレリア・ルスティカーナ》と《道化師》について引き続き。
《カヴァレリア・ルスティカーナ》のほうから。
やはり、フラッカーロはうまい。あの凄まじい張りのある声は、パヴァロッティにもドミンゴにもない持ち味です。もしかするとデル=モナコなのかもしれない。
フラッカーロの忘れられないパフォーマンスは、新国のオテロです。あの時は、あまりの凄さに驚き、いい意味で「あいた口がふさがらない」という状況でした。今回もやはりでした。
サントゥッツァを歌ったルクレシア・ガルシアも素晴らしかったですよ。潤いのある声で、声量もたっぷり。贅沢です。あとはローラを歌った谷口さんが素晴らしいです。声質がヨーロッパの歌手の声に似ていて驚きました。
youtubeに新国立劇場が《カヴァレリア・ルスティカーナ》の映像を載せていました。フラッカーロは1分20秒ぐらいから登場です。
イタリア・オペラは本当にいいなあ。
ちなみに、映像の冒頭に出てくるキリスト像、なんだか面白いです。これはまた明日以降書きます。
ではグーテナハト。
新国立劇場《カヴァレリア・ルスティカーナ》&《道化師》その1
徐々に体調も回復してきてやっとまっとうにオペラが楽しめるようになってきました。体は疲れてますし、昨夜はたまたま観た映画(Cast Away)を見てしまい夜更かししてしまったんですが、特に眠気にさいなまれることもなく、劇に引き込まれた3時間でした。
《カヴァレリア・ルスティカーナ》も《道化師》もヴェリズモ・オペラですので、色恋刃傷劇で、愛憎にまみれて人が男人も死ぬんですが、悲劇はカタルシスですので、心が洗われた気がします。多分。
舞台には、シチリアに遺されたローマ時代の円形劇場が設えられています。これがまたリアルすぎでした。左手にはオリーブの古樹があって、ギリシア風の円柱の残骸がいくつかころがっているという、まあアルカディアのような風景です。本当にリアリティのある舞台でした。
《カヴァレリア》も《道化師》もおなじくこの円形劇場が舞台ですが、なにか共通の趣向があるわけではありませんでした。たとえば、《カヴァレリア》事件の夜に《道化師》事件がある。あるいは、《カヴァレリア》の登場人物が《道化師》の脇役で出演する、といった繋がりがあるとまた面白いなあ、などと想像していたのですが。
《道化師》はなかなか面白い趣向です。サーカス一座の登場は、ありがちではありますが、キャストが客席から登場します。専用のビラまで配ってました。それからカニオは、殺人を犯したあとに、客席のドアから逃げ出します。これも舞台と客席がつながっていました。こういう客席と舞台の一体感は楽しいですね。この客席と舞台の融合をずっと続けるパフォーマンスがだともっといいですね。
《道化師》はよくよく考えると第四の壁を最初から取り除いているのですね。トニオが役者の心情を切々と歌い上げますが、それは劇中の役者の心情なのか、実際の歌手地自身の心情なのかが曖昧になってくる、という趣向は、これも常套ではありますが、興味深いものです。
それから、後半の劇中劇の場面も面白いですよね。劇と劇中劇が混在していきますので。劇ではネッダとシルヴィオが不倫関係に有り、劇中劇ではコロンビーナとアルルカンが不倫関係にあり、被害者はカニオということで、混乱しているカニオは、両者の区別が付けられなくなってしまう、という、ありがちですが、そうした混乱の緊張感は手に汗を握りますね。カニオの逸脱を、ネッダがなんとか元に戻そうとするあたり、とか。
ともかく、劇と劇中劇においても虚構と現実の境目が曖昧になるということは、劇と観客の境目も曖昧になっているように感じられ、観客が引き込まれやすい構造になっていました。
とりいそぎグーテナハトです。明日も書きますね。
ヴォツェックは貧困批判ではないのかもしれない。
《ヴォツェック》以来、どうも「倫理が贅沢」という言葉が頭から離れず、という感じです。
《ヴォツェック》を単純に貧困批判と捉えるべきなのか、という考えがずっと頭から離れません。オペラ劇場に足を運ぶ人々が、ヴォツエックと同じ貧困状況なくとも、なぜか共感するからです。
貧困非難ではなく、文明批判であり、人間批判なのでしょう。
ヴォツェックが囚われている貧困は、経済的な支配被支配関係といえるのでしょう。がゆえに、全ての人々は経済的支配非支配関係に従属しているはずで、時にヴォツェックのように抑圧された存在になるのです。我々もまた生きるために自我を殺し振る舞います。
時に大尉のように社会倫理をもって他者を抑圧します。時に医者のように理性で人間を扱うこともかあるでしょう。
貧困に倫理がないのではありません。抑圧に倫理がないのです。だからこそ、私は、ヴォツェックを愛おしく思うだなあ、と思いました。
Angel Records (1999-07-22)
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こちらのアルバム。メッツマハーのライヴ盤です。全体的に感情が濃厚で、かなり気に入っております。
ではグーテナハト。
《短信》新国《ヴォツェック》で面白かったことなど。
今日も遅くに帰宅しアルコールで心を休めました。いい感じです。
ヴォツェックの件。ちょっと面白かったことをいくつか。
カーテンコールのときのこと。
2009年、指揮のハルトムート・ヘンヒェンは長靴を履いて登場しましたが、今回のギュンター・ノイホルトは革靴そのままで登場しました。あの水が張られた舞台にじゃぶじゃぶと。
合唱指揮の三澤さんも同じく長靴なしでじゃぶじゃぶと。その後、子役の方々が元気よく登場して、じゃぶじゃぶ水しぶきを飛ばすので、三澤さんが困ってました。
そういう意味で言うと、バンダの方々も長靴を履いてました。劇中にありながら、現実が混ざっているという状況で、第四の壁問題というか、メタ問題というか、私の好きなフィクションとメタという構図がかいまみえてとても興味深かったです。
ではグーテナハト。
道徳は贅沢──新国立劇場《ヴォツエック》その2
ヴォツェックについては、今日も色々考えて、なかなかおもしろいアイディが出てきましたが、少し時間を置いてから書こうと思います。
今日も遅いので少しだけ。
とにかく、今回のゲオルク・ニグルのヴォツェックは素晴らしかったですね。2009年のトーマス=マイヤーは、かなり低音の質感のある声でしたので、ヴォツェックの凶暴性が際立っていたようにも思いましたが(ビデオで見直しました)、ニグルの場合は、打ちひしがれ絶望の淵に立った苦悩するヴォツェックでした。
それにしても、《三文オペラ》で語られるように、「道徳は贅沢」なんですかね。
もし自分が金持ちで、帽子をかぶり、時計や、鼻眼鏡、それに立派な言葉がありゃ、道徳的にもなれる理くつだ!
第一幕の大尉ともダイアローグで語られるヴォツェックの言葉です。
ここが問題なのです。
では、グーテナハト。
世界を写す真実の水面──新国立劇場《ヴォツェック》
偉大な民族というものは、自らの歴史を三通りの原稿、つまり行いの本、言葉の本、芸術の本によって書き表す。この三冊中のいずれも、他の二冊を読まなくては理解できない。しかし三冊の中で信頼に値いするのは、最後に上げた本だけである
孫引きですいません。ケネス・クラーク「芸術と文明」のなかに出てくるラスキンの言葉です。
今日の新国立劇場の《ヴォツェック》をみて、文明の真実がまさに凝縮されたパフォーマンスだったと強く思いました。それは文明の歪みを文明が健全に表出したものだったのだ、と思います。文明の歪みをすくい上げるということこそが、文明を文明たらしめているものではないか。そういう意味でも「美が世界を支える」という辻邦生が言うところのテーゼを確信することができたと思います。
ただ、今日のパフォーマンスは、世間一般の《美》ではないのでしょう。ですから、耐え切れなくなった方は途中で席を立ったのだと思います。
ですが、私は、掛け値なしに最高に美しい舞台だったと思います。これは2009年の舞台を観た時よりも一層そう思いました。
冒頭のポスターに描かれた酒場のシーンがまさにそうでしょう。
天井から吊り下げられたボックス、舞台に貼られた水、水の反射面のゆらめきが劇場中に反射している、グロテスクな酒場の客、舞踏のシーン、無表情に演奏するバンダ、バンダを支える黒子あるいは労働者、そして唯一人間らしいヴォツェックとマリー。
このめちゃくちゃな不統一感こそが、世界を映し出す真実です。世界は不統一でグロテスクで不条理なものです。身悶えするヴォツェック、理不尽な要求を哲学的論説に隠してヴォツェックをいたぶる大尉、科学技術信奉のためにならなんでもする医者の姿は、既視感にあふれています。舞台上は現実世界そのものです。
そんな中にあって、水面がゆらめき、ライトアップされた舞台の背面の波打つ文様に心を打たれ、そして忘れることのできないほど美しいエレナ・ツィトコーワーの歌声が響き、ベルクの管弦楽が波打ちうねります。
今回のパフォーマンスの意図はこちらのリンクを御覧ください。演出家本人が2009年に新国立劇場のオペラトークで話された内容をまとめてあります。
ヴォツェック・オペラトーク@新国 (2)
今日はこれで書き終えようと思いましたが、大事なことをもう一つ、明日に伸ばさず今日書きます。
本当にレベルの高いパフォーマンスでした。最も感銘をうけたのはエレナ・ツィトコーワのマリーでした。2003年でしたか、《フィガロの結婚》のケルビーノで新国立劇場に登場で聴いて、2007年《ばらの騎士》のオクタヴィアンを聴いて、本当に凄い方だと思いましたが、今回もそのときの驚きと同じかそれ以上の感動を覚えました。
他の方もすごかったのですが、取り急ぎ次回へ。ではグーテナハトです。
マリエッタの正体──新国立劇場《死の都》その4
せっかくの禁酒を超克して、現在燃料補給中。
引き続き《死の都》。本当に考えることが沢山です。
このオペラは、第一次大戦後に初演されました。失われたものへの惜別と、あらたなものへの希望、というテーマは、まさに戦間期ヨーロッパにおいては求められていたものに違いありません。これは、先日のオペラトークで音楽学者の広瀬大介さんがおっしゃっていたことです。
では、次の希望とはなんだったのか。残念ながらそれはナチズムでもあった、という可能性において気付くべきでしょう。ですが、ナチズムは第一次大戦前の模倣に過ぎないという見方も出来ます。
マリエッタが、失われたマリーの記憶であるとしたら、19世紀の失われたドイツ帝国のそっくりさんは、ナチズムに当たります。
マリエッタこそが、奇怪なナチズムだったのか、と思うと、驚きを禁じえませんが、古きよき価値を纏いながらもそこになにかしらの胡散臭さや危険性を感じるという意味では、マリエッタがナチズムの予感だとしても驚くことはありません。
マリエッタの所業は夢でした。夢でよかったのです。ですが、現実は夢ではありませんでした。マリエッタの激しく妖しいダンスの禍々しさがそのまま欧州大陸を覆ってしまったのでしょう。
コルンゴルト父子は、惜別を過去への追想を超えた、全く別の次元のものとして考えていました。ですから、パウルは、ブリュージユを去ったのです。
失われたものを取り戻すということは、そういうことなのかもしれせん。
我々は今喪われたものを取り戻そうとしているのでしょうか。実はそれは危険なことではないか。マリエッタと懇ろになり、身を滅ぼすものではないのか。そうしたことに思いを巡らせた一日でした。
グーテナハトです
この疎外感は何?──新国立劇場《死の都》その3
落日。日はまた昇るのでしょうか。
先日から読んでいるこちらの本。
講談社
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辻邦生作品の中でも特に大好きな作品の一つである「ある告別」が収められています。ここで、辻邦生が初めてアテネに行った時にパルテノン神殿を観た感動が記されています。ですが、ここにおいてはまだ明示的にそのパルテノン体験が語られているわけではありません。
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「言葉の箱」とよばれる講演集の中で、そのパルテノン神殿を観た感動を文学的にどのように解釈したのかが平易に語られています。つまり、芸術によって秩序をもたらすという視点が取り上げられます。美が世界を支えるというものです。
これほどの芸術至上主義が一言で受けいられるわけはないかもしれません。私も腹の底から理解するのに何年もかかってしまいました。
ですが、今回の《死の都》の舞台を観た途端、ああ、これが人間の底力で、世界を支えているのはこういう舞台なのだ、と直感したのです。
舞台両側面の棚には所狭しにマリーの思い出の品が並べられ、床にも沢山の箱が置いてあり、一つ一つに写真がはられているという豪華さです。
その舞台の様子は昨日もだした以下の写真で垣間見ることができると思います。
この舞台を見て、あっけに取られない人ははずですし、みながみな美しく絢爛だ、と思うのではないかと想像します。幕が開いた途端、輝く舞台におののいてしまったのです。
ですが、先に進もうとする私を後ろから引っ張る力があって、引き止められてしまったのでした。
常にさいなまれる聴衆とはなにか、という問題と、西欧芸術の至極を日本文化がどう咀嚼できるのか、という問題。
両方の観点において私はアウトサイダーです。正規の音楽教育を受けておらず、日本人として日本文化の中で育ったということ。そうした人間が、この舞台を本当に理解できるのか。それは量的な不足ではなく、乗り越えられない質的な差異ではないのか。
この問題は非常に有名な問題でこれまでも語られ続けていますから、個人的にどのように考えるのかは、これから整理する必要がありそうです。そんなことを考えていると、その他のこともあいまって、やること考えることが多すぎて頭がおかしくなりそうです。すこし冷却しないと。
なんてことを考えましたが、涙なしには視られない舞台であり、感動し続けたことは間違いないのですが。
まだ続きそうです。グーテナハトです。
男が創りだした女たち──新国立劇場《死の都》その2
《死の都》第二回。妄想が膨らみ続けています。
私の大学時代の先輩も見にいらしていて、FBで少しだけやりとりをしました。
そんな中で思ったのは、マリーの挙措自体が男性が作り上げた幻想なんだろうということ。いわゆる永遠の愛を信じる男の身勝手さというものです。
これまでも、オペラにおいて、男によって作られたヒロインたちの姿を見続けました。新国立劇場の今年の演目である《カルメン》も《蝶々夫人}もそうでした。
奔放なカルメンも、貞節な蝶々さんも、永遠に生きるマリーも、華やかで自由なマリエッタも、みんな男が作ったものです。
そこにいくばくかの真実はあるのでしょう。芸術に昇華されたものとも言えるのかもしれません。ですが、どこかにねじれを感じるのです。
そのねじれは、今回のマリー においてまさに現れたのでしょう。
演出意図としては最高で、パウルの描くマリーをよく表現していました。本当に素晴らしい物でした。
ですが、それは男が勝手に作ったものでした。パウルがマリエッタと懇意になると、マリーは顔を覆います。これは、もう、パウル=男の身勝手でしょう。本当にそうなんですかね。パウルの思い上がりではないですか、などと思ったりします。
原作とは異なり、マリエッタですら、パウルの夢の中で勝手に作られたものになっています。まるでサロメのダンスを彷彿とさせるマリエッタのセクシャルな踊りもパウルが作り出したものにすぎません。パウルの妄想です。
それを作り出したのが、パウル・ショットことユリウス・コルンゴルトなのです。ウィーンの法律家にして音楽評論家。体制側にくみした保守的な男が作り上げる女性は、男の欲望や幻想を投影したものに過ぎないと捉えられても仕方がない面もあるような気がするのです。
マリエッタが「これは女の闘い」といいますが、それもパウル=男=ユリウスの幻想ですので、よく考えると滑稽にも思えるのです。
ですが、これには続きがあるはず。ここから先は私の妄想ですが。
今日の仕事はいつもとは違うお仕事でした。刺激的。
ではグーテナハト。