Opera

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寒い一日。今日は原稿を書き終えて、一方で部屋の模様替えをしました。模様替えをしてすっきり。食卓でテレビが観られるように成りましたが、これはどういう効果になるのか。今まで以上にオペラや映画を見る機会が増えるかも。

昨日の続きですが、オペラというのは、西欧のものであり、自ずと母国語以外の言語によるもので、音楽家や演劇関係ではない日本人がオペラを観る、というのは、なにか、少し肩に力をいれるもの、のような気がします。

また、以前、鈴木道彦訳の「失われた時を求めて」の月報で、オペラにおける階級の話を聞いたこともあります。
外国人である我々がどこまで入ることが出来る世界なのか。

つまり、アウェイ感満載なのがオペラということなんですが、それにしてもなお魅力的であり続けるという恐ろしさ。そして、どうにも興味が止まらないという不思議さ。

おそらくは、非西欧諸国で最も早く西欧化に成功した日本が故にできることとも言えると思います。それから、オペラ自体が変わり続けているということもあるのでしょう。がゆえに、昨年の新国立劇場《パルジファル》では、とうとう仏教の僧侶が登場してしまいましたから。

西欧音楽が普遍を目指しているその証の一つである、と言われるものなのかもしれません。それは、まるで普遍を目指しているのはカトリシズムと似ています。それが真に普遍なのか、というとそれはそれでまた大きな問題です。

それから、私はこの考えをしている最中に、昨年の新国立劇場での《鹿鳴館》を思い出すのです。鹿鳴館で踊る人々の姿は、実に示唆的で、考えさせられるものでしたので。

まあ、考えすぎずに、お酒でも飲みながら舞台を愉しむのが一番かも。特に何もなければ、次の《こうもり》に行けると思いますので、愉しむ事ができるといいのですけれど。


今朝のニュースは残念な結果でした。ですが、それはすでに必然だったのかもしれません。今日の21時からNスペで、当該問題についてのレポートを見ました。分かり合えない人間。分かり合えない文明同士。ただ、世界史レベルで言えることは、文明というものは流動的である、ということです。数百年というレベルにおいて、今回の問題はどう位置づけられるか。世界は「正しい方向」に進むわけではありません。常に波のように上下に振れていくものではないか。そういう見方もできなくもなく、が故に、心配ばかりです。


おっと、そういえば、1月は毎日欠かさず更新でした。ブログ始めてから初めてかも。なにか効果が出れば良いのですが。

ではグーテナハトです。

Opera

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いつもの写真ですいません。月が出ている夕方の風景。東京の冬の空は最高です。何度も書いているように観光資源ですね。

今日はなんとか休息日。ですが、とある原稿の〆切なのでピリピリしています。物書きに〆切はつきものですが、このピリピリした感覚はどうしようもないですね。なんとか計画的にことを進めようとはしていますけれど、計画通りには行きません。最近はそれでも随分計画的に継続的に事をすすめることができるようになったので、精神的には楽なのですが。

オペラティック (批評の小径)
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そうそう、今読んでいるレリスの「オペラティック」のことで一つ思いました。

レリスは闘牛愛好家ですが、オペラ愛好家も闘牛愛好家も似ている、と示唆しています。オペラもまた闘牛のように、なにかしら手に汗を握るということがあるのかもしれないのでしょう。あの難しい場所をどう乗り切るのかとか、あの高音をヒットしてスゴイ、とか、そういうパフォーマンス性が大事なのでしょう。本当のオペラ愛好家はパフォーマンスを大事にします。レコードだけであれば、それは音楽愛好家なのであり、オペラ愛好家ではないのである、と。

まあ、しかし、時代が違いますので、現代に置き換えて考えてみますと、確かに実演に行けるのが一番です。ですが、最近では、ライブビューイングというのがありますよね。ネットや映画館でパフォーマンスを味わえるというものです。同じ空間を共有できればなおいいのですが、ライヴ性という意味では、ライブビューイングもギリギリ大丈夫ではないか、と思います。

オペラ映画は、編集が入りますが、ライブビューイングは、スキームにもよりますが、編集が入らないこともあり、そうした緊張感がライヴ性を保つのではないでしょうか。

ただ、ですね。。。やはり音楽というのは、音だけではなく、ましてやオペラはパフォーマンスだけではない、というのも事実です。その場所に行き、その場所の空気を感じる、ということ。そういうことも大事なのではないか、という見方もあるでしょう。

で、この続きは明日。だとした場合、我々はこの場でなにができるのか、ということ。これが難しいのです。

取り急ぎグーテナハトです。

2014/2015シーズン,NNTT:新国立劇場,Opera,Richard Wagner

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1月の新国立劇場は《さまよえるオランダ人」でしたね。

飯守泰次郎さんの指揮が素晴らしかったです、緊密というか、Solidという言葉を思いだしながら聴いていました。前回のパルジファルと同じく、微細なテンポコントロールが見事で、ダイナミズムや重厚さを表現していたと思います。

で、なんだか変なことに気づいてしまいました。

《オランダ人》は《アラベラ》と似てますね。オランダ人もマンドリーカも父親が連れてきた花婿で、あまり世間なれしていない男。で、ふたりとも妻となるべき女性の素振りを誤解して、すねてしまうという。《オランダ人》にも《アラベラ》にもそれぞれ、エリック、あるいはマッテオという、ヒロインに片思いを寄せる男が出てきますし。

2010年新国立劇場《アラベラ》のマンドリーカも、今回のオランダ人もどちらも、トーマス・ヨハネス・マイヤーで、私は強い既視感を覚えまして、こんなことを思いついてしまいました。もちろん、トーマス・ヨハネス。マイヤーの歌唱はやはり素晴らしかったのです。この方の《ヴォツェック》は忘れられないですね。

でも、この考え、意外と図星かも。同じことを考えている方がいらっしゃいました。「頭がいい人、悪い人の話し方」を書かれた樋口裕一さんです。

http://yuichi-higuchi.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-283f.html

リンク先は、その2010年の《アラベッラ》についての感想を書いておられます。もう4年も前の話ですね。

それにしても、いろいろ興味深いです。もう少し考えてみないと。

なんだか今日も世界の波にのまれるような一日でした。いろいろありますが、良いことばかりではありません。

ではグーテナハトです。

NNTT:新国立劇場

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来シーズンの新国立劇場ラインナップがでましたね。少し遅れましたが、以下のとおりでした。

  • ラインの黄金(新制作)
  • トスカ
  • ファルスタッフ
  • 魔笛
  • イェヌーファ(新制作)
  • サロメ
  • ウェルテル(新制作)
  • アンドレア・シェニエ
  • ローエングリン
  • 夕鶴

新制作が三つ。また新たなリングが始まりますね。楽しみです。

来シーズンは、劇場へのでかけ方を少し変える必要があるかも、などと思っています。

取り急ぎ。

Book,Opera

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先日の続きです。

オペラと映画、といった時に、レリスは「映画がオペラを救う」とありましたが、実際にはそうではないのでしょう。映画はオペラの座を奪ったのでしょう。オペラの後継が映画なのです。

逆に言うと、そういう意味では、映画はオペラを救ったとも言えると思います。

人々にプロットと音楽を一度に見せるという機能を持っていたのは、かつてはオペラや演劇でしたが、その主役は映画になった、といえるのですから。オペラや演劇という、コストのかかるプロットから、映画というコストレス(あるいは、収益率の高い、かもしれませんが)なしくみができたと言うことが重要なのかもしれない、などと思いました。

やはり、大勢の観客が一堂に集まって、一つのスペクタクルを共有するというのは大事なことなのでしょう。たとえ、観客同士が知己でなくとも。

その感覚を、黒田恭一さんが「はじめてのクラシック」という本で書かれていたのを覚えています。もう30年以上前に読んだのですが、確か第九の感動的なレコードを聴いていたのだが、聞き終わると虚しさを感じた、というった話だったと思います。

映画館での映画も、オペラも演劇も、観客が一つの機会においてある意味「拘束」され、一つのプロットに向き合うという仕組みが、大切なのではないか、と思います。

後もう3つねるとお正月。お正月には餅食べて、お掃除をして、休みましょう。早く書け書け年賀状。

頑張ります。。

ではグーテナハトです。

Book,Opera

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また、レリスの《オペラティック》を、NHK-FMの《神々の黄昏》を聴きながら読みつまんでいます。美しい装丁ですね。

オペラ映画について書いているところが、いつも私が考えていることが書いてあり、面白かったです。というか、これはすでに1958年には考えられていたことなんですが。

オペラ映画は、オペラではない、ということが書かれています。レリスが《蝶々夫人》のオペラ映画を見た後に、指揮者であるマッソンに「これからは、オペラは映画によって救われるのではないか」というのですが、マッソンはそうではないと応えるわけです。

「パフォーマンス」としての側面が映画では消えてしまうわけで、そうすると失敗する恐れのないハイCは、その価値をなくしてしまうのだ、と。成功するまで何度も何度もやり直しが出来るわけですから、その魅力は減じてしまう、というわけです。

その場その場の音組織は全く変わらないわけですが、我々はやはり文脈の中におけるその音の意味を捉えているわけです。だからこそ「パフォーマンス」という観点があり、そこで音楽に命が吹き込まれている、ということなのでしょう。

これは、実に非論理的なものです。ですが、その類例が、今年の2月にあったあの「愉快な」佐村河内事件に見て取ることができるでしょう。たとえば、どんなに技術的に問題があったとしても、それが自分の息子や娘の演奏であれば、素晴らしい演奏に聞こえる可能性だってあるということなのですから。

レリスは「真のオペラ愛好家はオペラを実際に意味肉人間である」というようなことを言っています。それはまさにその通りなんですね。音だけ聞いても理解した事にはならず、映像を見ても、なにか煮え切れないものが有ります。実演に接して何時間も椅子の上にいて、その場に居合わせるということが、大切なことなのです。ですが、それは現代日本においてはハードル高いですね。

もっとも、1958年と違うのは、ライヴ映像がリリースされているとか、ライブビューイングを見ることができるようになった、という具合に、映画とは違う形のコンテンツがあるということだとも思いました。ライヴのDVDを見るとか、いろいろな工夫をしてみないといけないです。

冬至を回って徐々に春に近づいています。インフルエンザ大流行だそうです。みなさまどうかお気をつけて。私も最近はマスクをしてでかけています。

ではグーテナハトです。

Giacomo Puccini,Opera

はじめに

船便のボジョレーだそうです。

先日のんだボジョレー。船便だそうです。一ヶ月ぐらいしてから届きました。なかなか美味しくいただきました。ボジョレーなのにラベルが英語って、いったい。。

Puccini: La Boheme
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今日のNHK-FMの「名演奏家ライブラリー」はミレッラ・フレーニでした。私も、フレーニの音源は沢山持っています。特にオペラを聴き始めた頃に聴いたカラヤン盤《ラ・ボエーム》は思い出深いですね。その他、シノポリ盤《マノン・レスコー》も素晴らしいです。

《ラ・ボエーム》は、番組の一番最後にオンエアされました。フレーニとパヴァロッティ。まさに教科書というかカノンというか、そういう規範的なボエームです。

第一幕の後半部、ミミが、ロドルフォの部屋に来て蝋燭の火を借りに来るんですが、これは逆ナンパではないか説が有力ですね。そういう解釈に従った演出もあるそうです。メルビッシュ湖上音楽祭でやったボエームがその解釈をとっていた気がします。蝋燭の火を借りて「おやすみなさい」といったあとに、とつぜん鍵落とすんですから。わざとらしいと行ったら、という感じです。

ロドルフォは詩人ですが、ミミも造花を作っているといいながら、それは詩なのだ、といったりして、まったく。。

たしか、プッチーニは原作にあったミミの強気な性格をかなり弱めたんですが、それでもなお残っているという感じなのでしょう。

一九世紀におけるボヘミアン

ボヘームというのは、ボヘミアンという意味。まあ、ボヘミアからきたロマの方々を自由人としてみて、そこから、自由奔放な考え方をする若者たちをボヘミアンと称したということで、《ラ・ボエーム》。描かれた若者たちはボヘミアン。

ロドルフォは詩人、マルチェロは画家、ショナールは音楽家、コッリーネは哲学者。一九世紀パリ。

この頃、もっとも先進的な職業がこれらだったんでしょうね。

私の大学の先生が入っていた言葉が思い出されます。哲学に優秀な人材が集まっていたのは二〇世紀初頭までである、と。

逆に言うと、それ以前は哲学に優秀な人材が集まっていたはず。もちろんそれは哲学に代表される文化一般であるはずで、文学、絵画、音楽、哲学という人文系職業にも優秀な人材が集まっていたはず。

というのが私の勝手な想像で、それはつまり、第一次世界大戦までパリにあったサロンにおいて、文学、絵画、音楽、哲学などが力を持っていた、というのはプルーストを読むと何となく分かるなあ、というわけです。

現代におけるボヘミアンは?

現代でいうと、彼らはだれなんだろう、と思うことがあります。ビジネスマン、起業家? 

私は、NYやシリコンバレーでITベンチャーを立ち上げている人々がそれに当たるのではないか、と思うのです。ビル・ゲイツとかスティーブ・ジョブスとか、そういう偉大な起業家たちがそれではないかと。

一九世紀にあって、文化が先鞭をつけた自由主義が世界を変えると思われていたわけですが、今、世界を変えうるのはITであるはずです。

パリを手に入れるぜ、というのは、今で言うと、NYやシリコンバレーで一旗あげるぜ、とうことになるんでしょうね。私はそう思ってます。

わたし、一つウソを書いています。つまり、世界を変えうるのはITだった、ということだったのかもしれません。つまり過去形。

あの1990年代後半のインターネット時代の開幕の熱狂はどこへ行ってしまったのか。ITバブル真っ盛りの時「世の中が変わったのであるから、市場は絶対に落ちない」という幻想がまことしやかに語られていたのも思い出します。

その次に訪れたのは、ITバブルの崩壊、リーマンショック。それから、ネットを舞台にしたサイバー戦争です。ネットは自由をもたらすものと思われましたが、とある大国では規制がかけられ、いまや監視装置になっています。

私は戦前に若い時代を過ごされた年配の方がネットに恐怖心を抱くのは、こうしたことを察しているからではないか、と思っています。

では、次にボヘミアンたちはどこに行くんだろう? 何を作るんだろう。最近、そんなことを考えてます。

ではグーテナハトです。

2014/2015シーズン,Giuseppe Verdi,NNTT:新国立劇場,Opera

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引き続き、先日の新国立劇場《ドン・カルロ》について。今から思っても本当に興味深いドラマでした。

登場人物の一人、宗教裁判長。彼は、王に意見することができるほどの権力の持ち主です。

王と聖職者の関係は、ドイツ国防軍やソ連における指揮官と政治将校、かつての日本における校長と配属将校の関係に似てます。指揮権とは別系統の指揮権が存在するという状況ですから。

フーコーの概念に司牧者権力というものがあります。他者の幸福を目的とするかのように振舞いますが、実際には教会の支配の原理を維持することが目的である、というものです。観ながらそのことばかり思い出していました。妻屋さん演ずる宗教裁判長はまさにそのように見えるもの。年老いて、杖を付きながらも、磔刑像を権力の象徴のように持ち歩いていました。

これは、確かにカトリックへのある種の抵抗のようなものがあるのかもしれません。19世紀以降の市民革命の時代に会って、旧態依然としたカトリシズムへの反抗のようなものは少なからなずあったでしょうから。

それに加えて、この《ドン・カルロ》が作曲された時代というものを考える必要があります。

これには、イタリア王国とローマ教皇の対立が背景にあるのもあるでしょう。作曲されたのは1865年から1866年にかけて、とされています。ちょうど、イタリア統一運動の中に会って、ローマの領有をめぐって、教皇とイタリア王が鍔迫り合いをしていた頃です。1864年12月8日(まさに今日ですね)には誤謬表というものが教皇によって発布されました。これは自由主義は誤っているという詔勅だったわけで、批判や議論が巻き起こったようです。

こうした、イタリアにおける王国と教皇の対立も、この《ドン・カルロ》のドラマになにかしらの影響を与えていると考えるとなにか首肯できるものがあります。

がゆえに、《ドン・カルロ》の初演で、ナポレオン三世の后であるウジェニー皇后は席を立ったのかもしれません。wikiにはウジェニーはカトリックだったので、ということになっていますが、私の勝手な想像では、教皇領をめぐってフランスとイタリアは対立状況にあったので、そういうことも背景にあったのではないかと思っています。教皇領を守っていたのはフランス軍でしたし。

もちろん、この手の、ヴェルディと政治運動の関連性に安易に飛びつくことの危険性も指摘しておきたいとおもいます。あの、Verdi = ヴィットリオ・エマヌエーレ万歳!という都市伝説のような胡散臭さというものは常につきまといますから。その辺りは以下のリンク先の記事をどうぞ。

https://museum.projectmnh.com/2013/05/18235903.php
https://museum.projectmnh.com/2013/05/19105240.php

というわけで、取り急ぎグーテナハト。

2014/2015シーズン,Giuseppe Verdi,NNTT:新国立劇場,Opera

霜柱ゲット。

今朝は冷え込みました。本日撮影した霜柱です。

高校のころ、冬場にグラウンドに霜柱ができまくって、部活の練習ができず困っていたようです。朝方に立った霜柱は夕方には泥濘となりますから。

で、体育の時間に、霜予防の薬剤をまるまる一時間グラウンドに散布しました。それも何週間も何週間も。本当はバスケットをやる時間だったんですが。四回目ぐらい、さすがに生徒はキレてましたね。一回ならいいが、四回連続で部活のために体育の時間で作業をさせるのは何事だ、と。

まあ、世の中そういうものです。

カトリシズムの話の前に一つだけ。フェリペ2世の父親は、いわゆるカール5世です。ハプスブルク家最大版図を築いた王。それも戦争ではなく婚姻で、というやつです。高校時代にかじったポール・ケネディ「大国の興亡」の冒頭がカール5世だったんですが、予備知識なくして読めるわけもなく。その後高校で世界史を学んでいろいろ理解が進んだ記憶があります。

Charles V, Holy Roman Emperor by Tizian.jpg
Charles V, Holy Roman Emperor by Tizian" by かつてはティツィアーノ・ヴェチェッリオ の作とされていた。. Licensed under Public domain via ウィキメディア・コモンズ.
で、このカール5世は、神聖ローマ帝国肯定としてはカール5世なんですが、スペイン王としてはカルロス1世なんですね。これは有名な話。

《ドン・カルロ》においては、カルロ5世とイタリア語読みとなっていました。カルロ1世でも良いはずなんですが。

原作者シラーはドイツ人ですので、カール5世としたのか。ヴェルディが活躍した頃のイタリアは、オーストリアの支配が及んでいた頃、あるいはその直後だったのでカール5世のままとしたのか。

ちなみに、ウィキペディアには、初号一覧が乗っていて、とても興味深いです。シチリア王としてはカルロ1世。オーストリア大公としてはカール1世。ブルゴーニュ公としてはシャルル2世、だそうです。

痛風に悩まされ、統治と戦争につかれたカール5世は晩年修道院に隠遁するそうです。なるほど。こういう権力者もいるということなのですね。

それでは取り急ぎグーテナハトです。

2014/2015シーズン,Giuseppe Verdi,NNTT:新国立劇場,Opera

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蒼天へと向かう木々も葉を枯らして冬支度をしています。私も冬支度をしたいところですが、なかなか。。この前、「夏だけどカラッとしてる」なんて書いた気がしますが、あっという間に冬です。

東京の冬は、実のところ快適なのかも、などと。とあるドイツ人は「東京の冬の青空は観光資源だ!」言っていた、というエピソードを思い出しました。確かに鉛色の曇天のもと何日もすごさなければならないヨーロッパの冬に比べると、東京のカラッとした冬空は魅力的なのかもしれません。ちなみに、このエピソード、ICEの中で偶然同席した某大学の哲学科教授から伺ったものです。

さて、新国立劇場《ドン・カルロ》の件。やはり後期ヴェルディは面白いですね。人間ドラマ、歴史ドラマを堪能しました。

スペイン王宮が舞台となるこのオペラですが、主人公ドン・カルロの父親がフェリペ2世です。あのスペインの黄金期を体現したフェリペ二世です。劇中ではフィリポ二世ですが、スペイン語読みではフェリペ二世です。

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King PhilipII of Spain" by アントニス・モルWeb Gallery of Art:   Image  Info about artwork. Licensed under Public domain via ウィキメディア・コモンズ.

フェリペの逡巡の場面がありました。エリザベッタの愛情を得られていない、と苦悩する場面です。

ですが、あれは文学者が作り出した幻想だと思いました。あんなことつゆぞ思わないのが権力者でしょう。文学者は、こうして溜飲下げているにすぎません。権力者にああした心の動きがあるのか。権力者は心を明かすことはありません。きっと、我々が、権力者を憐れむことで、何かを代謝しているに過ぎないのだと思います。

フェリペ二世はエリザベッタに愛されなくても何も気にしないのではないか。がゆえに、エボリ公女とも関係を持つわけです。そう思いました。世間の権力者というものは、芸術生成者
とは全く異なる論理で動いていますから。

そうした前提にたって、フィクションとしてのフェリペの苦悩を味わうのが、あのシーンの権力者への嗜虐的な感情を持ちながら観るのが醍醐味だったのかもしれない。などと思います。

人間と人間は、思った以上にわかりあえないものです。一人ひとりが、独立した宇宙と論理を持っているわけですから。約束も守らず、嘘を突き通すような人間はあまたいるわけです。

ですが、長い歴史において、今もなお文字として残るのは芸術生成者の手になるものに限られるのかもしれず、そうだとすると、いわゆる「芸術生成者史観」のようなものに基づいた権力者像というものが、現在残っているにすぎないのではないか、などと思うわけです。

がゆえに、実のところ、私はあのフェリペ逡巡の場面にはリアリティを感じることができなかった、ということになるのかもしれません。

もっとも、リアリティとはなにか、という問題も生じてくるわけです。(1)事実と、(2)歴史的事実と、(3)事実の解釈、この3つのズレのようなものがあるわけで、ここでのフェリペ像は、この三者のどれに当たるのか、ということが問題で、劇中のフェリペは(3)事実の解釈に基づくもの、とすれば、それはそれで首肯すべきものなのかもしれません。

そういえば、この劇におけるカトリシズムの問題も興味深いです。そちらは次回です。

ではグーテナハトです。おやすみなさい。