Tsuji Kunio

日本の貧しさがそのまま精神の貧しさに直結しているような思い──それは私を何度か焦燥と不安にかりたてたのも事実だった。それで最初に取り除かれたのは、十年前はじめてギリシアでパルテノンの神殿を観たときである(中略)それまでの私は、現実の貧しさが精神の貧しさに直結していると、ほとんど無意識に考えていた。それは逆に言えば、豊かな精神、豊かな芸術は、豊かな生活の結果にうまれると信じることに他ならなかった。なるほど古代ギリシア文化が地中海公益と植民地支配による富の一結果であることは事実であろう。にもかかwらずこの精神の豊かさに匹敵しうる生活の豊かさなど、ほとんど存在するとは思えなかった。そこには、なにか言いしれぬ隔絶があった。ギリシアの不毛の自然が象徴するごとき貧しい現実と、神殿が象徴するごとき豊かな精神との、きわめて明白な対立があった。つまり人間の精神は、貧しい現実をこえて、かくも豊かな内容をつくりあげたという、啓示的な事実が、そこに示されていた。

辻邦生「文学のなかの現実」辻邦生全集17巻、2005年、293ページ

最近、パルテノン体験に関する文章がどんどん目に入ってきているのですが、この文章が収められた「文学の中の現実」という文章を本日見つけました。これは1969年10月8日、9日の両日にわたって読売新聞に掲載された文章のようで、「海辺の墓地から」ならびに「辻邦生全集第17巻」に収められています。前回の「時の終わりへの旅」を遡りますが取り上げます。

ギリシアの貧しい過酷な状況にあっても、精神的高みにあれば、パルテノンを打ち立てることができるのである、という直感です。物質的な豊かさが精神的豊かさを生み出すのではなく、精神的豊かさが物質的豊かさを作り上げるのである、ということです。

確かに、物質的豊かさ=現実があってから初めて、精神的豊かさ=芸術がある、というのが一般的な考え方です。まずは、営利事業があって、その余裕でもって文化事業をなす、というのが社会の常識でしょう。だから、文学であっても音楽であっても、それらは社会を支える本質的なものではあり得ないとされているわけです。

しかし、どうもそれは逆ではないか、と問うているように思うのです。精神的豊かさと物質的豊かさは論理的な相関関係はありますが、そこには前後関係はなく、同時的論理関係があるということなのではないか、と思うわけです。

物質的豊かさと切り離して、なお精神的豊かさを持てるのが人間の強靱な魂であるということでしょうか。あまりにも厳しい状況にあっても、希望を捨ててはならない、ということで、これは「言葉の箱」においてフランクル「夜の霧」を念頭に語った内容が思い出されます。

言葉が現実の事実と同じように生命を支えていた。あるいは、現実のそういう力委譲に言葉が生命を支えていた。だから、言葉はまったく無力ではない。むしろ言葉があって初めて現実そのものを変えることができるという認識が、しだいに自分のなかに生まれてきたということも、ひとつ大きくつけ加えなければいけません。

辻邦生「言葉の箱」メタローグ、2000年、30ページ

言葉=精神的豊かさが現実を変えることができるという信念は、パルテノン体験によって得られた直感だっと思います。がゆえに、精神的豊かさもやはり物質的豊かさと同じように大切なのでしょう。フランスやドイツなどが文化を大切にする理由がわかるような気がします。文化を大切にすると後から経済的豊かさがついてくる、ということをわかっているのでしょう。(私はあまり好きではありませんが)ゴールを設定して仕事を進める流行の仕事方法と同じではないか、とも思うのです。

Tsuji Kunio

あらゆる滅びの上に立つ思念の永遠な姿──パルテノンの神殿はそうしたものをぼくに啓示した。ぼくは当時<美なるもの>が人間感情の対応物として存在しながら、なぜそれが人間の運命とかかわりを持つのか、わからなかった。<美>も所詮人間の恣意的な偶発的な感情の沸騰によって生み出される一個物にすぎないのではないか、と考えていた。(中略)僕には<美>の苛烈さはまだ見えていなかった。主観的な世界が、本当は、透明化することで、真の客観に達することも知らなかった。それらの仕事が、抵抗ある現実に働きかけるのと同等の、時にはそれ以上の、精神の強さを必要とすることも、当時のぼくには、まだ本当に気づかれていなかった。それを一挙に覆し<美>こそが滅びの現実を包み、人々に<生>の意味を与えていると言うことを直覚させたのが、このパルテノン神殿を仰ぎみた瞬間だった。その仄暗いまでの形象の高貴さが、百万の説明を跳び越えて、いきなりぼくの心に<美>の本質を照明して見せたのだった。

辻邦生「時の終わりへの旅」219ページ 太字としたのは今回。

パルテノン体験の17年後、1976年9月10日に、再び訪れたアテネで書かれた日記に記された、1959年のパルテノン体験についての記載です。

さすがに新たに激動的な啓示を受けるということはなく、17年前のことを思い出しながら反省的に書いた文章となっています。しかし、がゆえに、その後の思想の発展によってその意味が成長しているように思うのです。

ここで<美>が人間の運命と関わる、という記載があります。1959年のパルテノン体験の記載では、「「人間」をして「人間とせしめる」というような、人間性を保持する機能としてのパルテノンが書かれていました。動物的な人間、ただ生きるためだけの人間ではなく、そこに自然に対して反抗し対立し、動物的から人間的へと向上せしめるシンボルとしてのパルテノンが書かれていた、と理解していました。

しかし、ここでは、「人間の運命と関わる」「人々に<生>の意味を与えている」というように、人間一般ではなく、人間個々人の運命に対して<美>がなにかしらの影響力を持つシンボルとしてのパルテノンが書かれているように思えます。

人間一般を支える<美>から、さらに一人一人の人間の運命を支える<美>の根拠としてのパルテノン。人間の歴史を支えるという大きな存在としてではなく、個々人の人生を支えるもの、あるいは変えてしまうものとして<美>が捉えられるようになっています。

先日、「「作品が湛えている美に触れることは、その後の生き方を決定的に変えてしまう」」という辻邦生の言葉を紹介しましたが、それにあたります。

昔、クライバーの振る《ばらの騎士》の映像を見て、人生が変わってしまったという話を聞いた記憶があります。私も、辻文学に接してどうも人生が変わってきてしまった気がしていますが、それほどの力を持つものとしての<美>がパルテノン体験によって捉えられた、ということなのだと思います。

つづく

Tsuji Kunio

厳しい不毛の岩山にすぎないアクロポリスの丘の上に立つかくも典雅な人間精神の均整をしめすパルテノンの神殿は、ギリシャ人の、宿命に打ちかつ強靱な魂を象徴している。

辻邦生「物語と小説のあいだ」『小説への序章』河出文芸選書 1976年 31ページ

辻邦生の小説論が納められている「小説への序章」。その最初の論文である「物語と小説のあいだ」にパルテノン神殿についての記述があります。

原始世界においては、物語=ナラシオンが思考、伝達、記憶を支配していましたが、一般的な抽象概念による思考、伝達、記憶に取って代わることで、近代において「小説」へと発展していくことが語られるのですが、そのなかで「ギリシア精神の勝利」という形で、ギリシアにおいては、近代的な抽象概念に陥る前に、人間を人間の空間に導いた、と述べているところでこのパルテノン神殿についての記載が現れます。

それは、物語=神話から小説へと移行する時代の流れにあって、物語=神話世界にありながらもなお、人間精神の典雅さを表すものとして、パルテノンを取り上げているということになります。

神話世界においては集団表象において、神話こそが真実であり、そこに没頭することになります。あくまで神話の文脈の中に人はいますので、おそらくは自我というものもなく、ただ神話世界の一つの事物としての個人があるわけで、個人は、物語=神話によって形成された集団表象、あるいは集団表象によって形成された物語=神話、なかに埋没することになり、人間たるべきことすらもわからないままとなるはずです。

しかしこのギリシアのパルテノンにおいては、物語=神話の世界にありながらも、そこに人間精神が樹立していることを、不毛な岩山の上にパルテノンを築くことによって実現した、ということなのでしょう。それは、宿命に打ち勝つ強靱な魂です。神話の世界にあって、人間の精神を表すということ。そうした、曖昧模糊とした神話のなかに人間精神を屹立させたギリシア精神の勝利を表すものとして、パルテノンが取り上げられているように考えます。

おそらくは、西欧近代における、主客が分離し、事物に概念を付加する形での認識形式ではなく、それ以前の世界と個人が合一した神話的認識の最終局面においてギリシア精神が果たした役割が述べられいて、その象徴としてパルテノンに言及された、ということと解釈します。

近代の営為としての科学的認識である主観と客観が分離した認識論の所産として小説形式が存在するのですが、そうした知的空間の「無色な、冷たい、無関心」な事物にあえぎ始めているのが現代=つまり私はそれを第一次大戦後と捉えましたが、それこそが現代であり、もう一度そうした科学認識から物語=神話的認識への揺り戻しが必要である、と説いているように思うのです。

そうした、神話的認識においてもなお、主観=人間性が存立しうるアンビバレントな状況を象徴するのが、パルテノンという場であるとしている、と捉えました。

おそらくは歴史というものは、経過するたびに積み重なるもので、実のところ過去への遡及は、想起という形で可能なのです。そういう意味で言うと、古代ギリシアから近代欧州の認識論も、その歴史を突き刺せば同時に存立するわけで、パルテノンに象徴されるギリシア精神は、神話的認識論と近代的認識論の間にあって、それが実のところ、次の小説=芸術において立脚すべき立場である、と辻邦生は言っているように思います。この論説の題名は「物語と小説のあいだ」ですが、それが「神話的認識論と近代的認識論のあいだ」と読み替えることができるのでしょう。

世界には進歩史観において発展しているようにも見えますが、実のところ、時間を流れる帯として捉えたとしても円環か螺旋のように同じところへと回帰するものです。あるいは、永遠の相のなかでとらえるのであれば、永遠とは共時=同時ですので、ギリシアも近代も同じ場所にいるのです。ギリシアという数千年前の事物であったとしても、その必要性というものは、現代であっても、フランス革命後のロマン派時代であっても、ルネサンス時代であっても、いずれの場所に置いても色あせることはないと思います。

人間の歴史はおそらくは進歩ではなく円環です。人間が求めるものは数万年の単位で同じはず。そうした世界認識においては、パルテノンの屹立は、その時代においてなされた輝きではなく、人類の歴史という名で語られる人類の「総体」において強く輝き続ける光芒なのだと思います。

つづく

Tsuji Kunio

この遠く嶮しい岩山の上に端然と立つアクロポリスの姿であったのが、そしてそれが、与えられた自然の意志に抗し、人間の領域を切りひらき、「人間」をして「人間」とせしめた人間の意志を表しているのが、僕には痛いように分かったのだった。(中略)それは人間を人間の根源の存在にまで連れもどす。あまりに強烈な自然に対して、それは人間を不毛にすると叫ぶことが許されないのを、これほど明瞭に語るものはない。それはまさしく運命に抗い運命にうちかつ姿そのものだ。

辻邦生「パリの手記Ⅳ岬そして啓示」11ページ

「パリの手記」として出版されている当時の日記の該当部分がこちらです。1959年8月24日の日付で、アテネのアカデミア街にて書かれたものとされています。

この記載が、おそらくは辻邦生パルテノン体験に関する最初の認識・記述に当たる部分と考えてよいと思います。西欧的な自然理解である、混沌とした自然のなかに人間の意思としてのパルテノンを打ちたて秩序づけた、という認識と思います。

この日記の冒頭において、ギリシアの自然の厳しさを驚きとともに、アラビアの砂漠と比べながら「荒涼とした姿」と表現しています。日本はもちろん、フランスやイタリアと比べても、その荒涼とした自然は辻邦生を驚かせたようで、8月の暑熱のなかに不毛の大地が横たわっているようだったのでしょう。その中に、白いアクロポリスが燦然とあるいは敢然と立ち上がっている姿を見て、「人間を不毛にすると叫ぶことを許さない」とか、「運命に抗い運命にうちかつ」と表現するのでしょう。

なにか、この表現を読んで、ユダヤ教あるいはキリスト教的父なる神の峻厳とした姿を思い浮かべたのですが、やはり辻邦生も「これは「男」の作品であることをある共感を持って思わない訳には行かなかった」と書いていて、また「アラビアの砂漠が生んだのは、地中海のもう一つの文化」と書いていることから、砂漠から生まれたユダヤ教、キリスト教を意識した秩序の象徴として、パルテノン神殿を認識しているように考えます。

そして、今読み返してみるとここには、パルテノンの「美」についての言及があまりないことに気がつきます。わずかに「美しく、均整のある、典雅な」「その廃墟の丘の石柱は美しい彫りのかげをきざんで」「自然らしい優雅さ」という表現が記載されているだけで、一環して人間を支える秩序のシンボルとしての側面が強調されているように思いますし、よくよく読むと「パルテノン」という言葉は綴られることがなく、すべて「アクロポリス」という言葉において述べられるだけです。

なにか、一神教的父なる神としてのパルテノン=アクロポリスを感じます。「人間」をして「人間」とせしめた、とはまるで、神が自らの姿に似せて人間を創ったという言葉とも通じるものです。それは西欧文明を基礎づけるものとして、ヘブライズムとヘレニズムがあげられますが、その二つをも統べるものである化のようにパルテノンが位置づけられているように思え、それは曼荼羅のように、人間あるいは世界を根底で支える汎的な秩序を具現化したものとも思います。

ともかく、辻邦生の世界認識を得た激しい興奮とともに書かれた文章は、なにか荒削りな力強さを感じ、ミケランジェロの未完のピエタのような存在感を感じるものです。

つづく

Tsuji Kunio

パルテノン神殿

辻邦生の文学は、西欧的な光が差し込む日本の旧い街並みを思い起こさせるものです。それはなにか長崎の街が持つ、アンビバレントな感覚にも似ていますが、実のところ、それは単に、世界の中に日本がある、という単純な事実を想起させるだけのものです。

この世界の中に日本がある、という感覚において、「世界」とは、中国であったり、インドであったり、あるいはヨーロッパであったりするわけですが、この400年あまりにおいて西欧が世界を席巻していた状況下においては、あるいは明治維新以降から終戦に至る状況においては「世界」とはすなわち西欧を示すことがになるわけで、日本と世界=西欧の対立関係あるいは協調関係を考えることが一つの精神的な軛であったのではと思うのです。

辻邦生も、終戦後、戦時中の快くない思い出に接する中で、西欧文明へと向かうわけで、それはパリへの留学に向かい、パリで徹底的に西欧を考えることになるわけです。ですが、それはパリにとどまるものではありません。パリ留学時代の日記を再構成した「パリの手記」を読むと、ヨーロッパ各地へ辻邦生が旅行し、そこで多くの経験・体験を積んで、西欧文明を血と肉に取り込んでいった過程がわかるのです。

その中でも特筆すべき経験が、ギリシアへの旅ということがいえましょう。経済的な不安を抱えながらも、イタリア半島を経由して、船で地中海を東進しペロポネソス半島へと上陸して、ギリシアの地を踏んだ先にあったのが、パルテノン神殿だったのです。

このパルテノン神殿に感じた「啓示」が、辻邦生作品を支えた三つの「啓示」の一つにあたります。

辻邦生の三つの啓示とは以下の3つであり、辻邦生の小説論である「小説への序章」において語られているように、辻文学を基礎付け、執筆の原動力となった重要な体験です。

  • パルテノン体験
  • 一輪の薔薇はすべての薔薇
  • ポン・デ・ザール体験

その中でも多くの作品群の中で何度も語られ、特に印象的なものが「パルテノン体験」なのです。このパルテノン体験は、おそらくは、芸術を基礎づける直感的な体験として得られたものであるはずです。

このパルテノン体験について、2018年11月に、Facebook辻邦生グループ「永遠の初夏に立ちて」のオフ会で、いくらかまとめた内容を発表しました。しかしながら、当時は私が持ち込んだインフラがうまく整わず、また私の準備状況も至らず、うまく発表できなかったという思いがあります。

あらためて、この場で、辻邦生のパルテノン体験にまつわるいくつかテキストを取り上げて、その意味とその指し示すところの変遷を考えたいと思いました。

つづく