レニングラードをロジェストベンスキーの指揮で。

チック・コリアを聴いていたら、なぜかショスタコが聴きたくなりました。

暗く静かな世界を見たくなったのかも。

で、交響曲第七番《レニングラード》。ロジェストヴェンスキーの指揮で。


暗鬱、戦闘、悲しみ、勝利の予感?

描かれていることは、レニングラード攻防戦という陰惨な出来事だというのに、なぜ聞くのだろう、と思いました。本当に戦争は嫌なものです。

ロジェストヴェンスキーの指揮、昔から結構好きでした。とくに交響曲第10番を聴いたときの衝撃は忘れられません。まだソ連があった頃に聴いたはずで、NHK-FMのエアチェックテープを何度も何度も聞いた記憶があります。躍動感、炸裂感…。

やはりこの音源も素晴らしい。何というか、ソ連がアメリカと張り合っていたころのソ連の推進力のようなものを感じたり。オケの名前はソヴィエト国立文化省交響楽団。そして懐かしのメロディアレーベル。時代を感じさせます。

さて、それにしても、今週は本当大変でした。一体何回会議をやったんだろう? 4日間で19回でした……。

それではみなさま、よい週末を!

おやすみなさい。グーテナハトです。

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辻邦生 「言葉が輝くとき」よりリルケの詩「かりそめに過ぎて」

辻邦生はリルケに関係する著作がいくつかあります。一つは有名な「薔薇の沈黙」。美しい本です。

一方、先日、書棚にある講演録「言葉が輝くとき」を取り出していたところ、ここにもやはりリルケの素晴らしい詩について語られていました。

これは、1990年に不二聖心女子学院での講演「詩をよむ心」の講演録に含まれているものでした。リルケの「果樹園」という詩集に入っている「かりそめに過ぎて」という詩です。

かりそめに通り過ぎて

 

かりそめに通り過ぎて

十分に愛さなかった かずかずの場所への郷愁よ

それらの場所へ 遠方から なんと私は与えたいことか──

仕忘れていた身ぶりを つぐないの行いを!

 

もう一度──今度は独りで──あの旅を

静かにやり直したい

あの泉のところにもっと永くとどまっていたい

あの樹にさわりたい あのベンチを愛撫したい……

 

つまらないと皆が言う

あの独りぼっちの礼拝堂まで登ってゆきたい

あの墓地の鉄柵の扉を押してはいり

あんなにも無言なあの墓地とともに無言でありたい

 

なぜなら 今や こまやかな敬虔な

ある接触を持つことが大切な時ではないか?──

ある人は この地上のものの強さによって強かった

ある人は 地上のものを知らないために愚痴をこぼす

辻邦生「言葉が輝くとき」27ページ

孫引きになってしまいますが、片山敏彦さんが訳されたものを辻邦生が引用し、若い女学生に説明をしています。さまざまな事物を見過ごすのではなく、かけがいのないものとして味わい直すと言うこと。それが、私たちをもう一度生きるという意味に立ち返らせてくれるのだ、ということ。こういったことを、辻邦生が静かに女学生たちに語っている姿が想像出来ます。

それにしても、この、今、ここ、を愛おしむ感興は、実に甘美であり、実に真剣であり、実に厳しいものです。

私は最初に読んだとき、「あの旅」と言う言葉に反応し、旅行という非日常において、なにか旅行で触れた事物への愛惜の念が描かれているように思ったのです。しかし、実のところ、人生こそが旅ですので、旅行というよりもむしろ日常において触れるさまざまなものへの愛惜なんだなあ、と思ったのです。

そのときどき、触れるものを大切にし愛しむというのはとても大切ですが、実際にはとても厳しいものです。すべてを愛おしむことは出来ませんので。ですが、たとえそうではあっても、やはりあの樹に触りたいし、あのベンチを愛撫したい。あの時、あの瞬間の思い出を死ぬまで大切にしたい。それでもやはり、すべてに触ることは出来ないし、失われた思い出もある、と言うことなんだなあ、と思います。

だからこそ、「敬虔」という言葉なんだ、と思いました。まるで、不可視である神を見るかのごとく、さまざまな事物すべては不可視であり、が故に、神的性格をも帯びて、敬虔な思いとともに、事物を見るということ、と思います。求めないと神は現れません。同じように、事物に接触=触れるという能動性において、この事物のかけがえのなさと、生きる意味が得られる、ということなんだと想いました。

今、この瞬間に全力を尽くすのが、生きると言うことです。私もそういう生き方をしてみたい、と想います。

思ったより長くなってしまいました。みなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

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Chick CoreaのSummer Nightを聞く。

今朝、とある女性ピアニストのアルバムを聞きました。確かにとても上手いのですか、ピアノとかくぐもったような感じで少し違和感を書きました。

この感覚、昔、感じたことがあります。確か十代の女性ピアニストが弾いていたピアノコンチェルト。実演で聴いたのですか、どうも音が悪いのです。幼い音だなあ、と表現したのを覚えています。

それで、強いタッチのピアノが聴きたいなあ、と思い選んだのがチック・コリアです。

Summer Night。1987年のライブ。アコースティックバンド名義のトリオのアルバム。ドラムのヴェックルと。ベースのパティトゥッチが加わったアルバム。懐かしのカルテットNo.1など、楽しみました。このカルテットNo.1は、一度バンドでやりましたが、難しかったなあ、とか。チック・コリア、シャープな音がたまらないです。夏ではなく秋ですが、Summer Nightで秋の夜を楽しみました。

それにしてもめまぐるしい毎日。今日は会議が朝から9回……。

それではみなさまも秋の夜長をお楽しみください。おやすみなさい。グーテナハトです。

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バーンスタインのミサ・ソレムニス

今日は、仕事場の都内にちらばる四つの拠点を朝からまわった一日。結構カロリー消費したらしく、かなり消耗しました。体重も一日で1キロ弱は減っているような……。

さて、聞く音楽が良く分からないときは、Apple Musicのプレイリストを聴きます。Apple Musicが勝手に選んでくれるナンバーで、ジャズからクラシックまでさまざま。日頃聴いている音楽の傾向から生成されるようです。

その中に入っていたのがバーンスタインが振るベートーヴェンのミセ・ソレムニス。つまり荘厳ミサ曲でしたバーンスタインらしいたゆたうテンポで聴くミサ・ソレムニスは実に甘美でした。ときにオペラ的なクライマックスもあり、モーツァルト《魔笛》のような和音が出てきたりと、実に楽しめました。

音楽の幅を広げるのは、こういう偶然ともいえるような出会いであることが多いです。本来なら、能動的に曲を選んで聴きたいところですが、今回のようにあえて受け身で音楽を聞いていると、思いもかけないいい出会いがあります。きっと若い頃は、思わぬ出会いばかりで音楽をたくさん聞いていたんでしょうが、歳を重ねると、こういう出会いが貴重に思えます。善し悪しかなあ、と。

今日はこのあたりで。それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

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ひさびさにビックバンドを聴いた

今日、会社は規定の公休。とあるところで、ビックバンドを聴きました。30分ほどのパフォーマンスでしたが、なかなか楽しかったです。

迫力いっぱいでした。トランペットのハイトーンを聞けたり、2ドラムのパフォーマンスをみたり。ボーカルも居て、なかなか楽しかったのです。あまりミスらしいミスもなかったですし、立派な演奏でしたし、なにより楽しい演奏でした。

ただ、30分のステージでしたので仕方がないのかもしれませんが、30分間フルスロットルの演奏でしたので、ちょっと疲れたかも。。

大学時代の先輩が昔言っていたことを思い出しました。「デヴィッド・サンボーンのライブは凄い。バラードとアップテンポの曲を交互にやるんだ」

音楽は生演奏で聴けるのがとても幸せです。録音音源とは違い、その場で演奏者の緊張感が直に伝わってきます。これが醍醐味です。

今日は短く(じつは一日遅れ)。おやすみなさい。

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つれづれ──健康と読むこと

9月、初旬から出張や懇親会が続きました。最終週にとある報告があり、そちらの準備。で、その報告関連の残務を10月に引き続き。と思ったら、10月中旬にも報告があって。。みたいな感じで、ちょっと睡眠時間も減り気味。そんな感じで今日は一日休ませてもらいました。

昨日のNHKスペシャルで、AIを使って健康寿命の要因を探る、という番組がありました。健康寿命を延ばすためには本や雑誌などを読むことが重要、とのこと。健康寿命が長いとされる山梨県の図書館が取材されていました。県民85万人に対して、のべ99万人が図書館を利用しているとか。これは戦後間もない頃から学校に司書が配置されていて読書週間が着いているからではとのこと。現在でも、全国平均59%の学校司書配置率が100%近いそうです。

本を読むためには、図書館に行ったり、本屋に行ったり、ということで外出が増えて、健康になる、とのことですが、それだけではなく、さまざまな知的刺激をうけることも健康に良いと言うことのようです。読書すれば、健康に関する情報も入ってくるでしょうし、頭も使いますし、きっと健康に良いと言うことなんでしょう。

個人的には本が好きというよりも、なんでも知らないと、という強迫観念のようなものに追い立てられるように、本を読んだり、雑誌を読んだり、ネット記事を読んだりしている気がします。楽しむ読書という感覚は、高校時代で終わってしまったなあ。楽しむと言うより、何かを探している、ということのようです。

仕事がつまってしまうと、本を読む時間が取れなくなり、睡眠時間も減ります。健康寿命もきっと短くなるのだろうなあ、と。歳を重ねると仕事の質も変えないと、とあらためて思いました。

仕事を切り上げて、本を読んで、睡眠時間を取れば、健康になるはず。確かに、そういう時期もあったなあ、などと思ってますが、まあ、同調圧力の強い日本社会ではなかなか難しいですね。

明日ももう少し本やら雑誌やらもっと読まないと、とあらためて思いました。でも、早く寝ないと、とも。

みなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

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ジャズがわかった気がしたとき。あるいは名画を見たときの思い出。

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まず、ジャズの話です。

今日、家族で話していたこと。演奏のよしあし、あるいは好みというのはどうやれば分かるのだろう、という問いに対して答えるとすれば、大学の文化祭などのジャズサークルの演奏を一日中あるいは、期間中、ずっと聞いているのがいいですよ、となるなあ、ということ。

これは私の実体験ですが、大学2年生の時だったか、三日間の文化祭の期間中、すべての演奏を朝から夕方まで聞いていました。午前中は、1年生や2年生などまだ経験の浅いバンドが出てきて、午後になると3年生や4年生の上手いバンド、夕方とか、あるいは最終日になると、OBのバンドや時にプロなどが登場します。そうすると、自ずと、経験の浅いバンドと上手いバンドの差というものがよく分かるようになります。で、その演奏について、友人たちと夜にあーだーこーだ話をする、というのが良いのかなあ、と。

よく「とにかく上質な演奏を聴け」というアドバイスがありますが、上質な演奏だけを聴くと、それが当たり前になってしまい、ほかとの差違がわからないように思うのです。経験の浅い演奏と経験のある演奏を聞いて、批評とまでは行かずとも、誰かと語ること、あるいは自分なりに考えをまとめること、というのが、大切で、振り返ってみると、あの三日間で私はなにかジャズがわかった気がしたように思います。実際にどうかはまだ分かりません。ただ、楽しんだり、ほかの方とジャズについて会話が出来るようになった、と思います。

あるいは、これは、どんな芸術についてもおなじ、とも思います。

ヨーロッパに旅行に行って、美術館に入ると、もちろんそこの目玉の絵画というものがあるのですが、それ以外の絵画も想像を超える量が飾られています。このブログのタイトル画像(2018/10/14現在)は、ドレスデンの絵画館です。中央の絵は、ラファエロの「システィナの聖母」。実に有名な絵画。その他の絵画ももちろん有名ですため息がでるものでしたが、いろいろな違いを感じた記憶もあります。ラファエロが一点ある中で、私が知らないだけなのかもしれませんが、日本ではあまり語られない画家の作品がたくさん並んでいるわけです。そうすると、やはりそこにある何かしらの差違というものを感じずにはいられないというときがあるのです。それはもちろん優劣をつけるということではありません。しかし、個人的好みという観点で言うと、なにか違いを感じます。日本で行われる企画展でもたまにそういう差違を感じることがありますが、あのヨーロッパの美術館にある絵画の数と、その数のなかで感じる差違というものは知らなかったものでした。

とにかく、音楽であっても、文学であっても、絵画であっても、有名なものや良いとされているものだけしか相手にしない、という方法ではなく、さまざまなものをたくさん聞いたり、読んだり、見たりして、その差違を感じ言葉にする、ということが、目を養うと言うことなんだなあ、ということをあらためて思い出しました。

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アンドリアス・ネルソンスのブラームス交響曲2番を聴く

以前、ブラームス2番を聴き続けていた時期がありました。

あれ以来、ブラ2が指揮者を考える基準、リファレンス音源のようになっています。

カラヤン、アバド、ショルティ、チェリビダッケ、ヴァント、ラトル、バレンボイムなど聴いてきましたが、また新たな音源を聴いています。

アンドリアス・ネルソンス。1978年生まれ。ラトビア出身。ボストン交響楽団の音楽監督になっています。ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のカペルマイスターにも就任中。

私は、かつてベルリンフィルのデジタルコンサートホールで、アンドリアス・ネルソンスが降るリヒャルト・シュトラウスを観たことがります。あれは、たしか「ばらの騎士組曲」だったか? その姿を見て、カルロス・クライバーを連想したのでした。音楽と一体になった喜びを身体中から発散していました。湧き上がるような動きと、はち切れんばかりの笑顔。音楽をする幸福感が素晴らしく、心の底から素晴らしいなあ、と思ったのを覚えています。

そのアンドリアス・ネルソンスのブラームスは、実に端正でした。テンポは中庸かあるいは少し遅めでもあります。ずいぶんのびやかに歌うところは歌い上げています。ねっとりとした感興も感じます。録音が良いというのもあるのでしょうけれど、アンサンブルが実にクリアです。モーツァルトを聴いているようにも思います。例えば、第一楽章の中間部のフーガ、実に美しく、ジュピター交響曲のようでもあります。

(そういえば、チェリビダッケのブラ2は、ブルックナーのように聞こえたのを思い出しました)

長くなりました。短くてもいいから数多く、というのがモットー。あまり書いていると、本を読む時間がなくなりますので、気をつけないと。

それではみなさま、おやすみなさい。良い週末を。グーテナハトです。

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Don’t Let Me Be Lonely Tonight

昨日の続き。

Nearness of youはマイケル・ブレッカーのアルバム。2000年にリリースされた。もう18年にもなるのか、という驚きとともに、この文章を書いている。

Nearness of youは全曲バラードのアルバム。2007年に白血病でこの世を去ったマイケル・ブレッカーが、どういう思いでこのアルバムを作ったのかはよく分からない。

そして、このアルバムにジェームス・テイラーがThe Nearness of you、そして、Don’t Let Me Be Lonely Tonightの両曲にボーカルとして参加している。

このDon’t Let Me Be Lonely Tonightが、あのジェームス・テイラーのOne man dogに収められているのだ。One man dog は1972年のアルバム。若かりしマイケル・ブレッカーが参加しジェームス・テイラーと共演。そして、2000年のNearness of youでも、もちろんマイケル・ブレッカーと共演している。

ジェームス・テイラーの歌声は、歌い上げたり、こぶしを入れたりしない。ビブラートも抑制気味。静かで淡い歌声。恋人に別れを告げられ、それでもなお、嘘でもいいからそばにいて欲しいと願う、哀切な歌詞。それを、なにか冷めた感覚で眺めるように、歌っている。

これがいつか覚める夢であるかのように。恋人が去ったのが夢であるかのように。だが、おそらくは、それは夢ではなく、過ぎた時間は決して戻ることはない。そういう諦念を感じる歌声だ。

このNearness of youに収められたDon’t Let Me Be Lonely Tonightを聴いて、改めて、1972年のOne Man Dogに収められたDon’t Let Me Be Lonely Tonightを聴き直した。古い録音。マイケル・ブレッカーの音も違う。アレンジもなにか少し明るみを帯びたものだ。だが、そのインプロヴァイズは、リリック=叙情的でもある。跳躍する音階はなにかスリリングでもある。

四半世紀たってようやく先輩の思いを理解した気がする。

このDon’t Let Me Be Lonely Tonight、さまざまなアーテイストにカバーされている。エリック・クラプトン、アイズレー・ブラザーズ、ダイアン・シュア。

Don’t Let Me Be Lonely Tonight、名曲だ。

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One man dog の思い出

ジェームス・テイラー。この歌手をなぜ聴くのか、というと、マイケル・ブレッカーとの繋がりがあるから

このOne man dogというアルバム。

大学1年の時に、マイケル・ブレッカーが好きだった私にこのアルバムを貸してくれたのだが、全く理解できなかった。当時は、またボーカルの入った楽曲を聴くことができなかった。そして、ロックというジャンルへの理解もなかった。当時聴いていたのは、フュージョンと呼ばれるジャズ、アート・ペッパー、そしてクラシックを作曲家と楽曲別に聴いているだけだった。

だから、One man dogもカセットテープにダビングをして先輩に返し、その後聴くことはなかった。

その後、時は流れ、マイケル・ブレッカーは一枚のアルバムを出した。Nearness of you、だ。

つづく

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