Miscellaneous

久々の仕事のない一日。申し訳ないですが朝は惰眠を貪り(たまにはお許しください)、午後は所用で外出しました。

今日は内田光子と、ブルックナーの緩徐楽章を聴く一日でした。

仕事ばかりしていたので、オフになるといろいろなことを思い起こしたりしますが、まあ、肩の力を抜いて、適宜やっていくぐらいじゃないと、物事巧くいかないなあ、ということを感じます。昔なら、考え抜かないと正解にたどり着かない、と思っていたものですが、逆に考え抜くと、失敗するなあ、というのが最近の感覚です。といいながら考えはするのですが、ほどほどに、ですね。

すべてはニーバーの祈りですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%81%AE%E7%A5%88%E3%82%8A

変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変える勇気を、
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。

昔、ドイツ語版のこの文章をカリグラフィーで見たことがあり、大変感銘を受けたことを思い出しました。ドイツ語だとかっこいいのです。

Gott, gib mir die Gelassenheit, Dinge hinzunehmen, die ich nicht ändern kann,
den Mut, Dinge zu ändern, die ich ändern kann,
und die Weisheit, das eine vom anderen zu unterscheiden.

うーん、オペラの歌詞みたいです。カプリッチョの歌詞みたいだ。。

世界は、いくばくかきな臭いのですが、できることは、平和を祈ることだけです。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Miscellaneous

つれづれな日々が続きます。とにかく、なにか、ひたすらに打ち込む日々、という感じ。世界がぐるぐるとまわり、変貌している感じがします。

この数日は、ブルックナーの緩徐楽章を聞くことが多く、特に、久々に涙がでたのが、アバドのふるブルックナー交響曲第一番第二楽章。

最近まで、ハイディンク盤で聞いていたのですが、アバド盤を聞いたところ、神韻を感じるほどでした。

この絶妙なテンポコントロールは、手を小刻みに揺らし、口を少し開き、遠くを見遣る目でオケに対峙する恍惚としたアバドの風情をそのままに感じるのです。

先日も書きましたが、すでに、なにか、人生全体を掴んでしまったように思え、こうした現世の喜びを感じることに鈍くなりつつあるなかで、久々に、まるで梅のつぼみが黒々とした枝につくのを眺めたような、そんな風情を瞬間に感じたのでした。

最近は、現世よりも、なにかその外にあるものの、淡い気配のようなものに感じいるようなこともあり、ただ、そうした気配は、今までは音楽のなかで感じていたはずなのに、そこにその気配を感じることがなくなり、それがまた、音楽全体を掴んでしまったように覚える原因でもあるのですが、何か、この音源のなかに淡い気配を感じたのでした。

ですが、その気配は、まるで、花が散るように、霧のなかへ去り、また、黒々とした枝の生い茂る、現世の中へと戻ってしまうことになるのです。

そのときの無常感は、なにか、美しさや感動が惰性に負けてしまうやうな、あるいは、花が手折られたやうな、辻邦生なら、暗い窖とでも表現するやうな、そうした、巻き戻せない無常を感じたのでした。

音楽は、容赦なく進み、いつかは終わりを迎えますが、奏でられ、聴かれる事を繰り返すことで、そこに新たな意味が立ち現れ、音楽の記憶のなかに組み込まれていきます。せめて、そうした豊かな輪廻のなかで、あるいは、はかない無常のなかに、拠るべきところをもう一度見つけたい、と思うのです。

それではおやすみなさい。グーテナハトです。

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松の内も過ぎ、2022年も本格始動。昨週には、新年早々乗り切った仕事のプレゼンも終わり、淡々たした週末を過ごした後に、今日は故あって休日出勤。ただ、お昼も出て、いつもよりはやくかえれるのでありがたいことです。

人生も折り返すと、なかなか新たな体験経験に恵まれる可能性もも少なくなります。さまざまな情報に曝露されていると何事にもそうそう驚くこともなくなります。良いことなのか悪いことなのか。

テクノロジの進歩も、なにか予想通りの感覚もありますし、音楽も、嗜好に合う音楽はほぼ聞き尽くした錯覚に陥ることがあります。

とはいえ、新たなテクノロジの可能性に触れることなくしては仕事を続けることは出来ず、また音楽も常に聞き続けないと生きていけません。テクノロジと音楽には助けられてここまで来ているわけで感謝しかありません。

あるいは活字も。かつてのように、車中で文庫本を読むことは少なくなりましたが、Kindle本を肌身から離すことはありません。

活力に溢れ、さしあたりは動いてはいますが、なにか空疎な感覚にも苛まれます。

疲れているわけでもなく、逆に、動くのを止めるのが苦悩につながることもわかっていますので、粛々淡々と動き続けるわけですが、それはそれで、やはり砂を噛むような感覚は否めません。

まさに、ここで必要なのが、辻邦生のいう「生きる喜び」でなければなりません。雲が行き交い、花々がベランダに咲き乱れ、夕陽がビルを照らし反射して、まるでいくつもの太陽に囲まれているような時に感じる浄福感。目を挙げて植木を見やると冬なのに淡い緑の新芽が出ているときの喜ばしさ。こういう世界の美しさに目を向けることが、迫り来る黒黒とした虚無と戦う、ということなのだと思います。

何か、落ち着いた静かな光に満ちた世界のなかで、晴耕雨読のような生活を送る、という幻想。それは、プッチーニのオペラ「トゥーランドット」の第二幕冒頭で、中国の大臣たちが憧憬する生活を思い出します。そんな静かな世界で本に囲まれ、知らない世界に迫りたい、という儚い思い。

私はホーナンに家を持っている

青い湖があって

そこは竹に囲まれている

トゥーランドット 第二幕

言葉の力は強力です。静謐なトゥーランドットの大臣の家のように、あるいは、辻邦生が描く、南仏の風景のような光に満ちた世界がきっとわたしにも訪れることでしょう。

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新年となりました。

とにかく、昨年は文章を書けず、やれやれという感じでしたが、今年はピッチ変えないと後が続かないな、とひしひしと。

会社でチャートばかり作っていると文章で表現することの重要性を忘れてしまいそうになりますし、心も荒みます。文学、哲学にもう少し向き合う時間を増やさないと、道を間違えそうです。今年はそういう本を読みつつ、文章を書く仕事も増やさないとなあ、と思います。ここに書くことも少し幅を拡げても良いのかもしれないとも思いました。

今年も皆様にとって良い年でありますように。

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師走押し迫る冬空で取った一枚。

辻邦生「春の戴冠」を読むと、語り手ロドリゴの父で実業を営むのマッテオが、暗い窖への転落を恐れ必死に学問に打ち込む姿が描かれていましたが、なんだかそういった気分がよくわかる年頃になってきた一年間でした。

にしてはあまり書くことはできませんでしたが、仕事系で、ひたすら書き続けた(いや、チャートを作り続けたということになりますが)一年だったりしました。

まあ、いろいろありましたが、来年はおそらくさらに良い年になるようですので、引き続き攻め続けてみようか、と思います。

どうかみなさまもよいお年をお迎えください。

 

 

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冬至となりました。

冬至は、再生の日のような気が致します。太陽の光が弱りながらも、ふたたび力を増す境となる日です。

人生もやはり誕生と再生の繰り返しなんだろう、と思いますが、そんなことを思いながらこちら。クライバーの運命を。

https://music.apple.com/jp/album/beethoven-symphonies-nos-5-7/880709749

運命は円環です。誕生から死へ。そしておそらくは新たなる生へ。太陽の光のように周り巡るもの。

冬至は再生へのスタートと思います。

それでは。

Edward William Elgar

https://music.apple.com/jp/album/elgar-sea-pictures-the-music-makers/1508002132

いやー、エルガー、素晴らしいです。

The music makerというオラトリオ。自作の引用など交えながら、音楽家を語る楽曲。

今般、初めて聞きましたが、優美で豊かな楽曲で、決して手に届くことのないアルカディアの風景という感覚。手に届かない、というところがポイントです。

途中、あの甘美なニムロッドのテーマが登場し、それも楽詩を伴うもので、通勤中に、お、と思いました。神的な邂逅を感じます。第五曲に登場。

これ、大切な時に流して欲しい曲です。安息と静謐しかありませんので。

それでは取り急ぎ。

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いや、こんなに書く時間がなくなるなんて思いもよりませんでした。書くことがライフワークなはずなのに。

今月はとある資格試験を受けて、微妙な感じで資格を取り、このあとどうしていこうかな、という感じになっています。いろいろと自由に考えられそうな今日この頃。

ただ、この虚しさが流れ落ちる感覚はどうしようもありません。

辻邦生はおそらくは虚無と戦っていたからこそ生きる喜びを語り続けたのだ、と、この数年は解釈しています。

虚無を埋めるために、ただただ動き続けている感覚があります。

なんてことを書いていたら、そろそろ小説書けるんじゃないか、と思い始めてきました。やれやれ。まあ、ストーリーはないんですが。

それではみなさま、おやすみなさい。

 

Piano,Wolfgang Amadeus Mozart

最近、ピアノを聴くことが多くなりました。この夏、内田光子のシューベルトを聴いたのがきっかけ。尊敬する先輩が入院中にシューベルトを聴いていたと言うので、聞いてみたわけですが、そこに倫理を感じた、と言う話はこのブログにも書いた記憶があります。

内田光子のことを知ったのは、小学生の頃でしたか。たしか、モーツァルトのピアノ協奏曲を全曲弾くというニュースが、9時のNHKニュースで取り上げられたはずです。30年とか40年とか、それぐらい前の話です。

天衣無縫、というのはこういうことか、というぐらい自由で、レポーターが「今度の演奏楽しみですね」と、社交辞令的に話すと「そうなんですよー、私も本当に楽しみで!!」、レポーターが本当に楽しみにしていると感じている前提で、テンションを上げて話していたのでした。

ラトル・ベルリンフィルとの演奏でも、ラトルを凌駕するオーラを出していたり、本当になんだか人間的な魅力に溢れた人でもあります。普通の方では対応できないんだろうなあ、と思ったり。

で、最近はモーツァルトのピアノソナタを、何か、粒の揃った貝殻を一つ一つ手に取って愉しむような感覚で聴いている感じです。色も形もそれぞれ違う貝殻を、あるものは桜色だったり、あるものは銀色だったり、そうした違いや、輝きや微細な形を、手に取ったり、匂いをかいだり、あるいはたまにポケットに入れてみたりしながら、愛おしむような感覚。そんな感じのことを思っています。

モーツァルトのソナタは、何か少し頑張ると、自分でも弾けるのでは、という気にさせてくれるのもいいです。

しかし、そこにある展開の妙、驚きは、オペラや交響曲に感じる驚きだったりするので、さすがだなあ、と思います。例えば、「ドン・ジョバンニ」でマゼットとツェルリーナの舞曲が異様な展開をするシーンがあるのですが、ピアノソナタでもそうした展開を感じることがあります。プログレ・ロックの展開にも感じるものがあると思います。

なんて言うことを思いながら、帰宅の電車の中で、聴いている感じです。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

Tsuji Kunio

昨日来考えていることとほとんど関係なく、今朝たまたま開いた(Kindleですが)のが、辻邦生の問題作「黄金の時刻の滴り」で、トーマス・マンに語らせる以下の言葉が、私にはまさに正鵠を得た一番だったのです。

美を生み出す人は、死にながら生きたふりをしなければならないのです

辻邦生「黄金の時刻の滴り」より「聖なる放蕩者の家で」

これです。

時空を超えた大きな球体のなかにひとりでいるということは、生と死までも包んでしまうわけです。全体を掴むということは終末から始原を掴むということなのです。

これを、まさに体感してしまったということであり、そこにある茫漠とした虚無と、それに抗うための美と陶酔。しかし、それはデカダンスの類ではなく、諦観に溢れたものであるはず。

ちょうど、ワーグナーのトリスタンを聴いていたところ。なにか解決のない和声の不安定さのなかで、ワーグナー自体も茫漠とした球体のひとつのアレゴリーではないかとも思います。

そんなことを思いながら、この巨大な茫漠たる球体と対峙するためにできることは何か、と思うわけです。