新年となりました。
とにかく、昨年は文章を書けず、やれやれという感じでしたが、今年はピッチ変えないと後が続かないな、とひしひしと。
会社でチャートばかり作っていると文章で表現することの重要性を忘れてしまいそうになりますし、心も荒みます。文学、哲学にもう少し向き合う時間を増やさないと、道を間違えそうです。今年はそういう本を読みつつ、文章を書く仕事も増やさないとなあ、と思います。ここに書くことも少し幅を拡げても良いのかもしれないとも思いました。
今年も皆様にとって良い年でありますように。
人間には何といろいろな啓示が用意されているのだろう。地上では雲も語り、樹々も語る。大地は、人間に語りかける大きな書物なのだ。…… 辻邦生
新年となりました。
とにかく、昨年は文章を書けず、やれやれという感じでしたが、今年はピッチ変えないと後が続かないな、とひしひしと。
会社でチャートばかり作っていると文章で表現することの重要性を忘れてしまいそうになりますし、心も荒みます。文学、哲学にもう少し向き合う時間を増やさないと、道を間違えそうです。今年はそういう本を読みつつ、文章を書く仕事も増やさないとなあ、と思います。ここに書くことも少し幅を拡げても良いのかもしれないとも思いました。
今年も皆様にとって良い年でありますように。
師走押し迫る冬空で取った一枚。
辻邦生「春の戴冠」を読むと、語り手ロドリゴの父で実業を営むのマッテオが、暗い窖への転落を恐れ必死に学問に打ち込む姿が描かれていましたが、なんだかそういった気分がよくわかる年頃になってきた一年間でした。
にしてはあまり書くことはできませんでしたが、仕事系で、ひたすら書き続けた(いや、チャートを作り続けたということになりますが)一年だったりしました。
まあ、いろいろありましたが、来年はおそらくさらに良い年になるようですので、引き続き攻め続けてみようか、と思います。
どうかみなさまもよいお年をお迎えください。
冬至となりました。
冬至は、再生の日のような気が致します。太陽の光が弱りながらも、ふたたび力を増す境となる日です。
人生もやはり誕生と再生の繰り返しなんだろう、と思いますが、そんなことを思いながらこちら。クライバーの運命を。
https://music.apple.com/jp/album/beethoven-symphonies-nos-5-7/880709749
運命は円環です。誕生から死へ。そしておそらくは新たなる生へ。太陽の光のように周り巡るもの。
冬至は再生へのスタートと思います。
それでは。
https://music.apple.com/jp/album/elgar-sea-pictures-the-music-makers/1508002132
いやー、エルガー、素晴らしいです。
The music makerというオラトリオ。自作の引用など交えながら、音楽家を語る楽曲。
今般、初めて聞きましたが、優美で豊かな楽曲で、決して手に届くことのないアルカディアの風景という感覚。手に届かない、というところがポイントです。
途中、あの甘美なニムロッドのテーマが登場し、それも楽詩を伴うもので、通勤中に、お、と思いました。神的な邂逅を感じます。第五曲に登場。
これ、大切な時に流して欲しい曲です。安息と静謐しかありませんので。
それでは取り急ぎ。
いや、こんなに書く時間がなくなるなんて思いもよりませんでした。書くことがライフワークなはずなのに。
今月はとある資格試験を受けて、微妙な感じで資格を取り、このあとどうしていこうかな、という感じになっています。いろいろと自由に考えられそうな今日この頃。
ただ、この虚しさが流れ落ちる感覚はどうしようもありません。
辻邦生はおそらくは虚無と戦っていたからこそ生きる喜びを語り続けたのだ、と、この数年は解釈しています。
虚無を埋めるために、ただただ動き続けている感覚があります。
なんてことを書いていたら、そろそろ小説書けるんじゃないか、と思い始めてきました。やれやれ。まあ、ストーリーはないんですが。
それではみなさま、おやすみなさい。
最近、ピアノを聴くことが多くなりました。この夏、内田光子のシューベルトを聴いたのがきっかけ。尊敬する先輩が入院中にシューベルトを聴いていたと言うので、聞いてみたわけですが、そこに倫理を感じた、と言う話はこのブログにも書いた記憶があります。
内田光子のことを知ったのは、小学生の頃でしたか。たしか、モーツァルトのピアノ協奏曲を全曲弾くというニュースが、9時のNHKニュースで取り上げられたはずです。30年とか40年とか、それぐらい前の話です。
天衣無縫、というのはこういうことか、というぐらい自由で、レポーターが「今度の演奏楽しみですね」と、社交辞令的に話すと「そうなんですよー、私も本当に楽しみで!!」、レポーターが本当に楽しみにしていると感じている前提で、テンションを上げて話していたのでした。
ラトル・ベルリンフィルとの演奏でも、ラトルを凌駕するオーラを出していたり、本当になんだか人間的な魅力に溢れた人でもあります。普通の方では対応できないんだろうなあ、と思ったり。
で、最近はモーツァルトのピアノソナタを、何か、粒の揃った貝殻を一つ一つ手に取って愉しむような感覚で聴いている感じです。色も形もそれぞれ違う貝殻を、あるものは桜色だったり、あるものは銀色だったり、そうした違いや、輝きや微細な形を、手に取ったり、匂いをかいだり、あるいはたまにポケットに入れてみたりしながら、愛おしむような感覚。そんな感じのことを思っています。
モーツァルトのソナタは、何か少し頑張ると、自分でも弾けるのでは、という気にさせてくれるのもいいです。
しかし、そこにある展開の妙、驚きは、オペラや交響曲に感じる驚きだったりするので、さすがだなあ、と思います。例えば、「ドン・ジョバンニ」でマゼットとツェルリーナの舞曲が異様な展開をするシーンがあるのですが、ピアノソナタでもそうした展開を感じることがあります。プログレ・ロックの展開にも感じるものがあると思います。
なんて言うことを思いながら、帰宅の電車の中で、聴いている感じです。
それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。
昨日来考えていることとほとんど関係なく、今朝たまたま開いた(Kindleですが)のが、辻邦生の問題作「黄金の時刻の滴り」で、トーマス・マンに語らせる以下の言葉が、私にはまさに正鵠を得た一番だったのです。
美を生み出す人は、死にながら生きたふりをしなければならないのです
辻邦生「黄金の時刻の滴り」より「聖なる放蕩者の家で」
これです。
時空を超えた大きな球体のなかにひとりでいるということは、生と死までも包んでしまうわけです。全体を掴むということは終末から始原を掴むということなのです。
これを、まさに体感してしまったということであり、そこにある茫漠とした虚無と、それに抗うための美と陶酔。しかし、それはデカダンスの類ではなく、諦観に溢れたものであるはず。
ちょうど、ワーグナーのトリスタンを聴いていたところ。なにか解決のない和声の不安定さのなかで、ワーグナー自体も茫漠とした球体のひとつのアレゴリーではないかとも思います。
そんなことを思いながら、この巨大な茫漠たる球体と対峙するためにできることは何か、と思うわけです。
辻邦生はこの「言葉の箱」の中で、自分の想像力が産んだイマージュが、言葉の箱の中に入れられていけば、必ず力強いものが産まれる、ということを言っています。
確かに、辻文学の持つ物語の力はとてつもないものですし、辻文学に限らず、例えば、私にとっては、ハインラインやアーサー・C・クラークの作品群の持つ物語の力は、大きなものに感じます。しかし、それを初めて感じたのはいつだろう、と記憶を呼び起こすと、それはおそらく何かの折に見た、「カナの婚礼」の絵だったと思います。
パオロ・ヴェロネーゼ, パブリック・ドメイン, リンクによる
これもどこかで書いたことがあったのかもしれませんが、この絵を見るまでは、絵に描かれていることは作りものに過ぎない、と考えていたわけです。ところが、この作品を見た途端に、おそらくはこの風景は現実にあったのだ、という直観をえたのでした。その現実とは、言葉としては当時別の言葉を当てはめていて、真実在とか、そういう言葉を使っていたようにおもいますし、今でも現実と言う言葉よりも真実在と言う言葉のほうがしっくりきます。
この生き生きとしたリアルな筆致は、そこにそれとして屹立しているものであり、作りものとか、創作物とか、そういった言葉が当てはまらないように思えたものでした。
これもやはり、文字ではなく絵画によってなされたイマージュの力ではないか、と今になって思うわけです。それはいわゆる素朴な現実世界と等価以上のものであって、現実世界との差異はあくまで量的差異でしかないのではないか、とも思うわけです。この絵画をじっと眺めていると、その世界の中に引き込まれていき、素朴な現実世界よりも、ありありとリアルな質感をもって迫ってくる感もあるわけです。
これは、もう、言葉をいくら重ねても伝わる者ではないわけですが、辻邦生はこれを伝えるということにおいて文学にその意義を見いだしたのではないか、ということを今更のように感じています。
「僕が死んでしまうと、だれもそのなかに入って知ることはできない」「僕が死んでしまったら、もうこの地上から消えてしまう。そういう者を書き残すのも文学の一つの大事なしごとではないか」と辻邦生が述べているわけで、それが、イマージュと同じ質感を物語という形式で遺すことの意義になる、と言うことに感じています。それが、茫漠としたたったひとりで巨大な球体の中央に存在する自分という虚無と孤独を克服することに繋がると言うことなのでしょうか、と言ったことも考えつつ…。
しかし、この発想、そういえば四半世紀ほど前に、飲み屋で知人に語ったような記憶もあり進歩してないなあ、という気もしますが、そのときは方法論としての物語のことだけであって、伝えるべき巨大な球体としての世界をイマージュとして物語形式に落とし込むという文学の意義までは分からんかったなあ、と思う次第です。
ぼく自信が世界を包み込んでいる、ぼくが世界を所有している、いままでぼくは世界に包まれていた存在だったわけですけれども、今度はぼくが大きな絵にでもなって、大きな球体にでもなって、地球をスッポリ包んでしまったような逆転した関係が生まれてしまった。
先だっても書いたこの部分。
今日もやはりこの球体のことを考えていました。というより、自分の最近の世界認識を「球体」と喩えて考えていて、あらためて一ヶ月前に書いた文章を見直したら、やはり辻邦生も球体と言っていることに驚き、潜在的にこの「大きな球体」と言う言葉が自分の中にしみこんでいたと言うことに気づいたところです。
どうも、この世界、というのは空間的な世界にとどまらず、時間的な世界をも指しているのではないか、と思うわけです。辻邦生的に言うと、「僕のパリ」には、ローマ時代のパリから、ブルボン朝のパリ、革命のパリ、そして20世紀のパリ、全てが含まれていて、あるいは、未来のパリをも含んでいるわけです。そして「地球」を包み込んでいるということは、パリだけでなく、東京もニューヨークもヨハネスブルグも(航空会社の宣伝のようですが)含むものであり、あるいは、地球から離れ、太陽系であったり、銀河、あるいは宇宙全体をも含む物になり得るわけです。パリも東京も銀河も、そこに量的な差異があるだけで、質的な差異はありません。
そういう意味で言うと、辻邦生の言うイマージュというもの、これは私の認識では、小説世界において我々の素朴な現実と同じぐらい確固とした質感のあるありありとした世界名分けですが、このイマージュすらも、現実の世界と等価となり、この私の「大きな球体」の中に含まれるわけです。記憶も想像もイマージュという観点では全て等価であり、ただ、いま個々にある認識主体において瞬間瞬間においてリニアに生じる「場」としての世界だけが唯一のよりどころであり、その「場」が中心にあるあまりに巨大な球体が、私というものではないか、と感じるわけです。
なんだか、今、この文章を書いていると、これは、誤解を恐れずに言うと、学生時代に囓り読んだ西田幾多郎の純粋経験ではないか、とも感じてしまいます。もちろん学生時代の記憶があったからこその発想ではあるのですが。
巨大な私という球体に、私は茫漠という表現を当てはめたくなるのです。つかみ所がないが、しかしそれでもそれは私であり宇宙であるというもの。そこに区切り意味を作ることで初めて茫漠を乗り越えられるという感覚。西田的に言うと主客分離というものでしょうか。
この考えは、辻邦生が「詩と永遠」で語る境地<開かれた自己>にも似た感覚なのですが、私はそこにポジティブな感覚をどうしても得られず、しかし、これがいつかひっくり返り、ポジティブな感覚へと転化するのではないか、という感覚も持っています。
今日は辻邦生誕生日。924だからくにおです。
今日も在宅勤務で、8時半から23時までみっちり。まあ、仕事は面白いですが、やり過ぎはよくありません。
すでに食事はとったので、ワインを飲みながら気分を緩める瞬間です。
それにしてもこのところ、いろいろなものがつながり始めています。辻邦生が、ポン・デ・ザールで感じた世界を包み込む感覚は、おそらくは西田幾多郎の純粋経験に他ならないもので、辻邦生はそれを実に鮮やかにポジティブにとらえ、生もなく死もない永遠の相をそこに見たのではないか、と思います。
私も実のところ、そうした純粋経験のあり方のようなものを1994年2月か3月に感じたのでした。新潟へ向かう新幹線の中のことでした。あの瞬間が、それまでの経験的認識論がひっくり返った瞬間でした。
辻邦生のポン・デ・ザール体験もやはり「ひっくり返った瞬間」だったのだと思います。
ぼく自信が世界を包み込んでいる、ぼくが世界を所有している、いままでぼくは世界に包まれていた存在だったわけですけれども、今度はぼくが大きな絵にでもなって、大きな球体にでもなって、地球をスッポリ包んでしまったような逆転した関係が生まれてしまった。
辻邦生「言葉の箱」新潮文庫、25ページ
それを辻邦生はポジティブにとらえ、この「ぼくの世界」を書き残すことが文学の一つ大事な仕事である、と言うわけです。
私も確かに、1994年から27年が経ち、どうやら、この「私の世界」というものの直感が深化しているようなのですが、どうにも辻邦生のようにポジティブに捉えることができない感覚を得ており、ずいぶんと苦しい日々が続いているようにも思います。
ナラティブ=物語ることの名手中の名手だった辻邦生は、辻邦生の世界を語りきることで、何を得たのだろう。
ナラティブの力、ナラティブが支える世界の強固さのようなものはつとに感じます。6月に「時の扉」を読みましたが、あそこにある厳然としたソリッドな実体感はまさにナラティブの力です。
もしかすると、辻邦生もやはり「ぼくの世界」の虚無をナラティブとポエジーの力で書き残し、昇華していたのではないか、そんな淡く恣意的な予感を得ています。
それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。