Johannes Brahms

 先日から気になり始めたブラームスの交響曲第4番。初めて聴いたのは、ショルティがシカゴ交響楽団を振った音源で、おそらくは中学か高校の夏だったはずです。

 特に昨日からは第二楽章を聴くのが心地よく感じます。静謐な田園の風景という感じで、冒頭のホルンと木管の掛け合いが、これもまたなにか夜明けの風景で、まだ皆が寝静まっているなかを、ひとりで歩く愉しみ、という感じ。もしかするとそういう日々が訪れるのではないか、そういう愉しみ。季節はやはり夏で、山と海があって、薔薇色の朝日と飴色の夕日が見えるところで、朝と晩に、光を浴びながら散歩をするという日々。おそらくは木々が地面に落とす影を愉しみ、草の匂いを含んだ風につつまれつつ、海岸の方へ降りると、潮風と波音のなかで群青色の波面を第二楽章を聴いてそんなことを思いました。

 音源はいつものアバドが振るベルリンフィル。アバドの指揮は、この場で何度も書いていますが、しなやかな緩急で、まるで佇み感じるそよぐ風に似た温かみがあるものです。近頃はアバドなしには生きていけません。

  さしあたり今日の仕事は終えて、自分を労らないと。労働は労りながらでないと。

 それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

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Classical

 この言葉を聞いてどんな曲を思い浮かべるでしょうか。私はこちらでした。モーリス/ラヴェルの「ダフニスとクロエ」第二組曲。

 まだまだコロナもなく、震災もなかった2004年に、新国立劇場で上演された「スペインの燦」というシリーズで、この「ダフニスとクロエ」をバレエで見ました。牡牛の角を突けたダンサー達が、舞台上で雄々しく生命力の横溢する動きを見せていたのを記憶しています。17年前ですか。

 遠い地平線の向こう側が徐々に赤みを帯びて、予兆を感じた鳥たちの鳴き声も聞こえ、最初の曙光が差し込む瞬間が圧倒的な色彩で表現されています。さらには朝日に照らされた荘重な自然の風景。そしてまた鳥の鳴き声。もしかすると、動物あるいは人間が歩いて居るのかもしれず。

 アバドの若いときの演奏をとりました。アバドのフランス音楽、あまり聴いたことがなかったことに気づきました。合唱の感じが70年代雰囲気を醸し出しています。1970年の録音の模様。

 そういえば、徹夜明けの朝3時か4時。まだくらいうちから鳥の声が聞こえることがあります。暗いうちから気配を感じる鳥たちは、かすかな光を感じているのでしょうか。

実は、今日は仕事でした。明日も仕事。仕事は24時までしかやらない、と決めていて、24時になった途端にワインを開けて飲み始めました。どうも24時からが本当の時間であるように思います。これ、今ではなく高校時代からの考えです。時間の感覚は、鳥も人間もなにか本能のような感覚によるところがあるのでしょうか、などと思ったり。

ともかく、健康第一で。

みなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

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Johannes Brahms

 またまたご無沙汰してしまっています。なんだかたくさんのことがありすぎて我を忘れている感があります。とはいえ、気候も落ち着き、寒暖差はありながらも徐々に夏へと近づいているという嬉しさが湧き上がっているのも感じます。

 秋に生まれたというのに、何故に夏が好きなのか、よく分かりませんが、とにかく、太陽の光を狂ったように浴びたいと言うことにつきます。

 今日の東京地方の日没は18時39分で、半年前よりも2時間も長く太陽が出ていることになります。先日も話しましたが、太陽がでているうちにイタリアの白ワインを飲むのが目下の夢です。

 半年前と言えば、冬の暗い時期に何度も何度も聴いて心の支えにしてきたブラームスの交響曲第一番ですが、日差しを浴びながら散歩しているときに、もしかして今は四番の方が相応しいのではないか、と思いました。それで聴いているのは、アバドが振った交響曲第四番。

 アバドの指揮は、軽くもなく重くもなく、早くもなく遅くもなく、しなやかに空を舞うような演奏で、心にぴったりとフィットしてきます。ドイツ音楽をイタリア人が演奏する、というのは、なにかドイツ人がイタリアに馳せる思いが具現化しているようなものではないか、と思うときがあります。第二楽章の伸びやかな演奏を聴いていると、ゲーテがイタリア旅行をして、長く伸びる夕陽を浴びて、陰翳のある遠い西の空を眺めやるような感覚を覚えました。

 さて、これからもう一仕事です。皆様どうか良い金曜日の夜を。

おやすみなさい。

 

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Miscellaneous

5月になりました。どんどん夏が近づいています。

今日は在宅勤務で、窓の外に拡がる夏の日差しを感じながらデスクワークに勤しみましたが、夕方、これはさすがに太陽の光を浴びないわけにはいかない、と外に出ました。本当に素晴らしい夏の夕刻という感じで、飴色の光に大地が浸っているのを見ているだけで、幸福感に包み込まれた気がします。日差しの色は、8月のそれにあたるのでしょうか。8月の暑熱はなく、ただただ爽やかな陽気の中にいる幸せでした。

OTTAVAというクラシック音楽を流しているインターネットラジオがありますが、ちょうどそのとき、今日は昼からイタリアワインを飲んでいますというお便り紹介があり、この日差しの中で軽い白ワインを飲むのは幸せだろうな、と思いました。ワインもおそらくは生の愉しみであることには間違いありません。過度な禁欲や節制は慎むべきもので、確かにアルコールは身体に悪いことは分かっているとはいえ、果実が遠いイタリアの地で受け取った太陽の光をワインというかたちでいただくことも悪くはあるまい、などと思ったりしました。

皆様もどうかよい5月の日々をお過ごしください。

 

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Philharmony

 

良い感じ?の夜明けの写真。明日は良いことがありそうです。

それにしても、この一年は不思議なことばかりでしたが、また落ち着いて本を読むことができる日が訪れるようです。ありがたいことです。

ということで、今日の一枚。

最近は、もうこの音源に助けられることばかりでした。ジョン・ウィリアムズがウィーンフィルを楽友協会大ホールで振ったアルバムです。

映画音楽が機会音楽とすれば、かつての交響曲もやはり機会音楽でした。ジョン・ウィリアムズは機会音楽たる交響曲の伝統の最先端にいたと言うことなんだな、と考えながら聞いていました。

もちろん、そこにはなにかアメリカのヘゲモニーを世界へ拡大するという意図があったとも捉えられるのですが、そうであったとしても、音楽的な素晴らしさは筆舌に尽くしがたいものがあります。

それは映像やストーリーに裏打ちされたものであるかもしれませんが、それはオペラにおける、演出や脚本と音楽の関係のそれと同じでしょう。

それにしても、ウィーンフィルの素晴らしさは想像以上で、贅沢が過ぎるというのはこのことなんだろうなあ、と思います。指揮への追随も半端ないです。

ウィーン楽友協会大ホールの響きの良さは格別です。「未知との遭遇」のフォルテの残響があまりに美しく、何度も何度も聞いています。

 

ちなみに、Apple Musicでは、映像も見られます。

CDからはカットされている歓声が収められていて、臨場感という観点では、映像のほうがおすすめです。

こちら。。

https://music.apple.com/jp/music-video/%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E3%81%AE%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%81-from-star-wars-the-empire-strikes-back-live/1513603867
それではまた。おやすみなさい。グーテナハトです。

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Jazz

それにしても、落ち着かない日々が続きます。

しかし、ここまでブログ書かないでいると、気持ち悪さはあります。

辻邦生は「ピアニストが書くように」文章を書いていて、「絶えず書く人」と言われていましたので、足下にも及びません。

とはいえ、そういえば、土曜日にとある人から「いつもメモしていますね」と言われました。まあ、人に見せないメモはいくらかかいているのかしら、などと思ったり。日記も毎日書いてはいますが。

また少しずつ毎日発信していくことを自分に課していかないと、などと思います。

本当に毎日書かないとなあ。。。

ということで、今日の一枚。ポンチョ・サンチェス。この半年以内のいつだったか、ラジオで聴いて以来折に触れて聴いております。特に4曲目のGiant Steps。この曲吹けないと一人前ではないと言うことなんですが、私は老けないな……。パーカッションの入った4ビートはよどんだ空気を一新してくれます。ありがたいことです。

今週も少しずつアジャストしようとおもいます。

みなさまもどうか良い日々を。

おやすみなさい。グーテナハトです。

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Miscellaneous

度が替わって一日が経ってしまいました。

年度に何ら必然性がなく、あるいは、天文学的には1月1日も無意味なのだそうですが、4月というのは日本人にとってはなにかひとつ神聖な月でもあります。入学の月であり、入社の月であり。

本当にありがたい季節です。

写真は都内某所の桜で、先週撮影したものです。

みなさまも今年度もどうかご一緒に頑張りましょう。

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Movie

NHKBSで放映されていた「シックス・センス」を見ました。本当にいまさら。1999年公開。

ネタバレは厳禁なので、詳しくは書きません。
いえることは、物事を打開するためには人に求められていることに応えることなのでは、ということでしょうか。

常々感じていることでもあり、なにか使い古された言葉でもありますが、他者への貢献が、自らを助けると言うことは本当に良くあることです。
それは人間だけではなく、たとえば植木に毎日水をやるという行為にも、植物との感情の交感があるように思え、それが主観的な想像であったとしても、助けられていることは事実なので、主観的な想像でありながら、客観的な事実へと転化するものでもあるわけです。

つまるところ貢献自体が自らのミッションにもなり得る、ということでもあります。

自利利他という言葉があるようで、利他がひいては自利になるということと聴きました。過剰な利他はともかく、自利と利他が円環を形成できればいいのですが。

そういうことを感じながら観ました。

(ネタバレにならないように書くのは限界ありますね…)

 

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

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Miscellaneous,Tsuji Kunio

数日前から、咲き乱れるコブシが目につくようになりました。散り始めてはいますが、美しさはこの上ないものがあります。

月日が経つのは早く、そろそろ春分にさしかかろうとしています。個人的には、夏が待ち遠しく、春分過ぎると、あと3ヶ月で夏です。本当に待ち遠しいです。季節の巡りは無限のようでいて実は有限であることにも気づかされます。

さて、それにしても、書くことの難しさを感じるこのごろ。

日記やら何やらは書いていますが、在宅勤務になり通勤の時間がなくなった分、ものを考えたり、何か書いたりする時間が少なくなってしまった、ということなんだと思います。

ピアニストがピアノを弾くように書く、というのが辻邦生の言葉ですが、守るのはなかなかに難しいですね。

また、ウェブログというメディア自体がもはや時代遅れという感覚もあります。ウェブログが始まったのはもう20年も昔のことです。ウェブログがブログに変わり、誰もがニュース発信者になれるという強烈なメッセージを感じたのは遠い昔のことです。

今では、TwitterやfacebookあるいはnoteやYoutubeが情報発信のプラットフォームになり、最近ではClubhouseなども登場してはいますが、なにか、どれも囲い込まれたメディアと思えて違和感を感じていまして、おそらくウェブログはずっとキープしていきたいと思っています。私も考えが20世紀的なのではないか、と自己反省をしなくもありません。最近の表現は文章ではなく映像なのでしょうし。文章を書くと言うことへの懐疑を持っているのも事実です。書く、と言う行為にどういう意味があるのか。今や、写真や動画と言ったビジュアルに表現のメインストリームを名実ともに奪われ、書くという行為はレガシーとなっているのではないか。表現の手法として適切なのか。ボブ・ディランがノーベル文学賞を取ったということを捉えたときに、文章の意義が何か、と言うことを本当に考えてしまします。おそらくは大きな転換点の時代にあり、あるいはそのスピードが想像を超えて加速している時代にあって、古びた形式に固執しているのではないか、という疑いをも持つ訳です。

料理研究家の辻静雄と辻邦生・佐保子夫妻が行った対談に、以下のような一節があることを思い出しました。

辻佐保子
あなたはいつも、食べ物産業とお話産業はどんなに不景気になってもなくならない、ってよく言ってましたでしょう。両辻先生に通じますね。

辻静雄
あ、それはいい話だ。

辻邦生
人間を喜ばす仕事は、人間が存在する以上は絶対に滅びない。

辻静雄著作集 『「プルーストと同じ食卓で」辻静雄からの招待状』

「人を喜ばす仕事」のうち、食べ物産業がコロナ大きな打撃をうけて業態の変化を求められているように、お話産業も業態の変化を迫られているのでしょうか。

あるいは、そのヒントは引用した一節の少し前に辻邦生が語る言葉に表れているのでしょうか。

本当に生きる歓びというものが、精神の隅々、肉体の隅々に滲みわたり、そして書く一行一行がそういうものに溢れていたら。人間はそれを手離すはずがない、というのが僕の信念なんですけれどね。

辻静雄著作集 『「プルーストと同じ食卓で」辻静雄からの招待状』

書くと言うことが、生きる歓びに満たされていて、人間を喜ばすということ。それは書く人にとっても、読む人にとっても。そうでありさえすれば、メディアの相違は本質的な問題ではないのでしょうか。

この辻静雄著作集ですが、亡くなった大学の後輩にいただいたものであることも、今日こうしてこの文章を書いたことにも関係あるのでしょうか。

媒体にかかわらず、溢れる生きる歓びを表現するということのほうが重要なのかもしれず、写真であろうが動画であろうが文章であろうが、伝えるべきものを伝えると言うことなのでしょう。そこにはアクセス数といった定量化される指標は似合わない気がします。マーケティングは重要ですが、本質があったのちのマーケティングであり、どうも世界をおかしくしているのは、見栄え見てくれ見せ方でいかようにもなってしまい、本質や真実が二の次になっていることではないか、と思います。見栄え見てくれ見せ方で工夫したとして、その先続くかどうか。

高野山のふすま絵を描いた千住博さんがこんなことを言っていました。

「他人はだませても、自分はだませない。当然お大師さまをだますことは出来ない」

https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/episode/te/L3N589QPLL/

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

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Tsuji Kunio

ずいぶん長い間書けなかったな、と思いました。1月19日に書いて、それから二週間あまり。

ふと手に取った辻邦生の「地中海幻想の旅から」に納められたロシアへの旅の文章に引き込まれてしまいました。

私がこの長い長い汽車旅を選んでよかったと思ったのは、翌日の早朝、私が目を覚まし、何気なく枕もとのカーテンをあけたときであった。窓の向うには、初秋のロシアの白樺の森が果てしなく続いているのであった。私は思わず息をのみ、冷たい朝霧のなかに、輝くような白い幹を連ねる美しい森に見入ったのだった。

目に浮かびますね。白樺の森がどこまでもどこまでも続いている感じ。それは、我々日本人にとって、白樺の森という非日常がそこにまずあり、その非日常がどこまでもどこまでも無限に続いているという信じられない感覚で、それは自らの現世での経験の矮小さと、世界の認識しきれぬ無限にも近い広大さをまざまざと感じさせるもの、と思います。

それでもなお、白樺の森は有限にある、という事実。

 

世界はどこまでも美しく広漠です。

 

立春がすぎて、春が待ち遠しい今日この頃。東京地方は春一番がもう吹いてしまったとか。とはいえ、まだ寒い日はしばらく続きそうです。どうかみなさまご自愛ください。

おやすみなさい。グーテナハトです。

 

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