Miscellaneous

久々休日でしたが、それでもなお、肉体的に動いた感じもありました。明日に備えないと。

今日は、アバドとクレーメルの「四季」を。

この音源、大昔、小学生の頃にカセットテープを買った記憶がありますを3,000円でした。よく買ってもらえたものです。当時は、「冬」の鮮烈な演奏に衝撃を受けたものです。

四季といえばこの演奏になってしまい、それ以外の演奏はなかなか入ってこないなあ、と言う感じです。なんでも最初が肝心です。

明日からまた頑張ろうと思います。

では、おやすみなさい。グーテナハトです。

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Tsuji Kunio

最近、記憶の古さに愕然とすることがあります。これもやはり歳を重ねることによる「必然的な状況」なのかなあ、と思いながら過しています。

似たような体験として、時間経過が早くなるというものがあります

が、あれは人と話しているとだいたい三十代前半で発生する事案のようです。自分のそれまでの全人生に対する一年間や一ヶ月の割合の感覚が閾値を超えるらしく、時の経過の早さに愕然とする、というものです。これは反比例グラフと同じなので、そのうちにそうした時間経過が早くなるという感覚はなくなり始めます。まあ経過の早さに慣れてしまうということもあるのでしょう。

この「時間経過が早くなる」に続いて訪れた歳を重ねることによる「必然的な状況」が、この記憶の問題であるように思います。どうも、最近は記憶と現実のリアリティが等価になり始めていて、昔の町の様子と、現在の町の様子が相違していたとしても、どちらもリアリティがあるように思ってしまうわけです。

例えば、20年前に駐車場だった土地に今は立派なビルが建っているのですが、今の私にしてみると、20年前に駐車場だった風景のほうがリアリティがあり、いまこの瞬間に、どちらがリアルか、というと、私にとっては駐車場のほうがリアルなのです。

これは、先に触れた「時間経過が早くなる」という感覚もひとつの要素なのでしょう。20年前も1年前も、時間経過が早いため、その長さにあまり差違を感じないのです。このため、リアリティのひとつの要素と思われるどの程度古い記憶なのか、という感覚が若い頃と変わってきたように思うわけです。

と言うことで、現在の私にとっては、記憶も認識もさほど変らなくなってしまいました。そうすると、記憶のなかを縦横無尽に行き来することで、どこにでも行けてしまうわけです。さらには過去の記憶も未来の予想もリアリティもさほど変らなくなり、過去の記憶から未来の予想のなかまで、縦横無尽に生きることができてしまう気がします。

そんなことを思っているときに、辻邦生全集第18巻のなかに、そうした状況を説明した文章を見つけ驚きました。1974年に書かれた「時間のなかの歴史と小説」という文章にあるものです。

『パリの手記』のなかで、私はある想念を追求めていて、突然、ある日、<私の世界>というイデーにぶつかり、身体が透明に軽くなるような実感を味わう箇所があるが、これは世界の変転のすべてが<私>のなかに包まれ、<私>の内部にあるという感覚の直観だった。おそらく、私はそのとき世界史の興亡を、永遠の場における演戯者の仕草のごときものとして感じていたにちがいない。歴史的意識は、永遠のなかで解消し、そのような形で私は時間の圧迫を超えることができたとも言えよう。

辻邦生「時間のなかの歴史と小説」『辻邦生全集第18巻』、2005、新潮社、398ページ

あの、パリのポン・デ・ザールでの出来事ですね。このポン・デ・ザールの出来事はさまざまな場所で述べられていますが、このブログでかつて取りあげていた箇所からもう一度紹介します。

(本来「パリの手記」から引用するべきですが、今回はこちらで)

ポン・デ・ザールのうえで私が感じたのは、(中略)全てのものが私という人間のうちに包まれている、ということでした。並木も家も走りすぎる自動車も、見も知らぬ群衆も、すべて、私と無関係ではなく、それは私の並木であり、私の家であり、私の群衆でした。

辻邦生「小説家への道」『詩と永遠』岩波書店、1988、249ページ

この経験は、空間的に全てのものが私のなかに包込まれているという感覚ですが、実のところ、空間だけでなく時間をも私が包込んでいる、と言うことなんだと思います。

この時間においても全てを包込んでいるという感覚は、何か、私が感じている記憶と現実のリアリティが等価になりつつあるという感覚と似ていると考えています。つまり、過去の記憶も未来の想像も縦横無尽にどこでも行けるという感覚は、時間を超えてしまったことと同じである、と考えたからです。

ただ、辻邦生の場合は、その境地は、あくまでポジティブなものでした。この「私だけの世界」を書くことで遺さなければならない、という感覚があったようです。私にしてみると、どうもそれは、なにか虚しさを感じるものだと思うのです。

辻邦生の言う「生きる喜び」こそが、この時間を超えた虚しさを、時間を超えた充実と豊饒さへとひっくり返すために必要な鍵なんだろうですが……。ともかく、辻邦生の「ポン・デ・ザールの出来事」を理解するひとつのとっかかりをつかんだような気もしています。もう少し考えないと。

今日はこのあたりで。みなさまもどうかよい週末の夜を。おやすみなさい。グーテナハトです。

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Tsuji Kunio


昨日書いたウェル・メイドに引きずられて、辻邦生が書いた「物語」が読みたくなりました。昨年でしたか、再版され、Kindleにもなっている「時の扉」を読もうと思い立ちました。Kindleで読もうかしら、と思いましたが、高校あるいは浪人の頃に読んだ文庫を引っ張り出してきました。この本をどこで買ったのかも覚えていて、少し恐ろしさを感じます。

 

最近読んだ辻邦生の文章で、新聞小説は、短いスパンで山場を創る必要がある、ということを読みましたが、確かに普通の小説とは違い、のっけからいくつもの山のようなものがあり、構成として普通の小説とは違うなあ、と思い、これは「NHK朝の連続テレビ小説」的な山の作り方だ、と思い、なるほど「NHK朝の連続テレビ小説」は新聞小説のメタファであると思われ、であれば似ているのは当り前か、と思った次第です。

これからどうなっていくのかしら、なんてことを思いつつ、この週末に、時間を見つけて読進めようと思います。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

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Richard Strauss,Tsuji Kunio

現代が暗い絶望的な予感に満された時代であるだけ、私は事柄のもう一つの反面──楽観的な側面を強調したい、と思ったのも、『祝典喜劇ポセイドン仮面祭』に軽やかな気分を加えた理由である。
<よくできた(ウェル・メイド)>ものへの好みが、それなりの危険を持ちながらも、事実性のレヴェルをこえて、感動の秩序をつくろうとする形式意志の一種であることを、とくに戯曲を書きながら、私はよりよく理解していったようにも思う。

辻邦生全集第18巻 401ページ

「ウェル・メイドへの偏愛」というエッセイを読みました。辻邦生全集第18巻に収められた文章です。「ウェルメイド=よくできた」というのは、「ストーリーの見事な作品」であり、「作品に起承転結があざやか」である作品です。「黄金の時刻の滴り」に収められた短篇の一つに、モームをモチーフに書かれた「丘の上の家」という作品がありますが、あのような推理小説張りのストーリーの見事な作品にあたるでしょう。
引用した最初の文章で、「現代が暗い絶望的な予感に満された時代である」に対してあえて、「楽観的な側面を強調」と述べていて、そこにおいて、「ウェル・メイド」なストーリーである「ポセイドン仮面祭」を書いたと見て取れるとおもいます。文学には様々な権能がありますが、こうしたあえて楽観的な側面を強調することで、何かを変えることに繋げるというやり方もあると思うのです。これも戦闘的オプテイミズムの一つであり、文学が現実を超えて現実を動かすために必要不可欠なあり方です。(フォニイ論争とも関連しますが)一般的には「通俗的」と言われ格下に見られることになり、がゆえに、「それなりの危険性を持ちながらも(同401ページ)」と書かれているわけです。

ここで思い出したのが、リヒャルト・シュトラウスのことでした。「エレクトラ」までは先鋭的なオペラを書いていたのが、「ばらの騎士」で、先鋭から離れ、洒脱な人間ドラマを描き始めたわけですが、私はその次のオペラである「ナクソス島のアリアドネ」の第一版に含まれていた「町人貴族Le Bourgeois Gentilhomme」という組曲を思い出します。なにか、こうした18世紀的な小編成オーケストラによる演奏が、なにか時代を逆行しているように見えながらも、あえてそうした洒脱さ、軽妙さを強調することで、逆に時代と戦っていたのではないか、と想像してしまうのです。

私が聴いているのは、ラトルが振ったこちら。なんというか、本当に落込んだ時に聴いてはいけませんが、少し元気になり始めたときにこの音楽を聴くと、心が晴れるかもしれません。明るい日差しの差込む広間でひとりで佇んでいる感じで、おそらく床のニスの甘い匂いがたちこめているはずです。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

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Apple Music,Jazz,Michale Brecker

「6月から」とされていた、AppleMusicのロスレス配信、全く音沙汰がなかったので優先度を下げていたのですが、昨夜思い立ってネットで調べてみると、ちょうど昨日から配信が始ったようです。

iOSはバージョンを14.6以降、MacOSはバージョンを11.4以降、tvOSはバージョンを14.6以降に挙げることで対応できるとのことです。

早速昨夜から聞き比べていますが、先ず気をつけないと行けないのは、優先接続でないとロスレスの音質で聞くことはできません。またハイレゾは別途DAコンバータが必要です。

私はさしあたり、ヘッドフォンで試してみましたが、そもそもヘッドフォンの音を気に入っていたこともあり、ロスレスに上がったことの効果をあまり聴きとれることができませんでした。しかし、AppleTVで、旧来音源とロスレスの聞きくらべをしたところ、さすがにこれは音質があがったね、ということがよく分りました。音の繊細さと拡がりは、やはりロスレス音源はひと味違うものと思いました。

で、悩みとは、この「優先接続でないとロスレス音質を享受できない」ということです。いままでBluetooth接続の利便性をよしとしてきた身に取っては、また優先に戻るのか、という感覚があります。もうしばらくすると新たなテクノロジによりそのあたりも佳くなるのでしょうけれど。そもそも、Appleがこのタイミングでロスレス導入をしたのはドルビー・アトモスを入れる必然性であったり、Spotifyなど競合の動向を踏まえたもののようで、ハードウェアが追付かないまま見切発車をしたという側面もあるようですから。

とはいえ、追加料金なく、ロスレスを楽しめる可能性をコンシューマが得たということは大変ありがたいことです。いろいろ工夫しつつ、テクノロジがさらに追付くの期待しながら、音楽を楽しむことにいたしましょうか。

写真は、マイケル・ブレッカーの初めてのソロアルバムをAppleMusicで表示させたところ。ロスレスのアイコンがついています。
で、聞かないわけにはいかない最後のMy One and Only Loveをひとしきり。この曲は、セッションでもよく吹いています。Bに移行するフレーズはいつもブレッカーのフレーズを使わせてもらっております。さすがに冒頭のソローは真似できないですしやらせてもらえません。ソロからメロディーに移行するところ、ソロからスイングし始める切替えの感覚もたまらないです。またなにげにいいのがメセニーのギター。この頃のメセニーは本当にいいです。メセニーのフレーズも真似して使っております。

まあ聴いていて、確かに音が良くなった気はしますね。。

ということで、今日はこのあたりで。梅雨に入らぬ間に暑い日が始りましたがが、お身体にお気をつけてお過しください。
おやすみなさい。グーテナハトです。

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Jazz,Michale Brecker

大学時代、サクソフォーンのマイケル・ブレッカーのプレイが大好きで仕方がありませんでした。今日、Apple TVでAppleMusicをザッピングしていたところ、マイケル・ブレッカーが1995年にヘルシンキでビッグバンドとともに録音した音源が出てきました。2015年に発売された音源のようです。記録によると2018年に購入したみたいです。

 

実のところ、80年代後半から90年代前半のマイケル・ブレッカーのプレイが一番フィットする感覚があり、初代のブレッカー・ブラザーズが終わり、ソロアルバムを出し始めた頃から、再結成したブレッカー・ブラザーズの終わりあたりが、個人的には聴いていてもっとも心がひかれます。ソ連がなくなり、これからは平和な時代が訪れるのではないか、と感じた90年代前半。インターネットが出始め、これからなにかバラ色のワクワクする時代が来るのではないか、という予感。ヘーゲル的にいよいよ世界史の完成ではないか、という思いがあったころでした。私だけだったかも知れませんし、あるいは、いまから振り返って、そう思っていたと今認識しているだけなのかも知れませんが。

ともかく、やはりこの録音が1995年である、と言うことは私にとっては極めて重要で、もっとも惹かれるマイケル・ブレッカーのインプロヴァイズが聴けるという間隔があります。先鋭的に攻めるインプロヴァイズでは、聞き慣れたフレージングをエキサイティングに繰り出してくる感覚がありますし、バラードナンバーでメロウに歌う感じも実にすばらしいです。何よりサックスの音が実に良くて、太い倍音に彩られた確固とした音は、サックスという楽器は、フレージングよりなにより音質においてアドバンテージを発揮しなければならない、という思いにとらわれます。それは、楽器、マウスピース、リードと、身体的なバランス、それはつまり息の入れ方という訓練によって得られるものに加えて、おそらくは体格であったり気道の太さと行ったサックス奏者の身体的アドバンテージによって得られるものだなあと思うわけです。まあ、悪い音のサックスで、どんなに良いフレーズが吹けたとしても、さまざま難しいんだろうなあ、と思います。良い音のサックスで、フレーズが吹けない場合は、1曲だけ持つ場合はありますから。

ともかく、AppleTVで、昔聴いた音源を振り返ることができるというのはなかなかに在りがたいものだなあ、と思いつつも、余りに古い記憶が勢いよく溢れ出てしまうのが厳しい感覚は在ります。この音源に収められたInvitationもNica’s Dreamも、学生時代にコンボでやったことがあるなあとか、ブレッカーのように吹けずに(当たり前ですが)悩んだり(不遜な悩みですが)という記憶も、世界にワクワクしていた記憶とともに出てきますし。
まあ、音楽を聴くと言うことは、プルースト的に言うと、マドレーヌにおいてなにかしらを想起させるということと同じであり、さまざま折り合いをつける必要があると言うことなんだろうなあ、と思います。

と言うわけで、みなさま良い夜を。おやすみなさい。グーテナハトです。

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Miscellaneous

 

今日も在宅。久々に晴れ間が広がり、どうしても日光が浴びたくなり、夕方少し前に抜け出して10分だけ近所を歩きました。この太陽の光に満ちた初夏の風景は余りに奇跡的で、おそらくは、おなじ太陽高度をであろう7月初旬は暑熱に見舞われ、

こうも気楽に外を歩くことはできないでしょうから。こうした一片の幸福感を、なにか幸せのおはじきを集めて、それらを頼りに活きていくと言うことなんだろうなあ、と、先日読んだ「黄金の時刻の滴り」を読んで思いました。
近所の畑のトウモロコシの背は高くなり、キュウリは黄色い花をつけ、ジャガイモの薄紫色の小さな花は地中に眠るジャガイモののありかを示す導灯のようです。トウモロコシの艶のある細い葉に太陽の光が反射すると、なにか畑が光に波打つように見えます。
明日から夏日となるようです。湿度も上がっていますが、一足早い夏を在宅で味わい、幸せのおはじきをいくつか集めたいと思います。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

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Tsuji Kunio


昨日、家の整理をしていたら、古い新聞切り抜きコピーが出てきました。平成10年(1998年)9月3日の毎日新聞のコラム「余録」の切り抜きでした。そこには、サッカー部員だった辻邦生が、西欧のサッカーチームと日本の作家チームのゴール布陣の相違を「小さな散歩道から」という文章で述べていたと言うものでした。

辻邦生がサッカー部員だったという記憶が残念ながら私はなく、本当にこういった文章があったのか、これは原典に当たるという観点から、この「小さな散歩道から」というエッセイを実際に読みたいと思い、全集目録をあたりましたが、残念ながら全集には収録されていませんでした。
この「小さな散歩道から」とうエッセイは、「群像」の1998年10月号に掲載されたという情報があり、これはどこかの専門の図書館に行かなければならないか、と思っておりました。

で、本当に偶然ですが、昨日所要で母校の図書館に手続きに行くことになっておりまして、手続終了後OPACで「群像」がないか調べてみようか、と思ったところ、あったんですね、「群像」が。それも、戦前の刊行分から書庫にある、というわけです。

OPACに表示された地図を頼りに、書庫に向かうと、「群像」が製本されてずらりと並べられており、くだんの1999年9月号もいとも簡単に探し出して原典に当たることができたというわけです。図書館は本当にありがたいです。

確かに「私が高校生のころサッカー部員としてグラウンドに立ったとき」という記載があり、これは旧制松本高校においてサッカー部に辻邦生が属していたということにあたるのかな、と考えた次第です

この「小さな散歩道から」というエッセイでは、明治期に日本を訪れたケーベルが、東京には散歩道がないことを嘆いた、と言う話から、日本においてはハイデルベルクの哲学の道のような、形而上学的な思索を深める散歩道がそもそもできるのが難しいのではないか、という話から、散歩といっても単に気楽に日常生活の外に出るという話ではなく、「有名なカントの散歩のように、規則正しさが日常生活の活性化に通じ、そこから比較にならない自由が生まれていることを思うと、自由なり遊びなりの置かれた土台が、そもそも試行や判断の構造とは異なる」と、日本人の自由気ままな散歩では思考は意志的、構成的にはならないだろう、と述べていて、その文脈の中で西欧と日本のサッカーにおける陣立ての違いを例に出していると言うものでした。

私も、最近毎日15分走ることを日課にしていますが、こうした日課を、走る距離やコースだけではなく、決められた時刻に走るという規則性をしっかり守ることで、なにか産まれることがあるのでは、と思っています。

写真は、松本行きのあず33号ですが、LEDの周波数とカメラが合わず「松本」という文字はよくわかりません。すいません。新宿駅で東京方面へ向かう中央線を待つ間に撮影しました。おそらくは80年ほど前と同じ鉄路を通って辻邦生と同じく松本に向かうのではと思いつつ、そうか、辻邦生が松本高校に向かったのは、おそらくは新宿駅からだったのでは、と思い、なんだか、シンクロニシティな一日でした。
というわけで、みなさまおやすみなさい。グーテナハトです。

+2

Tsuji Kunio

「黄金の時刻の滴り」を開きました。中条省平さんが、辻邦生の文学表現の白眉として取りあげていた文章を読みたくなったからでした。それにしても単行本は美しい装丁で、タイトルの文字は光が反射して虹色に光ります。

それは、「花々の流れる河」というヴァージニア・ウルフをモティーフにした小説の一節で、花屋の温室に花がその匂いとともに咲き乱れている感覚が絢爛に描かれている部分でした。たしかにその部分は凄いのですが、読み進むに連れて、それ以上に衝撃を受ける部分に行き当たり、どうにも涙が止まらず、以来なにか悲しみに打ちひしがれている気がします。

まず以下の部分。

「本当ね。この夏、私は、あなたと一緒に何度か至福を味わったわ。それは、無意味な人生のなかに懸る虹なのね。すぐ消えるとしても、とにかく美しいことは事実だわ」

「奥さま、私は、虹は消えないと思います」

「消えない?」

「ええ、消えません。それは美しい至福の時として心に生きつづけます」

「無意味のなかに沈み込まないで?」

「沈み込むことはないと思います。この夏奥様と味わったあの歓喜は、いまも胸のなかに生きつづけると思います。どんなに無意味な人生がつづいても、この嬉しさは壊せません。たぶん嬉しさのほうが地球より大きい球になって、地球を包み込むのだと思います。地球が滅びても、喜びの大きな球は滅びないんです」

歓喜が、無意味とされる人生の中にあっても、消えずに残る。それは地球を包み込むものだ、という感覚。これは、実によく分かる感覚で、かつてからどうやら幸福感というものを息継ぎのようにして生きていた感覚もあり、その瞬間瞬間の幸福感があることが重要である、と考えたこともあり、そうだとすると、この「消えない虹」があること自体を頼りに生きている感覚はリアリティのあるものです。

あるいは、この嬉しさが地球を包み込むという感覚も、なにか地球を象徴とする世界全体を、嬉しさという感覚に満たされたと言うものであり、それもあながち間違っていないと信じたいイメージなのだろう、と思います。

さらにこちら。

「ええ、死の淵に引きずりこまれるとき、仕方なく諦めて、中途半端な気持でいるのはいやね。私は、死を前に置き、生きることを完成させて、きっぱり決心して、満足して、そこに飛び込んでゆきたいわ」

「だが、死は不意にくるぜ」

「だから、いつも用意していたいのよ。そのときそのときで死に不意を衝かれないように」

そうでした。あの方は現実という変転する時間の流れのなかで確かなもの、不動のものを求めていました。それが時の変転を超えて現われることは、私たちは、ともにコーンウォールの海岸の朝に深く経験していたのです。あの方はこの不変の美の喜びのなかに生き、それを作品に描こうと努めていたのでした。そしてそれが作品のなかでしか確実にできないことはあの方の悲劇といってよかったかもしれません。生きることは、変転する流れに身を委せることであり、なかなかそれを超えて不変の実在に達することができなかったのです。もし流動する現実の時を、不変堅固な実在とするには、人は、一瞬一瞬死ぬほかないのです。つまり一瞬一瞬、現実を不変の実在へ──喜びに満されたそれ自体で完成した時へ、変容する以外に方法はありません。

 

思い出すのはル・コントの「髪結いの亭主」で、幸福とされる状況で命を絶つ主人公が画かれていて、あの感覚を大学時代にありながらよく分かっていた記憶があり、「先にアイディアをとられた」と、悔しかったのを憶えています。

結局、いかに死ぬかということが重大で、一瞬一瞬を死に、一瞬一瞬において生きるということを求められて折り、生きることは厳然とした義務と権利であり、我々が全うする必要があり、また世界から負ったものであることは間違いのないことで、その中で「嬉しさの虹」を見いだし、息継ぎをするように生きるということに他ならないわけですね。業のように辛いことではありますが。

なんてことを思いながら今日一日過ごしました。

今日の東京地方は曇り。さえない一日でしたが、来週は晴れるようですね。佳き日々になることを願いつつ。

おやすみなさい。グーテナハトです。

 

+1

Jazz

雨の続く日々。雨は雨で恵みの雨ではありますが、やはり太陽の光が恋しい一日でした。今日はなぜかパット・メセニーを聴いてみたりして。2011年のアルバム「What’s It All About」。

最近のアルバムは全く聴いていませんでしたが、ギター中心のアルバムを聴いてみて、ギタリスト達はこういうギター一本で音楽世界を構築できるという事実に励まされ、あるいは悩まされていたんだろうなあ、と思います。ギタリストではないので、あくまで推測でしかありませんが、まあ、マイケル・ブレッカーがEWIでシンフォニックな世界をひとりで構築しているのを見て、驚嘆と諦観を覚えるのと似ているのでは等と思ったりも。

それにしても、「イパネマの娘」がここまで内省的に描かれてしまうと、そこに物語自体が変容してしまうわけで、ある種の絶対音楽のような感覚すら覚えます。

それにしても音楽を楽器ひとつで構築できるのは、鍵盤楽器か撥弦楽器だけではないか、と思わずにはいられない気分です。これはもうほとんどパイプオルガンと同じぐらいの奔流だったなあ、と。先日触れたブルックナーの逸話を思い出しながらそんなことを考えました。

パット・メセニー、昔は分厚いバンド編成で、すさまじくシンフォニックなサウンドを創りだしていましたが、最近は追いかけていないので、何が起きているのか分かりませんが、なんだか虚無僧のような境地へと到達してしまったのでしょうか。

ということで、週末の東京はやはり雲に包み込まれるようです。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

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