ゆく年くる年 アバドのモーツァルト

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ブログというものに出会って20年にもなると、ブログというものも、古色蒼然とした感じもあります。X(Twitter)も少し色褪せた感もあります。何年経っても自己表現というものは、生きていくためには必要不可欠ですが、どうしたもんかな、と思うことしばしばです。

最近は、文章よりも、映像の方が伝わるようですし、生成AIで文章を書くのが効率の良い在り方らしく、生成AIを使わず文章を書いたら怒られることもあるようです。

何となく、長く生きすぎたかな、なんてことを思ってしまいますが、生きるためには、状態を整えなければいけませんので、AIでも、脳外記憶でも、ロボットでも、何でも来ていただかないと、と思います。あと数年で、ヒューマノイドロボットがくるようですので、心の準備も必要ですね。

そんな中で、人間として生きるためにはどうすればいいのか、と。人間にしかできないことはなんだろうか。それは、あらゆる意味で、共感、物語、徳、といった、何か感興のようなものが、普遍的に変わらないものなんだろうな、と思います。おそらくは芸術以外のものは、AIに代替されうるのだと思いますが、人間を対象とする芸術だけは、やはり人間にしか担えないのではと思います。人間は、芸術に、芸術家の生き様を映しながら見ているからだと思います。

近頃、クラシックといえば、アバドをよく聞きますが、言葉では表すことのできない、なにものをも包摂するような柔らかい風情はいつ聴いても変わることはありません。そこには心地よさを感じる、ということもありますが、移ろいゆくものの中に繋留されたブイのような感じも思います。こういう私も、実世界では、AIやデータを調べていますが、そこにポジティブな思いも感じつつも、繋留ブイの必要なことも感じています。生成AIが全てを語り、ヒューマノイドロボットが、街ゆく自動車と同じように、風景の中に溶け込む時代が5年後に来た時に、そこにある動くものと動かないものを見極める眼を養っておく必要があるんだろうな、と思います。

そうか、文学、芸術、宗教といった、これまでは実世界では脇役であった分野が、人間の主戦場になる日はそう遠くないのだろうと思い、そうした日々に向けて備えて行かないとな、と思います。

ということで、皆様、本年は、あまり書けず、すみませんでした。どうか、良いお年をお迎えください。