先日も書きましたが、岩波文庫青帯を数十年ぶりに買って少しずつ読むという、この年齢でやっちゃいかんことをやっている気がします。学生時代は全く縁がなかった鈴木大拙、あるいは少しは囓った西田幾多郎などなど。
授業や研究会で本を読み話を聞きましたが、いずれも、書いた本だけをよめばいいわけではなく、そこに至るまでの2000年間の哲学史があり、あるいはそれ以降の解釈の歴史があるわけで、本当に分かった気になるのはまずいな、という思いしかありません。実に厳しい世界でした。私は、大学院に残ろうかと思案しつつも、踏み切らずに就職したので偉そうなことは言えませんが。
とはいえ、そうした哲学史や解釈史を持たない市井の人間も、岩波文庫青帯を読む権利もありましょうし、理解がなかろうともいくばくかは語ることもできるでしょう。そうした個々人の理解不足や解釈のブレのようなものも、何かしらの可能性をもたらすものかもしれませんし、そうした語りが偶然にせよ現れることに意味があるのでは、と思います。
たまたまかもしれませんが、仕事場で哲学に興味のある方がいらして、少し話す機会があったというのも、もしかすると青帯を買ったことと関係があるのかもしれません。
偶然はなく全ては必然だ、という台詞を、二年ほど前に見た「二人の教皇」という映画のなかで知りまして、まあ、そんなもんかもな、と。
で、今日、偶然聞いたのが、カルロス・クライバーが振る「運命」は、その筋では実に有名で、私も初めて聴いたときは、多分に漏れずあまりの鮮烈さに驚いたものです。
こうして、青帯を手にとり、「運命」を聞く、というのも、運命なのかもしれません。
それではみなさま、おやすみなさい。