繰り返し聴くことでわかることもある──ベルク「抒情組曲」
無理だと分かっているのに立ち向かわなければならないときがあります。いまの仕事もそんな感じ。トラブル対応は気が重いですが、そういうことを気取られぬように自己統制をして仕事をするのもサラリーマンとしては重要なこと。いやいや、サラリーマンではないほうが、むしろ自己統制をきちんと取れなければならないのかもしれません。使う言葉の一つ一つが、毒牙にもなりうりますね。他人だけではなく自分をも傷つけることがありますので気をつけなければなりません。
さて、今朝は少々早起きをしたのですが、聴いている音楽といえば、しつこいほどベルクの抒情組曲。これが楽しいんですよ。おそらく、譜面を見ながら考えて聴くともっと刺激的だと思うのですけれど。だんだん覚えてきました。弦楽四重奏による楽曲なのですが、ルルっぽいフレーズが出てくるのがわかってきたりと、なかなかおもしろいです。しかし、まだ「理解できている」ともいえないです。もっと聞き込まなければなりませんね。
これがベンヤミンの「複製芸術」の楽しみ方だと思うのですが、いかがですか? 少々我田引水なきらいはありますが。 オペラやコンサートで音楽を受容するのは、まさにその場限りのもの。われわれは、「その場限り」、すなわち「一回性」に価値を見て(ベンヤミンはそれをアウラという)いるわけです。ところが、19世紀末になってテクノロジの発達により新たな芸術表現が可能になりました。それが「映画」であり「録音音楽」なのであります。何度でもリピートが可能ですので、同じ芸術素材を何度も何度も受容することができます。こうして、「一回性」は失われるけれども、それ以上に「リピート」によって、理解できる可能性は大きく広がるわけですね。
私は、当初は「一回性の価値」すなわち「アウラ」を過度に評価をしていたように思います。「アウラ」が失われた「複製芸術」は、新たな芸術形式ではあるが、一回性という輝く価値の喪失ほど残念な損失はないのである、といった具合に考えていたのです。 その後、某大学の哲学科紀要を読んで、そうではなく「複製(リピート)」自体が芸術の理解を広げ深めていくものなのである、という考えを読んで、ああそういうことなのか、という理解をしたのを覚えています。 ベンヤミンの文脈の捉え方が間違えていたらごめんなさい。確かこういう議論だったと思うのですが。久々に本を読み返してみようかな、と思います。
哲学の話も面白いのですが、もう大分と歳を取りましたので、一気に読むことはできないですね。毎日少しずつ読んでいくことができるかなあ、というところ。それも一度じゃ分かりませんので何回もよむ。これもやはり複製芸術的考えですね。
そういえば、戦争期に総理大臣を務めた米内光正海軍大将は、本は必ず三度読むことにしていたそうです。さもありなむ。私も辻先生の本は主要なものいくつかは三度ばかり読んでいる気がします。読むたびに新しい発見があります。これも「複製」の効果でしょうか。
複製を何度も受容すれば量的変化が質的変化へと変貌すると信じてがんばりましょう。
ディスカッション
rudolf2006さん、ベーム盤もよいのですね。情報ありがとうございます。私はまだまだ聴き足りないです。もっと聴かないと。しかし時間が……。クラシックの世界は奥深すぎて、時々くらくらします。少しずつ進んでいくのが大事だと思っています。
rudolf2006さん、コメントありがとうございます。抒情組曲は、アルバン・ベルク・四重奏団で楽しんでいますが、ほかの四重奏団の演奏も聴いてみたいですね。この一年間はオペラを優先して聴いていましたので、室内楽を聴くのは久しぶりです。ほかの四重奏団の演奏も聴いてみたいです。ご紹介いただいてありがとうございました。
Shushiさま 追伸です
「ヴォツェック」の日本語対訳がなかったので、ベーム盤の独英の対訳を見ながら、Shushiさんが仰っていた箇所、何度も聴いています。少し歌詞が分かると、Shushiさんが頭に鳴り響いていると仰っているところが少し分かりました。
ベーム盤も良さそうですよ〜。
ミ(`w´彡)
Shushiさま お早うございます
一回聴いただけで虜になってしまう音楽もあれば、何度も何度も聴かないと分からないし、何度も何度も聴くことで聴く楽しみが増えていくものもあるでしょうね〜。
ベルクの作品では、「抒情組曲」は割と聴いているものです。オペラよりは聴きやすいように思います。私は、ジュリアードのもの、ラサールのもの、「抒情組曲」からのオケストラ盤(カラヤン盤)などを聴いています。弦楽四重奏曲も、ラサールのもので持っているのですが、なかなか難解で、まだまだ私には分かりません。
繰り返しに耐える音楽だとは思っていますので、これからも挑戦していきますね〜。
ミ(`w´彡)