Form und Materie

先だっての戯言の続きです。

現在のクラシック音楽の潮流として中心にあるのは過去の作曲家の音楽を演奏するということですが、当然のことながら旋律、和声、拍節を変えることはおおっぴらには出来ない。細かい譜面の修正や省略などは行われていますけれど。

そこで演奏者に求められるのは主に1)速度、2)音量、3)音色(サウンド)のチューニングです。他にも4)アーティキュレーションの解釈もあったりしますので、まあ主にこの4つでしょうか。

解釈の多様性をもってオリジナル音楽の意味をほぼ無限大に拡張するのが現代のクラシック音楽でして、フレーズを作り出したり、和声を作ったり、リズムを変えたり、という作業は、カデンツァや通奏低音などを除けばほとんどないでしょう。あ、歌手にあわせて転調して演奏することもありましょうかね。

これって、ものごとを質料と形式、あるいは内容と形式、と言う風に古典哲学的に分別して整理してしまうというのが、私の悲しい性。何でも質料形式に分解したくなってしまう挫折学生の悪癖です。

で、旋律、和声、拍節を質料としてとらえ、速度、音量、音色、アーティキュレーションを形式と捉えると、今の音楽のあり方は、素材を解釈して再生産するという過程であると言えましょう。質料=中身よりも、その見せ方、弾き方、解釈の仕方で勝負をしているのが現代クラシック界でしょう。(オペラ演出の問題もありますが、それは音楽の解釈性とはちょっと外れますのでここでは割愛します)

もう、「内容」をどうこうするのは野暮である、という時代なのでしょうか。これって実は文学においても同じで、純文学の世界では「内容」がどうか、という問題よりも、どれほど新しい形式を持っているのか、という方向に進んでいるようです。私は現代思想はさっぱり知りませんので、ここまでしか書けませんけれど、まあ、文芸評論の方々が書いてあることを読むと、物語の中身を楽しむ文学というものは、余りに当たり前すぎて論じる意味がない、というように読めることもありまして少々寂しいですね。

もちろん、文学もいろいろでして、SFとか推理小説なんて言うものもあります。ですが、SFもアシモフ的な内容を読ませるSFを脱却した新しいSFもあります。ディレイニーの「ノヴァ」を読んだのですが、私にはさっぱりでした。ほとんどジョイスを読んでいるかのような感覚。あ、私はジョイスも全然読めていません……。

もう少し続きます。つづきはまた。