予想通り、本日読み終わりました。「ロスト・シンボル」。ちょっと意外な感想を持ちました。
最初は、娯楽小説を読む気満々で、読んでいて、たしかにそう言う目的は達せられました。それぐらい面白い。ちりばめられたある種衒学的とでも言われてしまいそうなほど、トリビアがたくさんで、目もくらむばかりの万華鏡なんですが、結末に至るにつれて、私の中の古い血が騒ぎ出した感じ。
昔、リッケルトという哲学者の本を読んでいましたが、彼はこういうことを言う(私の誤解でなければ)。
_昨日の私と、今の私は、時間的に隔絶されている。にもかかわらず、昨日の私と、今の私は、同じものとして何かしらの結びつきがある。記憶があったり、考えが似通っていたり。時間が経ったからといって、別人であるということは言い難い(そうも言えない場合もあるけれど)。_
_それと同様に、空間的に隔絶されている人間の間にも何らかの関連性があるのではないか。だからこそ、相互理解が可能なのである。それを可能にせしめているのは、人間の意識を極度に抽象化した意識一般Bewußtsein Überhauptとも言えるものなのである。_
かなり、私の主観が入っているけれど、こういうことを言っていたはず。「認識の対象」という本ですが。
うーん、私は、さっきまで、このリッケルトの考え方について行けなかったのですよ。
時間と空間を同列に扱うあたりは、あまりに純朴なカント主義者という感じがして、この考えを理解したり、体験したりすることはなかったと思っていたんですが、「ロスト・シンボル」を読んで、ちょっと考え方が変わった気がします。
他人同士なんて、全く理解できないと思っていたけれど、それでもなお、その可能性を求めて、哲学を始めたわけですが、結局答えは見いだせなかった。なぜなら、そこに科学的な方法論を確立するためだけの、方法論としての哲学、基礎付け学問としての哲学しか見いだせなかったから。
それは内容のない空疎なものに思えてきたという感もある。もちろん、僕の哲学センスがないと言うだけなのかもしれないし、勉強不足だったとも言えるけれど。もう少し、内容まで踏み込んでも良かったはず。あまりに形式にこだわっていたので。
ここでいう形式とは、カントで言う感性と悟性で、内容というのは、謎のもの。哲学において、内容を語るのは危険だと思っていましたから。語った時点で、それは宗教となり、僕らの言葉で言うと「抹香臭い」考えになってしまう。それは、ダークサイドに落ちるのと同じぐらい忌避されていたので。少なくとも僕の周りではそうだった気がする。だから、形式のほうへと逃げ込んでいって、気づいたら何もなかった、という感じだった気がする。
でも、もしかしたら、リッケルトの言うように、空間を隔絶していたとしても、なにかしらつながりはあるのかもしれない。そんな非科学的なこと、とか言っているのは、単なる偏った態度なのでないか。哲学を放りだしてしまったのは少し残念だったのかもしれない。
「ロスト・シンボル」で教えられるまでもなく、科学を押し進めた先に、なんらか宗教的なものが存在するというのは、予備知識としてあったけれども、それを自分のところまで引き下げて考えたことはなかったんだが、もう少し自分のところまで引き下げて考えてもいいのではないか。
何を言っているのか分からないかもしれませんが、結論を一言で言うと、単なる娯楽小説以上の体験が出来たと言うこと。
最近、辻邦生の永遠性の問題とか、一回性の問題とか、そういうことを考えている時期だったので、かなりの刺激を受けました。アマゾンの評価では、賛否両論あるようですが、まあ、私としては大変貴重な本に出会えた、と思ったのでありました。
意外な感想を──ダン・ブラウン「ロスト・シンボル」