「嵯峨野明月記」つれづれ
今日も無事に仕事を終えました。なんだか細々と忙しいですが、回っているコマは倒れませんので、しばらく回り続けることにします。
以前にも書きましたが、辻邦生の「嵯峨野明月記」を読んでいます。四年振りに読んでいるのですが、これまでは中公文庫版で三回ほど読みましたが、最後に読んだ四年前に、付箋を山嵐のように付けてしまいましたので、今回は重いのを承知であえて全集版で読むことにしました。
「嵯峨野明月記」は、全集の第三巻に「天草の雅歌」とともに所収されています。
しかし、俵屋宗達のモノローグを読んで感じるのは、よくもこれだけ画家に憑依して語ることができるなあ、ということ。画家の素養がなければ恐らくはここまで書けないのでは。もちろん、その後ろには、哲学的ないしは美学的な裏打ちがきちんとなされているわけです。恐らくは西田幾多郎の影響が色濃く感じられますし、ハイデガーの芸術論や最晩年の芸術論集である「薔薇の沈黙」で語られるセザンヌ論などが影響しているのだろうとは思います。辻文学は奥深い。哲学や美学の素養も必要ですから。私には哲学の素養も美学の素養もなさそうですが。
「春の戴冠」も、「嵯峨野明月記」と同じく画家が主人公ですが、あの本もやはり哲学的色彩が極めて濃かったです。ルネサンス期の新プラトン主義とキリスト教哲学の融合が通奏低音のように響いていましたから。
あとは、今回「嵯峨野明月記」を読んで感じているのは、文章の中に潜んでいる音の数々が実際に耳元でなっている様に思えていること。例えば、月に照らされた海岸の波の音と松籟の音の描写に、心底感嘆しています。それからちょっとした人間の動作が、その人間の性格を言い当てているようなところは、「小説の序章」で語られるディケンズ論との関連が感じられます。この方法もやっぱり「春の戴冠」でも数多く登場しました。
今日、この文章を書く中で、「嵯峨野明月記」と「春の戴冠」の類似性に思い当たりました。二つの小説の舞台は、一方は安土桃山時代、一方はイタリアルネサンス。時代は100年ほどしか離れていません。場所は地球の裏側ぐらい離れていますけれど。この二つの作品の中に立ち現れる芸術論の比較とか、「橄欖の小枝」や「薔薇の沈黙」などの芸術論との比較分析とか。私がもう15歳若ければ、取り組めたのですが。実に興味深いテーマです。今からでも遅くはないかもしれません。
ディスカッション
私も再読して宗達が絵を描く場面に感銘を受けました。辻さんのスケッチや
特徴を捉えたハガキのイラストを見るにつけその観察力はもちろんですが、
かなりの画力の持ち主だったことを展示会で見て確信しました。自分でもに一年に一枚は絵を描いていることもあり、をのむような興奮とともに読みました。上岡さんご指摘の音はなるほどそうだったと気づかせてもらいました。
東と西で似たような時期があったのはとても刺激的で知的興奮を呼び起こす
命題だと思います。 比較文化論にも感心がわいてきます。
箭内さん、ありがとうございます。
あらためて8年前のエントリを読んで、さまざま思い返しました。その後、辻さんのイラストを見るにつけ、なるほど、そうか、と思いました。あそこまで絵画の描写は普通はできないのでは、と。
比較文化も辻さんを語るためには必要な視点かもしれません。