辻佐保子さんを悼んで
はじめに
昨年12月末に辻邦生の夫人で、西洋美術史家の辻佐保子さんがなくなりました。
少し時間が経ちましたが、私なりに咀嚼する時間が必要だったようです。
“http://www.asahi.com/obituaries/update/1226/TKY201112260672.html":http://www.asahi.com/obituaries/update/1226/TKY201112260672.html
2004年でしたでしょうか。辻邦生氏の展覧会が学習院大学で開催された折、講演会を聞きました。その翌日、所要のため再び学習院大学を訪れた折に、展示ケースに収められた辻先生の遺品を落ち着いたお顔で眺めて折られる佐保子夫人の姿を見かけたのが昨日のように思い出されます。あの時お声をおかけすればよかった、といつものごとく激しく後悔しています。
これでなにか大きな区切りがついてしまったような寂寥感。涙が止まりません。
記憶が歴史に変わるとき
戦後日本の発展は経済面だけではなく、文化面においても目覚しいものがあったと思うのです。それは、戦前のアンチテーゼであったがゆえに、平常時に比べて強いものだったはずです。失われた理想を取り戻そうと躍起になった偉大な人々がたくさんいらっしゃったのです。
辻邦生の文学の源泉は、終戦で瓦解した「世界」を立て直すための試みであったはずで、それが、いわゆる辻邦生の重要な三つの直観の一番目である「パルテノン直観」にて基礎付けられたのでしょう。世界は美が支えている、という思うだけで涙ぐんでしまうような愚直でありながら正直で高邁で不可能な概念。この概念を背負って50年間も書き続けた辻邦生の勇気や想像力や精神力はいかばかりのものか。私には想像を絶するとしか言いようがありません。
そして、その生き証人である佐保子夫人が天に召されたという、大きな哀しみ。とてつもなく大きなものが永遠に失われてしまったという喪失の直観でした。これが記憶が歴史へと姿を変え始めると言うことなのでしょう。
ただ、今頃は、ご夫婦で談笑しておられると思います。そう思うことにします。
今朝も、会社に入ろうとする際、乱立する高層マンションを仰ぎ見て、大きな違和感を感じました。
戦う前にすでに白旗をあげる兵士もいるでしょうから。
2004年当時に前身のブログに書いた講演会の模様を以下のとおり転載します。
辻邦生展(2) 辻佐保子さん講演会
2004年11月28日 23:55
11月27日15時より、学習院百周年記念会館3階小講堂において、辻佐保子さんの講演会が開催された。辻佐保子さんは辻邦生さんの奥様であるが、ご自身も美術史家でいらっしゃり、女性初の国立大学教授になられたという方である。
15時開始のところ、14時から受付開始であったが、受付開始早々から来場者が続き、開始前には会場に入りきらないほどの来場者で、講堂の入り口のドアを開け放してロビーに椅子を並べているような感じ。大盛況であった。
学習院大学と辻邦生さんのつながりについて最初に話された。
学習院大学フランス文学科は鈴木力衛さんというフランス文学者を擁していたわけだが、実は佐保子さんは鈴木力衛さんの姪に当たるのだという。その関係もあって、辻邦生さんがパリ留学する前の31歳のときから学習院大学で教鞭を執るようになったのだそうだ。
また、学習院大学のフランス語非常勤講師であった、マリア・ユリ・ホエツカ夫人についても語られた。この方は、「樹の声海の声」の咲耶のモデルになった方とのこと。ご主人が入院されていて、苦労されていたことから、「樹の声海の声」の原稿料の半分を渡していたそうだ。展示会には、ホエツカ夫人の写真などが展示されていたが、古き良き美しき女性という感じだった。「樹の声海の声」が実話に基づいているということに初めて気づかされた次第。
展示では、「春の戴冠」の成立過程に関する資料を中心に展示されていたわけだが、辻邦生さんは「春の戴冠」をもっとも不遇な作品とおっしゃっていたとのこと。1977年に上下巻が刊行されるが絶版となった。文庫化もされなかったわけである。1996年に一冊本として再版されたが、これは辻邦生さんの希望によるものだそうだ。「西行家伝」が好評だったので、お願いしたとのそうだ。確かに「春の戴冠」は長いけれど、「背教者ユリアヌス」以上に辻文学の真髄を伝えていると行っても過言ではないと思う。佐保子さんからこの「春の戴冠」のあらすじと、それにまつわるエピソードが紹介された。フィレンツェに「お礼参り」に行ったときに、花のサンタマリア大聖堂の天蓋の螺旋階段で読者にばったり出会われたり、ウフィツィ美術館の「ヴィーナスの誕生」の前で読者夫婦と会われて、4人で広場でカンパリで乾杯をした、といったエピソードが紹介された。
このボッティチェルリのフレスコ画がお好きだったとのことで、ルーブルに行ったら必ず見に行かれていたそうで、「春の戴冠」のなかにもこのフレスコ画について言及されている部分がある。
最後に質問を受け付けていた。興味深いものとしては、歴史小説を書く上での方法論(資料の整理方法などを含む)については、トーマス・マンの「ファウストゥス博士の成立」を参考にしていた、ということが紹介されたこと。これももしかしたらどこかに書いてあるかも知れないが、初めて認識した話。早速読んでみなければなるまい。
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