マリエッタの正体──新国立劇場《死の都》その4

せっかくの禁酒を超克して、現在燃料補給中。
今日はこちらで燃料補給。
引き続き《死の都》。本当に考えることが沢山です。
このオペラは、第一次大戦後に初演されました。失われたものへの惜別と、あらたなものへの希望、というテーマは、まさに戦間期ヨーロッパにおいては求められていたものに違いありません。これは、先日のオペラトークで音楽学者の広瀬大介さんがおっしゃっていたことです。
では、次の希望とはなんだったのか。残念ながらそれはナチズムでもあった、という可能性において気付くべきでしょう。ですが、ナチズムは第一次大戦前の模倣に過ぎないという見方も出来ます。
マリエッタが、失われたマリーの記憶であるとしたら、19世紀の失われたドイツ帝国のそっくりさんは、ナチズムに当たります。
マリエッタこそが、奇怪なナチズムだったのか、と思うと、驚きを禁じえませんが、古きよき価値を纏いながらもそこになにかしらの胡散臭さや危険性を感じるという意味では、マリエッタがナチズムの予感だとしても驚くことはありません。
マリエッタの所業は夢でした。夢でよかったのです。ですが、現実は夢ではありませんでした。マリエッタの激しく妖しいダンスの禍々しさがそのまま欧州大陸を覆ってしまったのでしょう。
コルンゴルト父子は、惜別を過去への追想を超えた、全く別の次元のものとして考えていました。ですから、パウルは、ブリュージユを去ったのです。
失われたものを取り戻すということは、そういうことなのかもしれせん。
我々は今喪われたものを取り戻そうとしているのでしょうか。実はそれは危険なことではないか。マリエッタと懇ろになり、身を滅ぼすものではないのか。そうしたことに思いを巡らせた一日でした。
グーテナハトです

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