Tsuji Kunio

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暑熱のなかにたたずむ学習院大学史料館の遠景です。昨日に続き、辻邦生──西行花伝展についてです。今日は展示されていた自筆の日記から。

辻邦生が日記を書いていたことはもちろん知っていました。ですが、実物を見たのは初めてでした。

JOURNALという標題がついていて、ローマ数字でナンバリングされていることも初めて知りました。私が見た1990年の日記は、方眼(今風に言うとグリッド)のノートに縦書で丹念に書かれていました。

見開きで展示されていた日記は1990年11月4日(だったと思いますが)でして、「西行花伝」の書き出しに苦心している記述があるもの、と紹介されていました

ですが、私はその前日である1990年11月3日の日記に心が奪われたのです。

ここには、モームが自身の文学を悔恨するセリフが書いてあったと記憶しています。モームは通俗作家として名前が残っています。つまり大衆文学を書いていたということです。日記には「大衆文学は面白さは、文学は真実を求める」と書いてあります。細かい記述までは残念ですが記憶から薄れつつありますが、そうした切り分けについて、大きな問題意識を持っているということが書かれていたはずです。

おそらくは、辻邦生にとって、面白い物語を創るということが、最上だったはずです。「背教者ユリアヌス」も「春の戴冠」も、そうした、ストーリーの面白さが横溢する作品です。そして、そのなかには哲学的とも言える真実の探求が織り込まれているわけです。ちょうど、美しい絵画のなかに、様々なアトリビュートが織り込まれていて、その作品の中の隠された意味が立ち現れるように。

ですが、文壇からはそうは取られていなかった、ということなのでしょう。歴史小説自体が、おそらくはそうした純文学側からは、異色に見えていたのではないでしょうか。(これも出典が不明確で申し訳ないですが)、四半世紀ほど前に、井上靖の「孔子」が、「あれは文学的だが、文学ではない」という評論を読んだことがありました。あれこそが、「純文学」からみた歴史小説観であったのではないか、と想像しているのです。

がゆえに、辻文学の文壇での評価が分かれていたのではないか、と思うのです。純文学において、こうした物語文学が異色であったのは、おそらくは、この「面白さ」というものに対する、違和感のようなものがあったのではないか、ということです。

(歴史とはつまり物語ではないでしょうか。ドイツ語のGeschichteが物語と歴史という両方の意味を持つように)

ですが、私は、この「西行花伝」が評価されたという点において、面白さと真実が結合した、あるいは、面白さと真実の壁を超えた、と、文壇に捉えられた、ということを示唆しているのではないか、と思うのです。がゆえに、昨日書いたように、「廊下に立たされていたが呼び返された」ということになるのではないでしょうか。

なにか、その事実が、「西行花伝」を書き始めた前日の日記に書かれていたということが偶然には思えないのです。

次回も引き続きです。

暑熱が続きますが、どうかみなさまご自愛下さいませ。おやすみなさい。グーテナハトです。